第10話

 といっても、そう易々と気持ちが晴れるわけはなく。咲希は明るく振る舞いながらも、ふとした瞬間に思い詰めたように上の空になる。元気を取り戻すにはしばらく時間を置きそうだった。

 

 閉店後、心配だから今日は送ってやれとじいちゃんに言われて咲希に付き添い、僕は初めて彼女の家に赴いた。


 電車に乗って二駅。それからしばらく歩いた住宅街に咲希の家はあり、このあたりは比較的に富裕層が暮らす地域で、白峰宅も庭付きの豪奢な一軒家だった。


「……あれ?」


 ただ僕はそこで違和感を覚える。


 日曜日。それももう陽がとっぷり暮れているにも関わらず、人の気配がまるでなかった。窓から明かりが漏れていないのだ。


 買い物にでも行っているのだろうか。にしてはすこし遅い時間だけど……。

 

「咲希、お家の人は?」


「あ……う、うん。えっと……」


 後になって思い返せば、このとき僕はもっと気をつけるべきだったのだろう。これまで彼女が垣間見せた脆い部分を、もっと深刻に捉えるべきだったのだろう。


 浮かれていたのかもしれない。すこしは咲希の力になれたかもしれないというその余韻に。まだなにもしていないというのに。


 不幸は友達を連れてくるではないけれど、気落ちしているときほど、よくないことは重なるものなのだ。


 咲希は怯えたように肩を震わせ、それから言いにくそうに目を伏せた。


「わたしのお母さん、お仕事が忙しいから、あまりお家に帰って来なくて……それに、その……お父さん、いないの。会ったことないし、顔も知らない」


「え?」


 意味を理解するのに一瞬の間を置いた。それって、いつも一人きりってことか? こんな広い家で? しかもお父さんを知らないって……。


 僕が黙ったままだったので、咲希はその後続けて、自らの生い立ちを掻い摘んで話してくれたのだけれど。


 ただその内容は、僕の受け止められる許容量を優に超えていた。


 父親がだれかもわからず、周囲からはあまり歓迎されずに産まれ。疎まれていたというほどではないが、母親には構ってもらえた記憶はほぼないのだそうだ。もちろんそれですべてではないだろうが、しかしそれだけでも、僕がなにか言葉を発するのを躊躇うには充分だった。


「ごめん、変な話しちゃって」しょんぼりとした声が地面に落ちる。「困るよね、いきなりこんな話されても」

 

「そんな、咲希が謝ることじゃ……」


 恥ずかしさと申し訳なさで顔を合わせられず僕はうつむく。この馬鹿。あまり詮索しない方がいいって自分で言ってたのになにやってんだよ。自責の念がのしかかってどんより後悔した。

 

「僕の方こそ、ごめん。その、知らなかったとはいえ、無神経だった」


「ううん。いつか話さなきゃって思ってたし、わたしが話したくて、話しただけだから」


 咲希はなんでもない風を装ってぎこちなく笑う。居たたまれない空気に溺れた僕はなにか言わなきゃと息継ぎするように口を動かすけど、余人である自分が口を挟んでいいのかと尻込みしてしまい、ついに返す言葉は出てこなかった。


「……じゃあ、わたし帰るね」


 会話がなくなってしまえば、あとはもうお別れするだけだ。足を数歩進めて振り返り、咲希は小さく手を振る。

 

「薫くん、今日はありがとう。また、明日」


「あ……う、うん。また、明日……」


 ようやくそれだけ絞り出して、僕も手を振り返した。

 

 ドアノブを回し、しんと冷え切った暗闇に吸い込まれていく咲希。


 その姿が、僕にはまるでのらねこのように思えた。

 

 寄るべなく寄り添うものもいない、のらねこ。だれかが手を差し伸ばし、傍にいてあげなければ。


 だれが? そんなの決まっている。


 けれど柵越しに見えるその背中には届かず。無力感が括りつけられて重くなった手を伸ばしても、空を彷徨うだけだった。


 ぱたりと扉が閉じられて咲希が見えなくなった後も、胸にたまったやるせなさを抱えたまま僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。


🐈 🐈 🐈


 いったいどれほど時間が経ったのだろう。咲希と別れてから心ここにあらずのまま来た道をとぼとぼ歩いて、気が付けば僕は自宅の前まで来ていた。


 スマホを取り出して時刻を確かめると、午後九時近く。この時間だとじいちゃんはまだ店にいるだろう。咲希を送り届けてきたという報告をする為に。あとなんとなく家に入る気が起きなかったので、僕は店に寄っていくことにした。


 入ってすぐに、じいちゃんは開口一番で訝し気に言う。


「嬢ちゃんとなにかあったか?」


「……え?」なんでわかった。「な、なんでそう思うの?」


 やっぱりこの人読心術かなにかの心得でもあるんじゃないのか? 僕が内心そんなくだらない疑いを持ちはじめていると、じいちゃんはなに言ってるんだこいつと言いたげに眉をひそめる。


「んなもんあるわけないだろうが、馬鹿垂れ」じゃあその発言の説明してみろよ。「べつにそんなもんなくたって、今のおまえさん見りゃだれでもわかる。送っていくときはいつになく頼もしそうだったのに、いざ帰ってきたと思ったら病人みてぇな面してんだからな」


