前進

 理央が決意をした日から数週間たった。

「連れて行きたいところがあるんだけどいいかな」とおれは理央に言った。その場所でどうしても理央に話したいことがあった。

 2人で電車に乗りその場所へ向かう。電車に2人で乗ったのは理央が過去を話してくれたあの日以来だ。

 電車から降りてしばらく歩いた。

「不思議だね。初めて来た場所なのに、なんだか見たことあるような気がする」と理央が言った。

 おれは立ち止まった。

「10年くらい前にあった事件だ。ここで小学生が無差別に包丁で襲われた。3人の子どもが死に、およそ20人の子どもが怪我をした。今でも平成の大事件として、テレビでとりあげられることがある」

「それで、見覚えがあったんだ…」

「おれの幼稚園の友達が被害者の一人だった。たっちゃんと呼んでいた」

 たっちゃんはおれのことをはるくんと呼んでくれた。そんなことも思い出す。

「たっちゃんはいつもにこにこしていて、誰とでも仲が良かった。たっちゃんの笑顔を見ているだけで幸せな気持ちになれた。子どもだけじゃない、大人もだ」

 喉が詰まったようになる。でも、話さなくては。

「おれは私立の小学校に行ったから、小学校は別々だった。でも、たっちゃんはきっと小学校でも愛されていたんだろうな。事件でたっちゃんは一命はとりとめた。でも、事件の後遺症は大きかった。しばらくして、家にお見舞いに行った時、たっちゃんは…笑わない子になっていた」

 声が震える。でも、泣きたくない。泣いてしまったら話せない。

「無理もないよな。目の前で友達が血まみれになって死んでいったんだ。誰でもショックを受ける。お見舞いに行ったおれたちの言葉にも反応してくれなかった。たっちゃんは結局、この地から離れた。ここで生活するのはあまりに辛かったんだろうな」

 無表情なたっちゃんの顔、それは生涯忘れられないだろう。

「犯人の動機は、『誰でもいいから殺したかった』だ。そんなやつのためにたっちゃんの心は殺されたんだぞ。そんなやつのために…。たっちゃん以外にもそういう子はいただろう。あいつが殺したのは3人、傷つけたのは20人。でもな、その子の両親、祖父母、友達、先生、関わっていた全ての人間が事件の被害者だ」

 理央は黙っておれの話を聴いている。この道は、あの惨劇を知っているのだ。

「でも…。色々な経験をして自分のことを振り返った。おれが犯人にならなかった理由ってなんなんだろうって」

「どういうこと」

 理央が少し驚いたように言う。

「おれは濡れ衣を着せられて、色んな奴らを憎んだ。正直、殺してやりたいと思うやつもいた。もう少し追い込まれていたら、やっていたかもしれない」

「春原君はそんなことをしない」

「違う」

 おれは言うべきか少し迷ったが続けた。

「言ってなかったんだけど、一回だけ学校にナイフを持って行ったことがある。鞄の中にずっと隠し持っていた。もう少しでおれは本当の犯罪者になるところだった。でも、おれは結局ナイフを使わなかった。それで、考えたんだ。おれを止めたものはなんなんだろうって。単純な答えかもしれないけど、それはやっぱり本だったように思う」

 あの時、本がなかったらおれの心は完全に壊れていた。

「もちろん、本を読んでも救われない人間はいると思う。でも少なくともおれは多くの本に生かされた。その中にはもちろん理央の小説も入ってる。本を通じて、自分の中に色々な物語を持っている人は結果的に強くなれるんじゃないか」

「物語を持つ…」

「理央も確かに、一時は弱くなったかもしれない。でもそれまでにためていた物語は消えてなかった。だから、立ち直ることができた。今まで言われた嫌な言葉がたまっていたように、心の奥底に、自分を癒す物語も持っていたんだと思う。理央…。理央がどんな物語を紡げるかは無限の可能性がある。前も言ったけど、表現が人を傷つけることだってある。でも、救う力も確かにあるんだ。それを忘れないで、勇気を持って物語を紡いでほしい。どうしても、それを伝えたかった」

 それを伝え終わった時、ほっとした気持ちになれた。理央はきっとわかってくれる。そう信じていた。


 次の日、理央が部室に入って来てすぐに「『アキの友達』持ってる?」と言った。

「あぁ、持ってるよ」

 おれは、『アキの友達』を理央に見せないように持ち歩いていた。理央がいつ決意を固めても良いように。

「貸してくれる?」

 いつか、この日が来ると思っていたが、いきなり言われて少し驚いた。「無理するなよ」と言いながら、理央に本を渡した。

 理央はゆっくりとページをめくった。一つ一つの文字を愛するように見ている。

 おれは理央から目をはなすことができなかった。

 理央と出会った日、体育倉庫に閉じ込められた日、抱きしめた日。そんなことを思い出していた。

「読める…。私、小説が読めるよ…。春原君」

 10ページ程、読んだところで理央が言った。

「春原君、書きたいことがわかった。まだ、出だしも結末もわからないけど、この物語の続きを私は書きたい。二人をこのままにしたくない」

「おれもその続きを読みたいと思ってた。良かったな、理央、小説が読めて、本当に良かったな」

 その日は、曇り空から晴れになった日だった。それが理央への祝福のように感じた。

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