その言葉に意味を足したい
増田朋美
その言葉に意味を足したい
寒い日であった。もう新しい年になったのは確かなのだが、それなのにそうなったと実感できないのはなぜなのだろうか。そのうち、嫌な話ばかりが続いて、正月を祝うという習慣は、なくなってしまうのかもしれない。そんな不安がつきまとう日々が続いていた。新しい年をどうのなんて気分になれる人は、ほんの少数で、大概の人は、生きていても仕方ないと落ち込む人がほとんどだろう。
そんな中、製鉄所だけは、いつもと変わらず稼働していた。製鉄所を利用したいという女性たちは多くなるばかりなのだ。確かにテレビでは災害の話ばかりで、すべてのテレビドラマや歌番組などは中止になってしまっているし、どうせ偉い人たちが明日は我身と不安を煽るばかりで、見ても面白くない。それに、本を読んでも今の時代にも感動できるような内容を書いてくれる本は、本当に少ししか無いだろう。もちろん、名作はいつの時代でも名作なのかもしれないが、もうそれが通用しないというか、そういう名作の内容も、ただ懐かしい気持ちを募らせるだけで、読んでも意味がないと思われるものばかりなのだ。退屈をしのぐ道具というか、そういうものがどこにもないと言うのが、現在の時代というものであった。そうなればただでさえ憂鬱になるだろう。それを強く感じてしまって、自分でコントロールできない精神障害者たちは、不安になって暴れたり、叫んだり、時には自殺を図ったりするのかもしれない。だから、それを阻止する必要があって、障害者の家族が、製鉄所に助けを求めてくるのであった。現在の製鉄所の利用者は、7人の女性がいる。一応、10人としているけれど、来月は、更に二人利用を申し込んでいる人がいて、製鉄所は、困ってしまうのであった。ちなみに製鉄所とは、鉄を作るところではなく、勉強や仕事をするための部屋を貸している福祉施設で、工場ではない。
その製鉄所の四畳半では、杉ちゃんが一生懸命水穂さんにご飯を食べさせようと躍起になっているところだった。ずっと寝たままの水穂さんは、どうしても、ご飯を食べてくれない。薬は飲むことができるけれど、食べようとすると、咳き込んで吐いてしまうのである。肉や魚などでは、アレルギーがあるので、食べさせていないのであるが、当たらない食品を十分に吟味して料理しているのに、それでも食べるということができないのであった。飲むことはできるから、飲み込むことができないというわけでもない。そういうわけで、理由はわかっていない。だけど、水穂さんにご飯を食べさせるのは至難の技でもある。その日も、杉ちゃんが作ったおかゆを一生懸命食べさせているが、水穂さんは、それを口に入れることはできても、咳き込んで吐いてしまうのであった。杉ちゃんは、もういい加減にしろと水穂さんに言ったのであるが、
「おーい水穂!ちょっとレッスンしてほしいやつが居るんだ。大急ぎでやってくれないか。よろしく頼むよ。」
と、でかい声で言いながら、広上麟太郎が製鉄所の玄関をガラッと開けた。ちなみに、麟太郎と水穂さんは、同じ桐朋音楽大学であったが、学生時代、親しく付き合っていた事は無いと言う。それなのに麟太郎が、水穂さんに、ピアノのレッスンを依頼するようになったのは、麟太郎が、富士市内のアマチュアオーケストラを指揮するようになってからだった。
「ほら、こいつだよ。大丈夫だ。何も怖がらなくていい。音大の先生みたいな怖い人じゃないから。それに簡単に人を捨てたりするような無責任なことは絶対する人じゃないよ。」
どうやら麟太郎は誰かを連れてきたらしい。杉ちゃんが、今はそれよりご飯を食べさせたいのになあというが、それも構わず、ズケズケと、麟太郎は、四畳半にやってきた。
「こいつだよ。名前は土谷みずきさん。今から、グリーグのピアノ協奏曲を弾いてもらうから、できる限りの批評をしてやってくれ。じゃあ、よろしく頼むよ。」
麟太郎は隣にいた女性を指さしてそういった。女性は、たしかに可愛らしい感じの人で、ピンクの薔薇柄の着物を着て、袋帯を文庫結びに結んでいるのであるが、どうもおかしなところがあった。何故か女性の着物としては、裄が短すぎて、袖が肘からすぐ下までしか無い。それに、女性の着物にはよくある、おはしょりというものがない。最も、最近になって、背の高い女性が増えてきているから、おはしょりができないで着物を着ているのもおかしなことでは無いが。
「土谷みずきと申します。よろしくお願いします。右城水穂先生ですね。」
