決意の夜

「中学の時、トイレで、リストカットをからかわれて、生理だったから汚いって言って」

 松野さんはおれにいじめられた経験を泣きながら必死に話してくれた。松野さんは中学の時からリストカットをしており、それをトイレでクラスメイトに見られ、スカートをめくられ下着も見られた。その時、生理だったため、下着に血がにじんでおり、汚いと言って水をかけられたらしい。

 おれは聞きながら腹が立ってきた。

―こんなにひどいことをされている松野さんを見て周りのやつらは何をしてたんだ?

 しかし、自分のことを思い返すと、おれのことも誰も助けてくれなかった。助けたいという気持ちのやつもいたはずだ。でも、助けたら自分が標的になる。それが怖いのだろう。その気持ちはわかるような気がした。

「ごめんなさい。本当に迷惑かけちゃって」

 落ち着きを取り戻した松野さんが言った。

「いや、大丈夫。松野さんの本音が聴けて良かった。それにさっきの言葉はおれもずっと言われたかった言葉だったから。ひどいことされたな。そんなことされたらパニックになるよな」

「でも、その時は、以外と冷静だったかも。心を殺していたからかな。不思議だね」

「そういうことあるよ」

 松野さんはおれの姿を見ながら「春原君…。今さらなんだけど、怪我大丈夫?私、自分のことばっかりで、春原君の方が痛い思いしているよね。それからカッターのこと…本当にごめんなさい」と言った。

「おれは大丈夫。この前、言ったよね。殴られるのは慣れてる。まあ、慣れちゃいけないんだろうけど。カッターのことに関しても、謝らないで。あれを止める心を持っていたことに安心した」

 おれはまだ、人に対して無関心ではなかった。昔の自分がまだ心の中にいたのだ。

「それより松野さん、あの時の言葉、覚えている?」

「あの時って?」

「あの、おれが『信用できない』って言ったこと。知らなかったとはいえ、事情を抱えた松野さんにあんなことを言ってしまって、申しわけなかったなというか、本当にごめん」

「それは、気にしないで。確かに少し傷ついたけど、春原君にも色々と事情があったわけだし」

「それは言い訳にならないけど…」

 そうだ、あんな言葉は言うべきではなかったのだ。自分が傷ついたことを、人を傷つける言い訳にしてはならない。

「春原君、私ね。私も濡れ衣で責められたことがあるの。中学の時。展示していた制服が盗まれて、犯人は私じゃないかっていう噂が流れた。職員室にも呼ばれて、正直に言ってほしい。今ならお前は更生できるって生活指導の先生から、熱心に言われた。先生は親切のつもりだったんだろうね。その後、実際の犯人がわかった。でも、私に謝ってもくれなかったよ。春原君の苦しみに比べたら、私のされたことなんてたいしたことないかもしれないけど、苦しさはわかる、ということを伝えたかった。本当は春原君が過去を話してくれた時、言えば良かった」

 松野さんがこんなにしっかりと話すのを初めて聴いたようなきがした。松野さんは少しでもおれの気持ちに寄り添いたかったのだろう。

「話してくれてありがとう。お互い、苦労してるな。辛いもんだよな、わかってくれる人がいないって。誰かを悪者にしないと物事が前に進まないんだろうな」

 おれは辺りを見渡して「運よく誰か、開けてくれたらいいんだけどな」と明るい口調で言った。少しでも松野さんに安心してほしかった。

「こんなところじゃ、眠ることもできないし…。あっ、備え付けの懐中電灯がある」

 懐中電灯の明かりをつけた。

「光があるとやっぱり安心するな」と言い倉庫の隅の方を見た。すると何かが落ちているのがわかった。

 ゴミかと思ったら本だ。それを手に取りページをめくった。

「だめだ、シミがあったりしてぼろぼろで、ところどころしかわからない。図書室の本みたいだな。下手に触ったら壊れそうだ。何でこんなところにあるんだ?」

 松野さんが近づいて来た。

「それ、ちょっといい?」

「松野さん、本はだめなんじゃ」

「そうだけど、それなら平気な気がする」

 少し、心配だったが、松野さんに本を渡した。松野さんは受け取り、少し息を吐くと、そっとページをめくり、ところどころ、残った文字を追いかけた。

「かわいそうだな、この本。色んな人に読んでもらえる予定だったのに、こんな風になっちゃって」

「ああ、修復できるのならいいけど、これじゃあ無理っぽいな。誰かが忘れてそのままになったんだろうな」

「私、小さい頃、図書室の本、好きだったの」と何かを思い出すように松野さんは言う。

「人の借りた本のほうが何故か落ち着いて読むことができた。この本を読んだ人と友達になったような感じがした。でも、小学校5年生くらいの頃かな。私が借りた本を見て、一人の男子生徒が『松野の借りた本は菌がついているから、おれ借りない』って言ったの。その子の発言にみんな笑って。それが怖くて学校の図書室に行けなくなった。おかしいよね…。私、悪いことしていないのに。でも、その時は、こう思ったの。私が触ることでみんなが借りないのなら、私は触らない方がいいって。図書室の本はたくさんの人に読まれないとかわいそうだよ」

