文化祭の翌日、クラスに入ると、女子が鋭い目つきでおれを見た。

 その目つきに一瞬、昔の記憶が蘇ったが、平常心を装い、見ないふりをした。

 その日から、教室や廊下で何度もそういう目にあった。どうやら、また、何か噂を流されているらしい。

 中学の時のことはもう噂として流れていた。今は塾やSNSで他校の生徒の情報も簡単に得ることができる。誰も知っている人はいないだろう、というおれの考えは甘かったのだ。

 文化祭の時に来たあいつらが何かを言ったのだろうか?

 気になったが、誰かに尋ねる勇気はない。

―あきらめるしかないか。

 抗うことは、もう疲れた。噂が落ち着くまで我慢すればいいだけだ。


 数日後、文芸部の鈴木先輩に部室に呼び出された。イラスト同好会にも所属しており、部長と同じく優しく穏やかな先輩だ。

「春原君、最初に言っておくけど、僕達、文芸部は春原君の事、悪く思ってないよ。色々と噂が流れているのは知ってるけど、礼儀正しいし、嫌な感じもしないから、気にしてなかった」

「ありがとうございます」

「それで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな。不快な気持ちにさせると思うんだけど」

 鈴木先輩は心配そうに言った。

「大丈夫です。おれも気になっていたので、教えてくれた方がありがたいです」

「そうか、松野さんとのことなんだけど」

 松野さん?何で彼女が関わってくるんだ?

「文化祭が終わった後、春原君と松野さんが一緒に文芸部の部室に居たっていうことが言われてて」

「確かに、一緒にいましたけど、部活の事で話したいことがあって。少しの間だけです」

「それだけなら、いいんだけど。何か、色々、尾ひれがついていて。その…。春原君が松野さんに性的な暴行をしたって言われてるんだ」

 頭の中が真っ白になり、顔がこわばる。何でそんなことを言われるんだ。あの時の記憶がよみがえってくる。身体の震えを抑えるため、身体に力をいれた。

「大丈夫?春原君?もちろん、僕は、文芸部のメンバーはそんなこと思ってないよ。ただ、そんなことが噂になって春原君は大丈夫かなって思って」

 鈴木先輩の言葉に少し、冷静になる。

「大丈夫です。心配して頂いてありがとうございます」

「何か僕達にできることはある?先生に言ったらどうかな?こんなにひどい噂はいじめと一緒だよ」

 その言葉はありがたかったが、教師に言ったってどうしようもないだろう。噂の出どころもわからないし、直接、何かをされたわけでもない。

「噂のことは気にしないことにします。どうしても、ひどくなった時はまた考えるので」

「何か悩みとかあったら文芸部のメンバーに言ってほしいな。部長も、ものすごく心配していて」

「ありがとうございます。おれは大丈夫です」

 鈴木先輩が良い人だということはわかっていたが、頼りたくなかった。あの経験がおれの心を固くしていた。


 鈴木先輩が部室を去ると、急に肩の力が抜けた。しばらく、ぼんやりとしていたが、気分転換に部室を掃除することにした。

 掃除をしながら松野さんのことを考える。松野さんはこの噂を聞いているだろうか。

 たぶん、どこかで気が付いているだろう。彼女がそこまで鈍感な人間には見えなかった。そう思うと、おれの心は痛くなる。

 自分だけなら耐えられるが、他の人を巻き込むつもりはなかった。

 大人しそうな彼女がこの状況に耐えられるだろうか?

 

 喉が渇いて来たので購買に水を買いに行こうとおれは部室を出た。その間も色々な感情で頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 そもそも、松野さんを部室に呼び出したのはおれだ。原因はおれにあるんだ。何も話さなければ良かったんだ。

 自分が苦しむだけならいい。でも、他人を巻き込むのは最悪だ。

 階段を下りて行くと、踊り場に誰かがいた。松野さんだ。

「松野さん?」

 松野さんが顔をあげ目があった。その時、松野さんはジャージを落とした。白い制服の腕の部分が赤くなっていた。血だ。

「松野さん。大丈夫?怪我?保健室、一緒に行こうか?」

 松野さんは気まずそうな顔をして「大丈夫。たいしたことないから」と答え後ろを向いた。

「待って」

 おれは呼び止めた。

「とりあえず、怪我が落ち着くまで部室にいよう。話したいこともある」


「これ飲む?」

 売店で買ってきた水を松野さんに渡した。松野さんはお金を払おうとしたが、おれは断った。

「ごめん……」

 松野さんは噂の事だと察したのか、慌てたように言った。

「あれは、春原君のせいじゃない。勝手に噂を流している人たちのせいだよ。私は気にしていない」

「おれだけが傷つくなら良かったんだけど、松野さんまで巻き込むつもりはなかった。違うと言っても信じてもらえそうにないしな。噂は尾ひれをついて、どんどん広がっていく。ここまで行くともっとひどくなる可能性だってある」

 松野さんはその言葉に対して何も言わなかった。

「松野さん…本当に本嫌い?これ、松野さんが書いた小説だよね」

 おれは本を取り出しながら言った。

「おれ、この本、好きだった。あんなことがあった後、何度もおれを励ましてくれたよ。温かい小説だ」

 おれは松野さんを見つめた。

「文化祭が終わった日、家で何気なく本棚を見ていたら松野さんの名前があった。同姓同名だとも思ったが、年齢はおれと同じだ。検索したら松野さんの顔も出てきた。何があった?どうしてだ。こんな素晴らしい小説を書ける人間がどうして本を嫌いになった?」

 松野さんの表情と身体が固まった。

 そして、胸に手を当て息が荒くなった。

「松野さん?」

 おれが呼びかけた瞬間、松野さんは倒れた。

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