と土谷みずきと紹介された女性は言った。
「ええ。ですが、右城は旧姓で、現姓は磯野です。よろしくお願いします。」
と、水穂さんは偏見なく、挨拶したが、その女性は確かに、女性の声をしている。だけど、どこか違うような気がするのだ。なんだか女性の声であっても、なんだか人為的に作ってしまったような声というかなんというか、、、。
「はあ、お前さんの名前は確かに土谷みずきと言うんだね。」
と、杉ちゃんがいきなり言った。
「ええ。そうです。私は土谷みずきです。」
と、彼女はそういう答えてくれたのであるが、どうも変だった。
「それでは、音大はどちらで?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「音大は行っていません。」
彼女はそう答えた。
「そうなんだね。まあそれなのに協奏曲を弾くなんていい度胸だな。誰か、音大の先生にでも着いたのか?」
杉ちゃんが聞くと、
「いえそれもしていません。ピアノを習ったのは、小学生までであとはずっと一人でやっていました。」
と彼女は答えるのだった。
「そうなんだね。それでは、どうして協奏曲を弾いて、広上さんと知り合いになれたんだろうね?どういう接点だったのかな?」
杉ちゃんは疑わしそうに聞いた。
「ええ。接点は特にありませんでしたが、私がピアノ演奏を動画サイトに投稿したところ、広上先生が、ぜひうちで協奏曲をやってくれって行ってきたんです。私、びっくりしました。だけど、広上先生は、本気みたいで。」
「もうもったいぶってないでさ。演奏を聞いてみてくれ!音大がどうのとか、そういうことはどうでもいいじゃないか。そんな事を、ここで議論してもしょうがないんだよ。とにかくさ、絶対感動するんだから。それに、なんでそうやって彼女の事をほじくり返すような質問をするんだ?」
みずきさんがそう答えると、麟太郎が口を挟んだ。
「じゃあ僕も頭に溜まっていることを言うよ。広上さん、こいつは本当の女性じゃないだろ。言ってみれば、いわゆるお姉系の女郎さんでは?」
杉ちゃんがみんなが疑問に思っていることを言った。それなのに麟太郎は、
「そんな事気にしないで聞いてやってくれよ。俺たちはぜひこいつを、ソリストにして、今度の定期演奏会で弾いてもらおうと考えている。そのために、水穂、お前の力が必要だ。だから見てやってくれ。まあ確かに、戸籍上で言ったら、女性では無いのかもしれないけれど、でも、それをみんなに流布すれば、勇気づけられるやつだって絶対居ると思うんだ。だから、ぜひやってやってくれよ。」
何ていうのであるから、杉ちゃんも水穂さんも困ってしまった。
「そうですね、広上さん。そうやって、勇気づけようとするのはわかりますけど。」
水穂さんが小さい声で言う。
「でも、そういう人を、商品というか宣伝媒体にしてしまうのはどうかと思います。そういう、性別の事で苦しんでいる人は大勢いますけど、それを見せびらかしてしまおうなんて言うことは、ちょっと、やってはいけないことなのではないかと。」
「何だ。そういうことは、ルール違反とでも?」
麟太郎は、すぐに言った。
「ルール違反というか、障害や弱点を商品として売り出そうとすることは、僕はいけないと思います。それはある意味では、傷つく原因にもなるわけですから、それを人前でなんとかしようと言うことは、やってはいけないと思います。」
「そうかな。俺はそういう考え方は古いと思うよ。今の時代はどんなことだって、武器になる時代だよ。だってよく考えてみろよ。お前みたいに拒食症になったとしても、それを本にして売り出せば、また売れるようになるじゃないか。そういうふうに今は何でもありの時代なんだよ。だから、こいつを、ソリストとして売り出せば、絶対、すごいことになれるから。」
水穂さんがそう言うと、麟太郎はすぐにそう返すのであった。
「そうかも知れないですけどね。でも、人の辛いところを売り物にしようとか、そういうことはしてはいけないと思うんですけどね。例えば、新年早々、今年は、大きな地震があったりしましたけれど、その辛さ悲しさは商品にしてはいけないでしょ。それと同じだと思いますよ。」
水穂さんの言う通り、なかなか日本人は辛さ悲しさを表現するのは苦手な民族であるといわれている。でも、麟太郎はこういうのだった。
