第12話


 咲希の顔が、ゆっくりと朱に染まっていく。


 目をまん丸にさせ、半開きになった口も塞がらない。きょとんとしたまま時が止まったように固まった。


 はじめて見る表情だった。なんだろう、たとえるならそう。漫画とかで、ヒロインが主人公から突然告白を受けて思考が停止したときの表情によく似て――。


 そこでようやく僕は、自らの過ちに気づいた。


 やばい、相当気障な台詞吐いたぞ、今。

 

「あ、い、いや違っ、くはないんだけど。その、なんというか……」


 僕はあたふたと手を振り取り乱す。恥ずかしさでまともに目を合わせられそうにない。


 たしかに、嘘偽りのない気持ちをぶつけようと決意していた。けれどいくらなんでも直球すぎだ。もうすこし言い方はあっただろ。

 

 おそらくこのときのことを思い出して、今夜僕は布団のなかで悶え苦しむのだろう。というかもうこの場でわけのわからない叫声をあげて身悶えしてしまいそうだ。それくらいの破壊力がさっきの言葉にはあった。ダメージを受けるのは主に僕だから他に被害はないけども。


 咲希は、どう思ったのだろう。そういえばさっきからなにも言わないな。

 

 僕と同じく照れているのか。それとも呆れて言葉が出ないのか。


 逸らしていた視線を、おそるおそる元に戻す。


 果たして咲希は、照れるでも呆れるでもなく。もちろん怒るでもなく(咲希が怒るところを想像できない)さきほどの表情のままで瞳を濡らし。そして目尻には、涙をためていた。


 予想外の反応にびっくりして、たまらず僕は呼びかける。


「咲希? なんで、泣いてるの?」


「……え?」


 最初の一粒が頬を伝う。言われて初めて、自分が泣いていることに気づいたのだろう。咲希は涙の一筋を指先でなぞった。


「あ、あれ。なんで、こんな」


 呆けたような咲希の、反対側の目からももう一筋。砕けそうになる瞳を彼女は手のひらで押しつぶしこらえようとするが、一度堰を切った涙はとどまることなく溢れ続ける。


 ぽろぽろと、次第にそれは雨が降るように流れ落ちた。


「ご、ごめん。嬉しいはずなのに、どうして……」


 咲希はごしごしと涙をぬぐいながら声を震わせる。


「薫くんがここにいていいって言ってくれたとき、胸がすごいあったかくなって、安心したの。わたしにも居場所があるんだって。そう思ったら、急に」


 もう咲希の顔はぐちゃぐちゃだった。目元は赤く腫れて涙の跡が浮かび、髪が何本かはぐれて頬や額に張り付いている。それでも口元がほんのりと緩んでいるのは、つまりはそういうことなのだろう。


 その涙で笑顔を咲かせられるのなら、今は存分に泣いてくれればいい。


「すこしだけ、あっち向いててもらっていい?」


 泣き顔を見られたくなくて、咲希は顔を背ける。僕はなにも言わずに体を反対に向け、すすり泣く声を背中に感じながらカップを口に運んだ。冷めはじめのコーヒーの優しい甘さが口のなかに広がった。


 やがて涙も落ち着いたころ。


「ありがとう、薫くん」


 零れる最後の一滴を指ですくい、清々しさを携えた泣き笑いを咲希は見せる。取り繕ったものでも気を遣ったものでもない自然な、僕が見たかった笑顔だ。


 よかったと喜ぶと同時に、僕はそこで思い返す。なぜ、咲希に笑ってほしいと思ったのか。元をたどれば、なぜ彼女に興味を持ったのかを。


 そうだ。はじめて咲希を見たとき、僕の心を捉えたのはなによりもその笑顔だったのだ。雨上がりの雲間から差し込んだ一筋の光のような、儚くも美しい笑顔に僕は惹かれた。

 

 だからじいちゃんの言った一目惚れというのも、あながち間違いではなかったわけで。


 今にして思えばあれは、これまで寄る辺なく迷い彷徨っていた咲希が、ようやく自分の拠り所になれるかもしれない場所を見つけて、無意識のうちに浮かべたものだったのだろう。あてのない薄暗闇のなかで光ったほんの小さな希望に安堵するように。

