第11話
迎えた翌日。ある程度予想はしていたが、その日一日僕は咲希に避けられていて、話しかけようと三組の教室を訪れてもいつぞやにハンカチを渡そうとしたときのように入れ違いが続いた。LINEで連絡しても既読が付くだけで音沙汰なしだ。美玲もなにかあったのと聞いてくる。
「いつも一緒にいるのに、今日はめずらしいね」
「ちょっといろいろあって。でもべつに仲違いしたとかじゃないからそこは安心して」
「それは、うん。二人のことだから心配はしてないけど……」
言い回しがすこし気になったがまぁいつものことだし、これくらいなら軽く流せるレベルだ。
「もしかして薫くん、咲希ちゃんに無理やり迫ったとか? 駄目だよちゃんと順序踏まなきゃ」
「そんなわけないでしょっ」
軽く流せなかった。そんな関係じゃないってきみ知ってるよね? ほら、周りの生徒たちがこそこそ噂話をしはじめちゃったじゃないか。
「その、わりと真面目な話なんだ。だから、なんていうか……」
「あ……ごめん」
美玲はしゅんと目を伏せて手を合わせる。
「冗談とか言える感じじゃ、ないかな?」
「まぁ、家庭の問題だから」
家庭、という単語が出たことを切っ掛けに話をしてみてわかったことなのだが、どうやら美玲も咲希の家のことは気になっていたらしく。この前車で送っていってもらった際に白峰宅へ寄ったそうで、そのときも昨夜と同様に明かりが点いていなかったんだとか。
「美川先生には『白峰さん家もいろいろあるんだよ』って言われたんだけど。やっぱり複雑そうなんだね」
「一応あれでも教師だから、知っててもおかしくはないか」
「薫くんって美川先生には割と言うよね」だって教師らしくないんだもの。「あ、そういえばそのときに聞いたんだけど、薫くんのお家もご両親がコーヒーの為に世界中回っててなかなか帰って来ないんだっけ? たしか、一年の三分の二くらいは海外って言ってたかな」
「あの人、なんで僕のことはそんなべらべらしゃべってるんだよ……」
いやまぁ咲希とは違って比べるのもおこがましいくらいしょうもないことだからべつにいいんですけどね。じいちゃんはいるし。ただこちらの預かり知らぬところで伝わるというのは気分的になんか落ち着かないのだ。
「できれば忘れてもらっていい? 親二人が自由人すぎると子供としてはすっごい恥ずかしいんだ」
「面白そうな家族でわたしは好きだけどな」
面白そうで済めばいいけど。父さんはともかく、母さんは自由奔放、天真爛漫を画に描いたような人だから、美玲といえどきっとびっくりするぞ。
「それで薫くんはどうするの?」僕の親への興味もそこそこに、美玲は話を戻してきた。「咲希ちゃんになにかしてあげるつもりなんでしょ?」
「うん。まぁ大したことはできないけど。僕ができることなんて、コーヒー淹れて話を聞いてあげるくらいだから」
「あはは、薫くんらしくていいじゃん」
そう言って美玲は、いつものように片眼を瞑って親指を立てる。
「ま、上手くいくよう応援してるよ。頑張れ!」
🐈 🐈 🐈
すべての授業が終わって放課後になり、それまで咲希に会えず終いだった僕にできることといえば、もう昇降口付近でストーカーみたいに隠れて彼女の帰りを待ち伏せるだけになった。
通り過ぎていく生徒や教師たちの怪訝な視線がちくちく刺さって痛い。けれどその甲斐あってようやく咲希の姿を見つけた。
「……あ、薫くん……」
下駄箱から靴を取り出したところでこちらに気づいた咲希と目が合った。僕は柱の陰から出て、固い笑顔を浮かべてやあと手を上げる。まだ一日も経っていないのにえらく久々な感じがして、我ながら情けないほど挙動不審になった。頭のなかでシミュレーションしていた台詞もどっかに飛んでった。まだ初っ端もいいところなのに、これからすべてアドリブだ。
そんなことで右往左往している間にも、声をかけることはできたものの、咲希はよそよそしく会釈をするだけでそのまま帰ろうとしてしまう。僕はあわてて速足で後を追いかけて、その背中に向かって手を伸ばした。
昨夜はついぞ届かなかったけど、もう迷いはない。遠慮なく踏み込ませてもらおう。
僕の手が、咲希の手を掴む。
「ちょ、ちょっと待って!」
引き留めると、突然のことに驚いた彼女は体をびくりと跳ねさせ、それからおそるおそる振り向いた。瞳は不安げに揺れている。ごめん。でもこのままあの寂しさが充満した家に帰したくなかったんだ。放っておけなかった。
いったん呼吸を整えて、僕は努めてやわらかい口調で言う。