「いや、そういうことだって、今は何でも武器になるんだよ。そういうことだって他の地域で被災した人の励ましになるじゃないか。それに、被災した様子を、ビデオにとって、投稿するやつもいっぱいいる。だから、それはしてもいいって事になったんだと思うよ。それに、彼女が言うように動画サイトとか、そういうのもいっぱいあるんだし。もう隠しておく時代は終わったんじゃないのかな?」
「うーんそうだねえ。たしかに、僕が足が悪いのは隠しておいても隠しようが無いが、それを商売の元手にする、という考えはどうかなって僕も思っちゃうな。」
杉ちゃんが麟太郎に言った。
「全部のものが売り物になるわけじゃない。辛い体験を売り物にしようとか、そういうことはしないほうがいい。それは、無理なことでもある辛さ。人間何でも万能じゃないよ。それに、彼女に協奏曲弾かせようって言うのは、広上さんの策略でしょ。それは逆に、彼女のためじゃなくて、広上さんが自分の知名度をあげたいからだって批判するやつだって絶対出てくるぜ。」
「そうだけど杉ちゃん。そういうことなら、彼女の演奏を一回聞いてみてくれ。よろしく頼むよ。彼女は、すごい上手な奏者でもあるんだよ。」
麟太郎は、懇願するように言った。
「ほんならそうさせてもらうか。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんもそうですねといった。麟太郎は、土谷みずきさんに、水穂さんのピアノの前に座って演奏するように言った。みずきさんは本当にいいんですかといったが、麟太郎はいいからやってみてくれといった。みずきさんは、楽譜を取り出して、グリーグのピアノ協奏曲の第1楽章を弾いた。たしかに一生懸命やっているんだけど、やっぱり音大卒のピアニストが弾くような貫禄のようなものはなかった。ピアニストというものはただ音を間違えずに、全て弾ければいいのかというものではない。それだけではない。そのあたりを身につけるには、やっぱり、どこか許せる環境で研鑽をつまないとできない。
「そうですね。たしかに演奏技術はあるし、素人にしては、こんな曲を弾きこなせるというのはすごいことではあります。ですが、弾いているだけではだめなんですよ。例えば、強弱のこともそうですけど、単に強く弱くでは無いんですよね。もっと、曲の動きとか、そういうものを捉えて、自身で表現していくこと。これができないと音楽を聞かせるということはできないと思います。それに、あなたは、なにか辛そうな思いをして弾いているような気がする。音楽を聞かせるというのは、辛さを訴えるだけでは無いですよね。それ以外の感情を訴えることができるようにならないといけませんよ。」
水穂さんは親切に彼女に対してそういうのであるが、
「いや、それでいいんだ。演奏ができて、そういう過去があると打ち出せば、きっと周りの人は歓迎してくれるよ。それに今は、暗い世の中で、明るいものなどほとんど見つけられない世の中なんだし。明るすぎるより、こういう暗い過去を持ったヤツのほうが絶対に印象に残る。」
麟太郎は、彼女の事をそう言って宣伝しようと思い込んでいるらしい。
「そうですね。例えばですね。これを痛々しい雰囲気を与えないで、弾くことはできますかね。」
水穂さんは、布団から立ち上がって、机の上においてある楽譜から、一冊の楽譜を取り出した。
「ちょっと、初見で大変かもしれませんが、これを弾いてみてくれますか?」
そう言われて、土谷みずきさんは、その楽譜を受け取った。表紙には、気取ったアルファベットでゴドフスキーと書いてあった。もちろん、みずきさんに、そのキリル文字が読めるわけでは無いけれど。
「そうですそれを。その中のどれでも構いませんから。」
水穂さんがそう言うと、土谷みずきさんは、その中の第1楽章を弾き始めた。演奏技術というか、元々弾ける人ではあるようなので、一生懸命弾いてくれるのであるが、やはりゴドフスキーのピアノソナタは難易度が高すぎる作品でもある。いくら超絶技巧自慢のピアニストが弾いていると言っても、なかなか楽譜通りに弾けないと思う。土谷みずきさんも、なんとか弾きこなそうとしてくれているのであるが、やはり難易度が高いので、強弱もなければ、曲の雰囲気も掴めていない演奏になってしまった。
「やっぱりね。そうなってしまいますよね。いいんですよ。弾けなくて当然の曲なんです。でもこれも弾けるようにならないと行けないのが、ピアニストなんです。きっとそこが大きな違いだと思います。そういうこともできないとね。それが、できる人だけやればいい。それだけの、それだけのことです。」
