体育倉庫で

 帰ろうとするとクラスメイトの男子が近付いて来た。

「これ、渡すように頼まれたんだけど」

 誰に、と聞こうとすると、男子はもうその場を立ち去っていた。

 ため息をつきながら紙を開くと、小さな字で「体育倉庫の前で待っています。松野」と書かれていた。

 何かあるなら部室で言えばいいのに、と思ったが、何か理由があるのだと思い、あまり疑うこともなく、体育倉庫に向かった。


 体育倉庫の前に、松野さんの姿はなかった。しばらく待とうと思った瞬間、背中を強く押され、よろめいた。振り返ると、4人の男子生徒がにやにやと笑いながらおれを見ていた。クラスメイトも一人いた。

「…何だよ」と言うと、腹を思いっきり蹴られた。その衝撃に、思わずうずくまると、女子生徒の声が聞こえて来た。

「松野さんを連れて来たよ。ごめんね、こうしないと私がいじめられちゃうから」

 顔を少しあげると、松野さんが一人佇んでいた。一人の男子が松野さんの傍へ行き、腕をつかんだ。

「おい、松野さんに手を出すな!殴るならおれを殴れ!」

 おれはとっさに叫んだ。その瞬間、顔を殴られた。クラスメイトだ。

 男子は松野さんの胸を触りながら「いつも、こうやられているんだろ。春原に」と言っているのが聞こえた。松野さんの表情は見えなかったが、男子が松野さんのスカートをめくっているのが見えた。松野さんの足に無数の傷跡がある。

「へえ、松野さんってこういうことをする人なんだ。こんな気持ちの悪い身体、春原はよく手出したな。おれだったら無理だわ。こんなメンヘラ。でも、まともな女子とは付き合えないお前とはお似合いかもな」

 激しい怒りが身体の中を支配した。これまでの人生で感じたことのない気持ちだった。

「この野郎!」

 我を忘れて、松野さんのスカートを握っているやつの腕をつかんだ。松野さんの顔を見て「松野さん、早く逃げろ!」と叫んだ。松野さんは茫然とした様子で佇んでいる。逃げる気力すらないようだ。

 腕を思い切り振りきられ、また、おれは倒れた。

 「おい、やめろ。それ以上はやばいぞ。今日の目的はそれじゃないだろ」

 さっき顔を殴ったクラスメイトの声が聞こえた。

 おれは胸ぐらをつかまれた。

「むかつくんだよ。お前の存在。一人だけオシャレに茶髪にしちゃってよ。規律を乱す生徒は正されなきゃいけないよな」と言いながらおれを蹴った。

「だいたい、お前みたいな犯罪者が生きてちゃあいけないよな。平気な顔しているのが不思議だよ」

「おれはやっていない」

 おれは絞り出すようになった。やつらがせせら笑う。

「お二人を一晩中一緒にいさせてやるよ。ここなら色んなことができるだろうよ。また、噂が広がっちゃうかもな。じゃあね」

 その瞬間、強く押し飛ばされた。体育倉庫の中に倒れる。そして、体育倉庫の扉が閉まった。


 体中に痛みが走る。でも、そんなことは気にしていられない。急いで立ち上がると、扉を思い切り押した。開かない。鍵がかかっていた。

 扉を何回も叩く。でも、それは無駄な行為だった。

「今日はテスト週間でどの部活もここには来ないだろうしな。運動場を使うやつもいない。あいつら、それもわかったうえで…」と言いおれは座り込み、松野さんの方を見た。

「松野さん、大丈夫?」

 松野さんはこわばった表情で何かを手に持っていた。カッターだ。それを腕にあてようとしている。おれはとっさに駆け寄った。

「やめろよ!そんなことしても楽にはならない!こっちにカッター渡せ!」

 松野さんの腕を強くつかむ。

「ごめん、切らせて。切らないと死んじゃうの。これだけが私の生きる手段なの。だから、離して。お願いだからほっておいて。痛ければ忘れられるから」

 松野さんはそう言い、カッターを離そうとしない。痩せた身体からは考えられないほど、力は強かった。

「自分で自分傷つけようとするやつを目の前で見て、何もせずにいられるかよ。他人に関心なくなったとはいえなあ、おれだってまだそれくらいの心は持っている。お願いだからカッターをこっちに渡してくれ」