「その、LINE見てくれたよね? 今から咲希と、話がしたいんだ」
答えは待たず、「ここじゃ話しにくいから、うちに行こう」ともう行くことは決定事項とばかりに手を引く。自分勝手なのは充分わかっているが、こういうのは迷う余地を与えないよう多少強引なくらいがいいのだ。たぶん。
「え、えっと……うん」
未だに戸惑いの色が抜け切らない咲希は、それでも手を振り払わず頷いた。僕の半歩後ろを、わずかな灯りだけが頼りの洞窟を進むような足取りでついてくる。
いつもの通学路を、いつもよりもゆっくりと会話なく歩き、しばらくすると店が見えてきた。
すでに看板は下げられていて、扉には簡潔に『孫の都合で臨時休業します』とだけ書かれた紙が貼ってあった。書式丁寧な字からじいちゃんの不満がにじみ出ているみたいでなんか怖い。孫って名指ししてるし。入口前にでっぷりと寝そべるジュンさんも心なしか不機嫌そうな目でこっちを睨んでいる気がするが、まぁそれはいつものことだ。
そんなジュンさんから「さっさとしろ」と急かすような一瞥をもらい、僕たちは扉を開けて足を踏み入れた。
店内にはだれもいなかった。片付けもひと通り済んでいる。二人きりにしてやるとか言ってたから、じいちゃんは家の方に引っ込んだのか。ああいや、ご飯の時間にはまだ早いし猫たちはいるか。
とりあえずここまで繋ぎっぱなしだった手を放し、僕たちはそれぞれ厨房とカウンター席へ。腰を落ち着けると、人気のない店内の様子にそわそわしながら咲希が聞いてくる。
「それでお話って……昨日のこと、だよね?」
「うん。でもその前に」
ここは喫茶店なのだから、まずはコーヒーを。
「話をするときにはつきものだからね。ほら、ドラマとかでもよく見るでしょ」
わざとらしいほど調子よくそう言った。空気が読めていないわけではなく、こういうときは相手に合わせて一緒に落ち込むよりも、できるだけ明るく振る舞って気持ちを引き上げてあげた方がいいのだ。
……というのをじいちゃんからご教示いただき、実践するのはこれがはじめてだったりするわけだが。
そんな先駆者の知恵を借りたなりふり構わない努力が実ったのか、薫くんらしいね、と咲希は小さく笑みを零す。いきなりそんな表情を見せられるとは思っていなかった僕はどぎまぎして頬を掻いた。ああちくしょう、恰好がつかないな。咲希の前だとどうにも調子が狂う。
「顔赤いけど、どうかした?」
僕の気も知らずに咲希が聞いてくる。いや知られたら知られたでそれは恥ずかしいが。
「な、なんでもないから。気にしないで」
誤魔化すように、こほんとひとつ咳払い。
まぁ皆から散々揶揄されるように、男らしくない(主に見た目だけど)ことで定評のある僕だ。慣れないことをしてもしょうがない。それにここから挽回すればいいかと気持ちを切り替えて、意気込むようにシャツの袖をまくり上げる。
「それで、いまから淹れるのは……」
お湯を注ぐためにケトルを傾けたところで、どう言おうか考えて、でも取り繕っても仕方がないなと僕は正直に言った。
「僕が咲希に、飲んでもらいたいと思ったやつなんだ」
「わたしに?」
「そう。咲希に」
一晩いろいろ考えて、しかし心を動かすと言われてもいまいちぴんと来なかったので、いっそもう自分が今の咲希に飲んでもらいたいものにしようと思ったのだ。さりげなく日常に溶け込み、気が付けば傍にあっていつでも飲めるような、そんなコーヒーだ。
なぜこれにしようと思ったのかは、あえて言わないでおこう。変に先入観を与えたくないというか、ごちゃごちゃ説明してしまうと本当に空気が読めてないし、言葉の価値も感動も下がる気がする。
自分のと合わせて二人ぶんを淹れ終わると、僕はカップを持って咲希の隣に座った。カウンターに立っていたら見下ろしているみたいでなんか嫌だし、それに隣なら視線がぶつかることがないので、人と目を合わせるのが苦手な咲希も緊張せずに話せるだろう。関係が希薄な相手なら驚かれたり警戒されたりするんだろうが、日頃から一緒にいる僕らだ。彼女はそんな素振りを見せることもなく受け入れてくれた。
「はい、どうぞ」
「うん。ありが、とう」
この前のようにおどけず、僕は厳かに言って差し出した。咲希はひと口飲んでからカップを置き視線を落として、褐色の水面に写るこわばった表情の自分を見つめながら、ごめんねとつぶやく。
「今日ずっと避けてて、ごめん。昨日のことで、薫くん困らせたと思って、顔合わせづらかったの」
「昨日の今日なんだからそれは仕方ないよ。だから謝る必要ないし。それにべつに、困りはしてないから」
