君に会いたくて 2024/01/19

 時計を見ると終業時間の10分前だった。

 急ぎの仕事も無いから、今日も定時で帰れるな。

 仕事道具の後片付けをしていると、後ろに誰かが立つ気配がした。


「来ちゃった」

 そう言われて誰かに後ろから抱きかれる。

 振り向くといたのは、なんと家で待っているはずの妻だった。


「なんで、ここに」

「あなたに会いたくて……

 あなたがいないと寂しくてだめなの」

「ゴメン。君にそんな思いをさせていたなんて……」

「いいのよ。今こうしてあなたと会えたんだもの」

「香織さん」

「健司さん」

 僕は彼女を抱きしめるべく、両手を広げる。

 彼女の目を見ながら抱きしめようとするが、寸でのところで腕が止まる。


「でも駄目だよ、香織さん。まだ仕事が終わってない」

 それを聞いた彼女は悲しそうな顔をする。

 自分の心がチクリと痛む。


「分かったわ、健司さん。

 いつもの所で待ってるわね」

「ああ」

 

 後ろ髪をひかれる思いで、彼女から目を離す。

 自分だけ、楽をすることはできない。

 その決意を胸に片づけを再開しようとすると、頬に柔らかい感触があった。

「お仕事をする姿、カッコよかったわ」

 そう言って彼女は離れていった。


 片づけをする手が止まり、彼女に視線が向く。

 立ち去っていく後ろ姿に思わず見惚れてしまう。

 彼女はいつだって綺麗だ。


 と、ボーっとしている場合ではなかった。

 就業まで五分を切ってしまった。

 一秒でも残業するつもりはない。

 残業した分だけ、彼女と離れる時間が長くなる。




○ △ □



「アレ、なんでみんな何も言わないんすか?」

「うん?ああ、お前今日初日だったな。教えてやるよ」

 俺が聞くと、ベテランの厳さんは蓄えた髭をさすりながら遠い目をした。


「あの二人が結婚してから毎日アレでな。

 まあ最初は新婚って言うことで多めに見ていたんだが、一か月たってもやめなかった。

 結構キツイ言葉で言ったこともあるんだが、毎日懲りずにやってきてな。

 それでも本人は責任感があってキチンと仕事をしてくれるから、それをヨシとしてみんな諦めたんだ」

「なるほど……」

 俺は厳さんの言葉を聞いて、仕事を終えて抱き合っている二人を見る。


「あの、二人はお年を召されているようですが、結婚してから何年目すか?」

「あーもう三十年経つかな」

「三十年……」

 俺は思わず言葉を繰り返す。


「だが悪い事ばかりじゃない。

 二人のおかげで、ここの労働環境よくなったんだよ。

 女性が来るなら職場は綺麗にしないといけないし、待ってもらうスペースも作ったんだ」

「それで休憩スペースが豪華なんすね。お菓子とかも」

「男女差別と言われそうだが、お客さんにずっと立ってもらうわけにはいかないからな。

 あと残業なんかした日には圧がすごいぞ。

 気が散って仕方ないから、みんなで帰った。

 それ以来残業しないよう調整してる」

「へえー」


 もう一度二人のほうを見ると、仲良く手を繋いで帰るところだった。

「はあ、あの年でも仲が良いってのはいいっすね」

「彼女いるのか?」

「いるけど、絶賛喧嘩中で別居中」

 俺の答えに厳さんはガハハと笑い、俺の背中を叩く。


「じゃあ、二人を見習って仲直りすればいい」

「『見習って』って、どうするんすか?」

「そりゃ、彼女に会いに行くんだよ」

「何しに来たって言われるだけっすよ」

 厳さんはニヤッと笑う。


「そん時は『君に会いたくて』って言えば仲直りさ」

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