第8話


 一階に降りて、やなぎのように垂れ下がったのれんをくぐってダイニングに入る。端っこの方では、うちに居座っている猫たちが我先にとご飯を取り合いがっついて食べているけど、それを用意したと思われるじいちゃんはいなかった。どうせまた店にこもってるんだろう。


「ありゃ、泰三さんいないや。さっきお店で挨拶したんだけど、まだいるんだ」

 

「いつものことでしょ。三度の飯よりコーヒーのコーヒー馬鹿だから、あの人」


「それは薫くんもじゃん。自分のこと棚に上げちゃだめだよ」


 アキ姉ちゃんが肩を揺らす。違いない。三人がいなかったら僕もあっちに行っていたところだ。家にも器具はあるけど、店の方が断然じゅうじつしている。

 

「まぁしばらくは帰って来ないと思うし、わたしたちで先に作っちゃおっか」


 そう言うと、勝手知ったるといった感じでアキ姉ちゃんは冷蔵庫を開けて中身を確認する。


「あ、わたし手伝いますよ。いただくだけなのも悪いですし」


「わたしも、簡単なことなら」


「じゃあお願いしよっかな」


 咲希と美玲も参戦する。あっという間にキッチンが女性陣で埋められて、僕の入る隙間がなくなった。


「薫くんは席に座ってくつろいでてね~」

 

「いや、くつろいでてって、三人ともお客さんなんだから、ここは僕が……」


「女の子の手料理食べられる機会なんてめったにないよ? しかもこんなかわいい子が三人も。男の子だったら泣いてよろこぶべきだと思うな」


 自分でかわいいって言っちゃうんだ。しかも子って……。


「ほーら。手伝おうとしたってもうキッチンいっぱいなんだから、薫くんは猫ちゃんといっしょに待っててよ」


 結局は押し切られる形で椅子に座らされてしまった。


 手持ち無沙汰にならないように渡されたにゃん吉と共に、やることもないので調理にいそしむ三人のエプロン姿を眺めて時間を潰す。なに作ってんだろう。


「はい、おまちどうさま!」

 

 トレーにのせられ運ばれてきたのはカレーだった。帰りがけに漂ってきた匂いで食べたくなったのだとか。


 他にもサラダなどの付け合わせがいくつかあって出来栄えはどれもよく、にゃん吉も僕の腕からもの欲しそうに身を乗り出している。食べさせてあげられないのが申し訳ない。


「美味しそう……これ、三人で作ったの?」


「そうだよ。役割分担したんだ。お鍋で煮込んで味付けしたのはわたしね」


 お玉をかき回すように美玲は手を動かす。

 

「わたしは、材料を洗って切った」


 咲希も流れにのっかって包丁で切る真似をする。


「そして味見をして盛り付けたのがわたしだよ」


 いちばん張り切っていたアキ姉ちゃんは調理をほぼやってなかった。


「アキ姉ちゃん、料理あんまできなかったよね」

 

「もう、二人がいるんだからそういうの言わないの。それにできなくたって、わたしのご飯は薫くんに作ってもらえるでしょ」


 作りませんが? 僕がなにか言う前に、都合の悪い話を挟んで綴じて終わらせるように、アキ姉ちゃんは両手をぽんと打つ。


「ささ、そんなことより、冷めないうちに早く食べちゃお」


 エプロンを外して三人も席についた。皆でそろっていただきますと手を合わせる。


「……うま」


 男が僕一人だけという状況に多少はそわそわしていたけど、食事がはじまるとそれも気にならなくなった。カレーがめちゃくちゃ美味しいからだ。なにこれ、ありあわせでこんなの作れんの? あとで作り方教えてもらおう。

 

「どうよ、薫くん。なかなかのものでしょ」


「すごい美味しいけど、アキ姉ちゃんなにもやってないじゃん」


「あ、ひっど~い。薫くんのぶんは愛情こめてよそったのに~」


 持ってくるときトレーにのせてきてたんだから、どれがどれだかわからないだろうに。


「よかったね、咲希ちゃん。上手くできて」


「うん。よろこんでもらえて、よかった」


 調理組は顔を見合わせて小さくガッツポーズをする。そこにアキ姉ちゃんも混ざり、料理に舌鼓をうちながら和気あいあいと女子トークがはじまった。好きなお菓子はなんだとか、使ってる化粧品はなんだとか。僕にとっては完全に未知の世界なので、必然会話からはじき出される。


 吹きすさぶ疎外感の風のなか、そういえばこんなふうにだれかと食卓を囲むのは久々だなと僕は思った。


 両親はコーヒーを極めすぎて世界中をまわってるからなかなか家に帰って来ないし、じいちゃんもあんなだしで、猫たちをのぞけば食事はいつも一人きりだ。やっぱりだれかがいると賑やかで明るいし、空気も暖かくなる。こういうのを団欒というんだろう。