「だけどさあ、俺は、彼女のそういう人と違うところを打ち出して、すごいやつだって思わせたり、同じ立場の人たちに、勇気づけさせたりすることだって、大事なんじゃないかなと思うけどな。それは違うのかい?」
麟太郎は、腕組みをしてそういうのであるが、
「でもね。広上さん。そういう事情がある人が、輝くのは、世の中が安定してなかったり、みんなが幸せを感じないときだけでしょ。それじゃ行けないんですよ。幸せは、健康でちゃんとやっている人たちが幸せを感じるときに初めて得られるものだから。そうじゃないときに、不自由な人が活躍するんです。」
と、水穂さんが言った。
「確かにその通りでもあるな。ちゃんと働いて、しっかり国家のために役に立っている人が幸せを感じられる世の中ではなくちゃ、他のやつも幸せでは無いわな。だって他のやつは、ちゃんと働いているやつが助けてくれないと、何もできないんだもんな。」
と、杉ちゃんがそういった。たしかにその通りなのであった。世の中というのは、不自由のない人に幸せを与えるものである。その人達が、憂鬱に暮らしていたら、ある種の異常事態なのである。
「だから、不自由な人に勇気づけるとか、そういう商売をしてもね、何も意味がないということですよ。それはまず初めに、不自由でない人に幸せを感じさせるようにしないとだめでしょ。それに、不自由だと自覚している人は、本当に少数でしょうから。それをしっかり守って生きていかないとね。」
水穂さんがそう言うと、
「俺はよくわからないな。俺だって、自分の事を不自由だと感じたことはあるし、今は、一度も傷ついたことのない人なんて、いないんじゃないの。それを、考えてくれれば、事情がある人が、ピアノやっても、何も悪いことじゃないと思うんだけどな。」
麟太郎は考え込んだ。
「でも、広上さんは忘れ物が多いから、いろんなもの忘れていって、きっと傷ついたことだって忘れちまうんじゃないの。」
杉ちゃんがすぐに言った。
「そうだねえ。たしかに、俺はこないだも、定期券をバスの中に忘れて、大変な事になったというのはあったけど。でも、それが何だって言うんだよ。みんな気にしないで生きているんじゃないの?」
「そうですね。皆さん気にしないで生きていけますよね。それができなくちゃいけないんです。だから、不自由な人が活躍できるというわけじゃないんですよ。それができない人もいるかも知れないけれど、基本はできなくちゃいけないんだ。そこら辺は世の中、単純じゃないですよ。」
水穂さんはそういったのであった。土谷みずきさんは、水穂さんたちのやり取りを聞いてなにか感じ取ってくれたらしい。
「先生、ありがとうございました。あたしのような、年齢も性別もはっきりしない人間を相手にしてくださってとても嬉しかったです。あたしたちはまず、商売がどうのというより相手にされないことのほうが問題ですよね。そうですよね。だって、できなくてはいけないことが、あたしには、できないですもの。それは先生が言うとおりだと思いますよ。それに私みたいな人が活躍できるのは異常事態ということもわかります。だって、そうですよね。それは見ればわかるじゃないですか。」
そう土谷みずきさんは言った。麟太郎はそんな事言わないでという顔をしたが、
「でも、今日ここへ来られたことも、先生と一緒に居られたことも忘れませんから。あたしは、忘れられないということもできるんです。」
土谷みずきさんは、静かに言ったのであった。
「そうだね。お前さんは、本当に傷ついていることもあるだろう。本当の傷って、他人には理解されることは絶対ないと思うし、自分で解決していくしか方法は無いと思うけど、それは、乗り越えて行かなくちゃいけないんだ。辛いけど、人生頑張れよ。」
杉ちゃんに言われて、みずきさんはハイといった。
「ちなみにあたしは、戸籍名も土谷瑞樹なんです。だからそれをひらがなにすればいいだけ。なんか便利な名前にしてくれてよかったのかなと思っています。良かったことは、、、まあそれだけかな。でも、世の中なんてそんなものですよね。」
「そうそう。そういうふうにちょっとのことでこじつけて、世の中渡り歩いて行かなくちゃいけないんだよな。人生なんてそんなものさ。迷わずに頑張れ。」
杉ちゃんがそう言うと、土谷みずきさんは、杉ちゃんと水穂さんの前に座って丁寧に座礼し、
「ありがとうございました。」
とにこやかに言った。
その言葉に意味を足したい 増田朋美 @masubuchi4996
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