一晩中悩みまくっていたことは黙っておこう。
「むしろ、話してくれて嬉しかったというか」
「? それって、どういう……」
「いやその、変な意味じゃなくて……僕のこと、信頼してくれてるのかなって。じゃなきゃいくら友達でも、あんな話おいそれとはしないでしょ。それに知らなかったらなにもできないわけで。咲希が悩みを抱えたままの方が、僕は困る」
「……信、頼?」
あれ、なんか反応が薄い。ひょっとして信頼されていると思っていたのは僕の勘違いだったか? だとしたら僕は自意識過剰の恥ずかしい奴になってしまうぞ。
「わたし、薫くんのこと、信頼してるのかな」僕としては逆にしていてくれと信頼するしかない。「でも……うん。薫くんになら話していいって思ったし。きっと、聞いてほしかったんだと、思う」
よかったと胸を撫でおろした。
そんな安堵する僕を不思議そうに見てから、咲希はしんみりとした様子で瞳を下げて。
「……寂しかったんだと、思う」
信頼していると自覚したからか、今までだれにも話さなかった本心を零しはじめる。これまであの家でどんな気持ちで過ごしてきたかとか、本当はお母さんと仲良くしたいとか、あのハンカチを大切にしているのはせめてもの希望だからだとか。
なによりも、居場所がほしい。
最初のひとことを皮切りに、せき止められていた水が決壊するようにとめどなく言葉が溢れてくる。それを聞いて僕は、なにも言わない。涙まじりの今にも消え入りそうな声を聞き逃さないよう、ただ黙って耳を傾ける。
咲希の声以外の音が、どこか遠くに感じた。
夕方を知らせる哀愁が漂う時報の音楽。スクーターの間の抜けた排気音に、自転車を漕ぐ錆びついた音。カラスや散歩中の犬と。それから、まどろむ猫たちの眠たげな声。ありとあらゆる音がまわりには広がっているのに、そのすべてが壁一枚隔てた向こう側で響くようにぼやけて滲む。まるで自分たちだけが世界から切り離されたようだった。
やがて話終えると、咲希はそれまで呼吸するのを忘れていたように息を吐く。
「聞いてくれて、ありがとう。こんなこと話したの、薫くんがはじめて」
溜めていたものが抜け落ちて、重さを感じさせないような空笑いを咲希は向ける。そう言ってもらえるのは光栄だけど、でもそれとは裏腹に、僕は浮かない表情を俯かせてこぶしを握る。だって、これで終わったってなに一つ変わってない。本当に話を聞いただけじゃないか。僕が見たいのは、そんな無理して取り繕ったような笑顔ではないのだ。
「……あの、さ。咲希」
気が付けば、僕は咲希の瞳を真っすぐに見据えて、自然と言葉を紡いでいた。
「その、余計なお世話かもしれないけど、一人で家にいるのが寂しかったら、いつでもうちに来ていいから」
「え?」困惑の声が上がるが、構わず僕は続ける。
「店やってないときでもいいし、なんならこの前みたいに、美玲とかアキ姉ちゃんも呼んで皆でご飯食べたりさ。とにかくなんでもいいんだ。だれかといれば、気持ちって暖かくなるものだし」
それが、そのコーヒーを通じて伝えたかった想いだった。
ここはもうきみの日常の一部なのだと。ここがきみの居場所なのだと。だからいつでもここに来ていいのだと。ここに迷い込んだのらねこたちに手を差し伸べたときのように、僕は優しく微笑む。
「僕にも、そんな居場所を作ることくらいはできるから」
不安げに揺れる咲希の視線を、大丈夫だよと頷き受け止める。
今、彼女のなかでいろいろな感情が渦巻いてるんだろう。僕だってそうだ。こうして見つめ合ってるだけで、炉の近くにでもいるみたいに顔が火照っているのが自分でもわかる。心臓が痛いほど鼓動している。思考がぐちゃぐちゃにかき回される。でも、言わなきゃ。
僕は自分のエゴに正直な言葉を告げる。
「それに、うちも両親めったに帰って来なくてじいちゃんも店にこもりっぱなしだから、僕も家じゃいつも一人で退屈してるんだ。だから、その……咲希に話相手になってほしいというか、なんというか」
……まぁ、一番大事なところで意気地がなくなるのは、もうそういった性なのだということで容赦してもらいたい。
とにかく。言い訳をつらつら並べてはいるけど、僕の気持ちをたった一言にすると、結局はこうなのだ。
「僕は咲希に、傍にいてほしい」
傍にいて、きみの笑顔を見ていたい。
生まれた波紋を広げるように、重ねて僕はそう継いだ。
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