 そう言いながら、松野さんは、また泣きそうになっていた。今度はその涙を止めたかった。

「おれは図書館で、誰も借りていないような本が好きだった。有名な作家だったり、賞をとったりしたわけではない。そんな本を見つけた時、とても嬉しい」と言いながら、松野さんの肩を軽くたたいた。

 女子の身体にこんなに触れて良いものか、と思ったが、とにかく、何かしたかった。

「春原君、お願いがあるの。私に本の話をしてくれない。なんでもいいの。春原君の好きな本の話を聴きたい」

「…わかった。辛くなったらいつでも言ってほしい。すぐに辞めるから」

 おれは最近、読んだ本の話をした。

「作品にとって題名というのはとても大切だと思う。どんなに良い作品でも、題名で判断されてしまうこともあるから」

 題名にひかれて読んだ、その本は、海外のミステリーだった。事件の謎も面白かったし、主人公と相棒の関係性も魅力的だった。

「この本の主人公は一見冷たく見えるけど、実際は情に厚くって、優しいんだ。周囲には中々理解してもらえないけど、相棒はその主人公のことを良くわかっている。その信頼関係が面白い。性格はまったく正反対の二人なのに」

 松野さんは興味深そうにうなずきながら、話を聴いてくれた。

「初めてだな、こんなに人に本の話をしたのは。読書は一人でやるものだと思っていたけど、こういう風に共有するのも楽しいんだな」

 その言葉に松野さんが笑ってくれたので「良かった。松野さんが笑ってくれて。初めて松野さんの笑顔みたかも」と言った。

「春原君の話し方が良かったから…。春原君が中学の時、人気者だったって本当のことだったんだね。今の話、すごく面白かった」

「そこは、信じてくれなかったんだ。無理もないよな。笑顔すら見せなかったし」

 そう言って笑いあった。こんなに楽しく過ごせる夜は久しぶりだ。その後、3冊程、本の話をした。

「色々な種類の小説があってバッドエンドも面白いんだけど、やっぱりおれは幸せになるような最後を登場人物たちが迎えてほしい。少なくとも、希望を持てるような終わり方をしてほしい。本の内容は終わるかもしれないけど、その人物たちにとってまだ人生は続いているから。フィクションの世界なのにな」

 おれがそう言うと松野さんは少し暗い表情になり「私の人生さ、このままいったらバッドエンドになっちゃうのかな。そして、この本みたいに、ボロボロになって誰からも必要とされなくなっちゃうのかな」と言った。

「おれも、時々考える。やってもいない罪で、ずっと責められる人生なんだろうなって。人から信じられない人生を送るんだろうなって」

「前、私をいじめてた人を見かけたの。楽しそうに家族と歩いていた。その家族はきっと自分の子どもがいじめに関わったなんて、知らないんだろうね。なんか悔しいな。知らなくて幸せな人がいるって」

 悔しい。忘れていた感情だ。

 あの事件が起こった直後は悔しかった。周囲がわかってくれなかったこと。過去をも否定されたこと。その全てが悔しかったが、いつしか、それはあきらめに変わっていたのだ。

「変えたいな…。自分を」

 松野さんは小さな、でも力強い声で言った。その声におれは励まされる。

「松野さん、おれだってまだあの過去を乗り切れたわけじゃない。時々、うなされることだってある。おれの場合、自分を変えたところで、周囲が変わるわけじゃあないだろうしな。でも…。偉そうな言い方になるけど、松野さんのことは応援したいと思った。だから、何かあったらおれに相談してほしい。具体的なアドバイスとかできないかもしれないけど、聴くだけならいくらでも聴くから」

「どうして、そこまでしてくれるの」

「同じ文芸部員だからな。それに、今までのつぐないもある。その代わりおれの本の話、松野さんにしていい?」

 松野さんは、うなずいた。そして、ぼろぼろになった本を見つめた。


 その後、しばらく話していたが、松野さんは眠そうな顔になり、壁に寄りかかり寝てしまった。

―本当に、おれのこと怖くないんだな。

 松野さんの寝顔を見ながら、今日、あったことを思い返す。いつもと同じつまらない日だと思っていたのに、こんな目にあっている。何が起こるかわからないものだ。

 明日からの日常はこれまでとは違ったものになるだろう。

 このことも学校で噂になる。これまで以上にひどいことを言われるかもしれない。おれは大丈夫。でも、松野さんのことは守らなければいけない。さっき、約束したからだ。松野さんの心にこれ以上、傷を増やしたくない。

 松野さんの身体が横に倒れそうになった。おれは松野さんの腕を持ち、少し迷ったが肩で身体を支えた。

 女子にこんなことをするのは初めてだ。感じたことのない気持ちがどこからか沸いてくる。嫌な気持ちではない。久しぶりに感じた人間らしい感情だ。

 この夜は生涯忘れないだろう。

 自分が自分を取り戻す、きっかけとなったこの夜を。

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