 

 猫、好きだからな。


 どんなに些細なことでも、好きなものが傍にあるというのは存外落ち着くものだ。自然と笑顔になる。実際、猫たちと戯れる咲希は生き生きとしていたし、今だって雰囲気が穏やかになったころを見計らって膝の上に飛び乗ってきたにゃん吉を愛でながら表情を綻ばせている。


 そんな和やかな様子を、なんかいいなぁと感慨深く眺めていると、視線に気づいた咲希は恥ずかしそうにそわそわとし、抱え上げたにゃん吉で口元を隠した。まだ顔が赤い。


 上目遣いの咲希。そして猫騙しを食らったような顔をしたにゃん吉と目が合う。


「それで、薫くん。その……さっきの、なんだけど……」


「さっき?」


「うん。傍にいてほしいって。あれって、どういう意味なの?」


「……あ」


 まだ誤解を解いていなかったことを思い出し、間抜けな声が出た。いったい僕はなんどミスを繰り返すのだろう。

 

「え、えっと、うん。あれね。あれは、えっと、あれだよ。その……」


 なにやら期待が見え隠れする瞳で見つめられて、僕はあれあれと連呼しわかりやすく狼狽える。


 さて、どうしたものか。友達としてと言えばいいのだけど。いや実際そういうつもりで言ったのだけど、そんないかにもな当たり障りのないことをこの流れで言ったら途轍もなく失礼な気がする。


 とはいっても、他になんと言えば……。


 僕が言葉に詰まっておろおろしていると、咲希は白露のように透き通った微笑みをふっと零し、瞳を伏せて小さく頭を横に振った。


「ううん。やっぱり、いい」


「……え?」助かったと喉元まで出かけたが寸前で飲み込む。「そ、そう?」


 咲希は欠片ほどの未練もなく頷く。どうしたんだろう急に。もしかして優柔不断な僕に愛想をつかしたのか? それはそれですごく嫌だ。女々しくも縋るような気持ちで真意を伺う。


「で、でも、どうして……」


「だって、理由がなんだとしても」


 残り火に照らされたように頬を染め、ほのかに熱を帯びた声で咲希は言う。


「薫くんが傍にいていいって言ってくれたことは、変わらないから」


「え? あ……う、うぅん……」


 耳たぶが熱くなるような台詞を不意打ち気味に、しかも真正面から言われて変な答え方になってしまった。僕のも大概だったけど、今のだって負けず劣らず破壊力抜群だ。もちろんダメージを受けるのは僕。正直ぐっと胸に来るものがあった。


 くすぐったい数秒の沈黙の後、咲希は照れくさそうにはにかむ。


「これからも、よろしくね。薫くん」


「えっと……うん。こちらこそよろしく、咲希。で、いいのかな」


 改めてこんなやり取りをするのは、なんだか変な気分だな。


 頬を掻きながらぎこちなく僕が返すと、咲希は目を細めて頷いた。

 

 それから僕たちはしばらく、コーヒーを片手に他愛のない話に耽った。僕もにゃん吉との思い出作りを手伝うよとか、また美玲やアキ姉ちゃんも誘ってご飯食べようとか、いずれ龍也のことも紹介するよとか、そういうの。


 共通の話題なんて学校での出来事か猫のことしかないけれど、それでも咲希との会話は楽しかった。正直、お互い内容なんてなんでもよかったんだろう。だれかと楽しい時間を過ごせれば、それだけで気持ちは暖かくなるのだから。


「やっぱり薫くんのコーヒー、おいしいね」


 泡を浮かせたようなふわりと心地の良い空気のなか、ふと咲希が言った。


「また飲みたいって。毎日ここに来たいって、思っちゃう」


「……うん」

 

 胸がふさがれる気持ちだった。咲希の言葉が僕のなかに染み込んでいく。


 想いは、届いていたのだ。


「いいよ、もちろん」


 こみ上げてくる感情を、けれどぐっと抑えて僕は微笑む。最後くらいは、明るく綺麗に締めよう。


「僕はここで、コーヒー淹れていつでも待ってるからさ」


 窓から差し込む夕陽の光でぽうっと顔を茜色に染めて、咲希は春爛漫の笑顔を咲かせた。

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