 おれはそう叫んだ。こんなに大きな声を出したのは久しぶりだった。それでも、松野さんはカッターを手から離そうとしない。

 これ以上、力を込めて松野さんの腕を握ったら、松野さんの腕が折れてしまいそうで怖い。覚悟を決めた。カッターを刃の部分も一緒に無理やり掴み、遠くに投げた。

 松野さんの腕を放し、肩で息をしながら、手を見たら血が流れていた。

 その様子に松野さんも我に返ったようだった。

「ごめん、腕、痛くなかった?」

 おれの問いかけに「私より春原君のほうが…」と松野さんは言った。

「気にしないでくれ。見た目ほど痛くない」

 申し訳なくなってくる。こんな目にあわせてしまったのはおれのせいだ。

「やっぱりだめだな、おれ、こんなことに松野さんを巻き込んでしまって。松野さんを傷つけて。やっぱりもっと遠くの高校に行くか、高校に行くのをやめるべきだったかな」

 おれはどこかで期待していたのだ。また、親が、友人がおれのことを温かく迎えてくれるのではないか、と。

「あそこに窓があるけど、人が出るのは難しそうだな」と周りを見回す。小さな窓があったが、人が出ることはできなさそうだ。

「スマホとか持ってる?」と松野さんに聞くと、松野さんは首を横に振った。

「明日、誰かが開けてくれるのを待つしかないか。おれ、今一人で暮らしているから…といって、親と暮らしていても気にかけてはくれないだろうしな。松野さんの家族は」

「申し訳ないんだけど、私の親も私に関心がない。前、一晩中帰らなくても、何の心配もしてくれなかった」

 そう言って松野さんは目を伏せた。少し声が震えている。

「松野さん…。おれのこと怖くない?」

 おれの声も震えていた。

「おれが嘘ついていて、噂が本当のことだったらとか思わない?」

 松野さんは少し顔を上げ「怖くはないよ。私は春原君の言うことを信じる。あの日、話してくれたこと嘘には思えなかった」とかぼそいながらもはっきりと答えた。

「ありがとう」

 嬉しかった。松野さんは周りの声に惑わされず、信じてくれた。不愛想でしかなかったおれを。

 松野さんは隅の方へ座り込んだ。しばらくすると身体が小刻みに揺れ出した。不安や悲しみを必死で押し込めているような感じだ。

 何かをしなければ、と思った。

 おれは、松野さんのそばに行き、手を握った。松野さんは少し驚いたような顔をしておれを見た。

「ごめん、不快だったら、振り払ってくれていいんだけど…。なんかの本に書いてあった。『女の子が不安がっている時は、そっと女の子の手を握ってやれ』って。こんなことぐらいしかできないから…。」

 頬が熱くなった。女子の手をこんなに真剣に握ったのは初めてだ。

 松野さんはしばらくして手を振り払った。

 おれは、自分の上着を松野さんの肩にかけるとその場を離れた。

「大丈夫…なわけないよな。あんなひどいことされて。おれがもっと強ければ、松野さんだけでも逃がしてあげられたかもしれないのにな」

 そうだ、おれがもっと強ければ良かったのだ。後でどんな問題になってもいいから、殴り返せば良かった。

「松野さん。あいつらはあんなこと言ったけど、おれは松野さんが気持ち悪いとは思わない。松野さん言っていたよな。これだけが私の生きる手段って。松野さんが必死に戦い続けていた証には違いない。だから、リスカ以外に心が楽になることを探していこう。今まで松野さんに対して不愛想だったおれがこんなこと言う権利ないかもしれないけど…。例えば、本を読んでみるとか、面白そうな本なら紹介できるから」

「だめだよ。私なんかのことで春原君に迷惑をかけたくない。それに…私は本を読まないんじゃない、読めないの」

 読めない?どういうことだ?

 その気持ちが伝わったのか、松野さんは話を続けた。 

「気持ち悪くないって言ってくれてありがとう。2年前からなの。身体が破裂しそうで怖くて、切ったらほっとした。無視された時も、水をかけられた時も、変なあだ名で呼ばれた時も。でも、よく考えてみれば、私が生きている理由って何もないんだよね。なんで生きようとしているのかな。もう心は死んでいるようなものなのにね。春原君言ってたよね、本が生きる理由だって。私もそう思っている時があったよ。世界中の本を読みたかった。手に取って、ページをめくりたかった。でも、私はそれを手放した。小説だって書けなくなった。私は…私の書いた小説でお姉ちゃんを殺した。私がいなかったら、お姉ちゃんは死ぬことはなかった。親も悲しまずにすんだ。死ぬのは私で良かった。私が…いなくなれば、私さえいなかったら家族は平和に暮らせた。学校だってそう。私さえいなくなれば、教室はもっと明るくなる」

 松野さんの声の震えが強くなった。

「春原君がうらやましい。生きる理由を持っているから。私には何もない…。生きる理由もないのに、生きる資格なんてない。もう、いなくなりたい…」

 松野さんのそばに近付いた。

「もういい、一気に話そうとするな。話なら何時間もかかっても何日かかってもゆっくり聴く。支離滅裂でもいい、泣き叫んだっていい。だから」

 松野さんの肩に手を置く。

「生きる理由がないなんて言わないでほしい。おれは松野さんに生きていてほしい。自分を見捨てないでほしい。今度、松野さんを傷つけるやつがいたらおれが全力で守る」

 おれは言いながら、涙が出てくるのを感じた。その言葉は誰かに言ってほしかった言葉だった。松野さんの目からも涙が出てくる。

 もう一度、松野さんの手を握る。さっきよりも強く。

 今度は、松野さんは手を振り払うことはなかった。何かが切れたように松野さんは泣き続けた。

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