 見てみろ、とじいちゃんに促され、僕は外の暗がりで鏡と化した窓ガラスに写る自分の顔を見た。


 ああ、うん、たしかに。こいつは酷い。今にも吐きそうじゃないか。情けなさと不甲斐なさでこみ上げてくるものがあって目元を手で覆う。


「……ごめん、ちょっといろいろあって」


 ことがことだけに、繊細な部分は曖昧に言葉を濁して話した。


「それで、僕が咲希にできることってなにかあるのかなとか、考えちゃって」


「柄にもなく落ち込んでいたわけか」


「最初の方はよけいだけど」僕だってそれなりに落ち込むこともある。「でも、うん。結構、というかかなり落ち込んでる」


「ふむ。まぁ詳しくは聞かんが……」


 じいちゃんは腕を組んで消沈しきった僕の顔をうかがうと、やがて肩をすくめてやれやれとため息を吐き呆れ顔を浮かべた。


「おまえさんのできることなんて、人より多少上手くコーヒーを淹れてやることだけしかないだろうが」


「『だけしかない』とかそんな強調して言うなよ、もっと他にもあるわ!」


 べつに慰めてもらおうなんて思ってないけどよりによってなんで貶められなきゃいけないんだよ。ムキになって思わず乱暴に声を張り上げてしまう。


「そうか? じゃあそれ以外になにがあるのか言ってみろ」


 言われて僕はむすっと表情を歪める。馬鹿にしやがって。ちょっと待ってろ!


 しかし、青春まっさかりな僕くらいの年頃なら、趣味やらなんやらやりたいことがあふれて仕方ないだろうに。そのエネルギーをコーヒーに全振りしてきた男だ。ほんとになにも思い浮かばなかった。僕ってこんなつまらない人間だったのか。


 地味にショックを受けて、僕は再び項垂れる。じいちゃんはほれ見ろと鼻を鳴らした。


「できることがそれしかないんだったら駄目元でもやってみりゃいいじゃねぇか。仮にもバリスタの端くれなら、コーヒーで人の心動かすくらいしてみせな」


「そんな無茶苦茶な……」

 

「無茶なわけあるか。現に俺のコーヒー飲んでおまえはバリスタになろうと思ったんだろうが」


 そういえばそうでした。ごめんなさい。


「それに友梨奈はおまえくらいの歳のときに、武を口説くために自分ができるのはこれだけだからってコーヒー飲ませ続けて、最終的には堕としてみせたんだぞ」


「やめろそんな話聞きたくないっ」


 いきなりなんて話聞かせるんだよ。両親の馴れ初めなんぞ知らないままでいたかったんだが?


 しかしじいちゃんは僕の抗議などどこ吹く風と無視して興味もなさそうに続ける。

 

「まぁあの二人のことは今はどうでもいい。関係ないしな」


 ただただ父さんと母さんと僕が傷を負っただった。

 

「それよりもだ。そんなに嬢ちゃんになにかしてやりてぇなら、明日はおまえさんたちが帰ってくるころになったら早めに店閉めてやる。その方が二人っきりで落ち着いて話もできんだろ」


「え? いや、でも、いいの? 僕の都合なんかで店閉めて」


「そんな調子で店に立たれる方がいい迷惑だ」ああはい、おっしゃる通りです。「悪いと思うなら明日一日でどうにかしな。じゃなきゃ吹っ切れるまではずっと休みにするかんな」


 傍若無人ここに極まれり。店主としての権限を使ってこっちの逃げ道をふさいできた。


 まぁでも、厳しい言い方をしつつも、じいちゃんなりに僕に発破をかけたんだろう。背中を押してくれた。そこまでおぜん立てされてしまえば、もう前に向かって突っ走るしかない。

 

「……わかった。やってみる」


 いつも咲希が座る席を見ながら僕は言った。それを聞くとじいちゃんは頷き、そしてなぜだか顎をさすりながら意味深な含み笑いをする。


「ま、もしこれで上手くいったら、薫にもなにかわかるかもしれんな」


「なにが?」


「ほれ、ガキのころに聞いてきたろ。バリスタにとっての最高のコーヒーはなんなのかって」


 たしかに聞いたな。そのときは、そういうのは自分で気づくもんだってあしらわれたけど。


「店に立つようになってしばらく経つし、おまえさんも気づくときが来たってことかね」


 一人だけで納得すると、いつもよりだいぶ早いがじいちゃんは家に帰っていった。


 なんだったんだ、いったい。


 気にはなるけど、ともあれやることは変わらない。明日は僕ができるだけのことをする。


 それで解決するほど単純なことなのかとか、そもそも家庭の事情なのだからなにかをすることが果たして正しいのだろうかとか、そんな理屈的なことはとりあえず置いておいて。


 僕は咲希に、笑顔でいてもらいたい。彼女は笑っているべきなのだ。


「ん?」


 なにかの感触があって視線を落とせば、足元にすり寄ってきていたにゃん吉が「頼むぞ」と言うようにこちらを見て鳴き声をあげた。ああ、任せとけ。

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