 夕食を終えて皿洗いをしているときにアキ姉ちゃんが言った。


「ねぇ薫くん、食後のコーヒー淹れてくれないかな? せっかく来たんだし飲ませてよ」


「いいよ、わかった」料理ではお世話になったのだから、それくらいお安い御用だ。「咲希と美玲も飲む?」


 猫たちと戯れていた二人にも聞く。え、薫くんが淹れてくれるの? 飲みたい飲みたい! と美玲ははしゃぐけれど、咲希はというと、なにやら申し訳なさそうに目を伏せた。


「ごめん。わたし、苦いのあまり得意じゃないから」


「あー、それなら……」


「大丈夫大丈夫。薫くんのコーヒーほんとすっごい美味しいんだから。飲めない人でもたちまち虜にしちゃうくらい」


 僕の言葉を遮りアキ姉ちゃんが答える。ハードル上げないでほしいんだが。


「そう、なんですか? そしたら、その……ちょっと、飲んでみよっかな」


 不安と興味を半分ずつ抱えたような表情で咲希は言った。


「うん。まぁ苦くないやつもあるから、それ淹れるよ」


「苦くないコーヒーって、あるの?」


 嫌味ではなく、純粋にそうなんだといった表情を咲希は浮かべる。


 これが、たぶん普通の感覚なんだろう。黒くて苦くて大人が嗜む飲み物。眠気覚ましのためのツール。むかしながらの喫茶店コーヒーや缶コーヒーの印象が強いからだろうけど、ほんとはそれだけじゃないんだよと、僕は心のなかで寂しげに呟いた。

 

 まぁいまさらそんなことを嘆いても仕方ないんだけど。


 というか苦みがすくない、いわゆる浅煎りのコーヒーが日本でひろまったのだってここ最近で、飲んだことない人の方が圧倒的に多いんだから、わかっておけというのが無理な話だ。気を取り直して僕は言う。


「説明するより、飲んでもらった方がいいかな。すぐ淹れるから、すこし待ってて」

 

 水仕事で濡れた手を拭きさっそく準備をはじめた。


 ダイニングの壁際には棚付きのキッチンテーブルがあって、そこにはコーヒー器具やらお気に入りのカップがずらりと並べてある。細口のケトル。重厚感たっぷりのコーヒーミル。ガラスサーバーとドリッパー。


 あとは、足元にある保存用の小型冷蔵庫からコーヒー豆を選んで――。


 とそこで、頭上から姦しい声が降ってきた。


「へぇ、なんかいろいろあるんだね。雑貨屋さんみたい」


「薫くんって意外と凝り性で、むかしっから気になったのあればすぐ買ってたからね」


「あ、このカップ、猫ちゃんの柄ですごいかわいい……」


「それわたしがプレゼントしてあげたやつ! まだ使ってくれてるんだ!」


「気が散るからちょっと大人しくしててくれないっ?」


 顔を上げれば、目に入るのはすらりと伸びた玉肌な美脚。いつの間にか三人が僕を囲み、棚のなかを興味津々に物色していた。いったん作業を止めて、ケチだのなんだのと不満をたらす彼女たちをテーブルに座らせ、再び冷蔵庫を漁る。


 これがいいかなと取り出したのは、エチオピアのコーヒーだった。苦みがすくなく華やかさがあって甘酸っぱいやつ。これだったら咲希も飲めるだろう。


 ひと通りの準備を終えて、三人の視線を背中に感じながら僕はコーヒーを淹れはじめた。


 小気味のいい音を立てて挽いた粉をドリッパーに入れ、沸かしたお湯を注ぐ。いい香りだ。これを堪能できるのは淹れる人間の特権だろう。その香りを浴びながら僕はケトルを回していく。一投二投目はいきおいよく。三投目はゆっくり丁寧に。最後は中心にだけ。


 線を描くように落ちていく液体はサーバーの底に琥珀色の泉を作り、しばらく経つとぽたぽたと途切れて、穏やかな雨のような心地よい音を響かせる。


 できあがったコーヒーをカップに移すと、なぜか知らんが拍手が起こった。べつに見世物じゃないんだが。そんな大袈裟なと苦笑して、僕は三人の前にカップを差し出した。


「はい、どうぞ。ごゆっくり楽しんでください」


「うん。ありがと」と咲希は言って、僕の顔を見たまま目をぱちくりさせる。


「どうかした?」


「薫くん、なんかお店の人みたい」


「お店の人なんですが……」


 ただ出すだけなのも芸がないと思い、それっぽく店での決まり文句を口にしたらこれである。

 

「あ、ごめん。その、そういう意味じゃなくて……」


「いや、わかってるから大丈夫だよ」いつもの天然ですよね。

 

「学校の制服だとそう見えないよねー」とアキ姉ちゃん。「しかも薫くん女の子っぽい顔してるし、泰三さんや武さんや友梨奈さんと比べちゃうとどうしても雰囲気が出ないというか」


「フォローに見せかけて追い打ちかけるのやめてくれないかなっ?」

 

「でもコーヒーすごい美味しいよ。ほら、咲希ちゃんも飲んでみなって」


 美玲が興奮気味にすすめる。咲希はおそるおそるカップのふちに口をつけてひとくち飲むと、かすかに目を見張り、それからほぅと落ち着いた息を吐いて口元を緩めてこくこくと満足げに頷く。続けてふたくち目も。よかった、うまくいったようだ。


 三人の好印象な反応を見届けて、僕も自分のぶんを淹れていっしょにひと息ついた。華やかな香りが漂い、会話にも花が咲く。例によって僕は聞いているだけだけど。


 優雅でなごやかな時間はあっという間に流れ、そろそろおいとまを、という時間になった。


「なんだかんだ結構くつろいじゃった」ぐぐっと伸びをしながら美玲。「今度はお店の方にも行こうね、咲希ちゃん」


「うん。にゃん吉にも会いたいし。それに薫くんのコーヒーも、また飲みたいな」


「だよねぇ。わたしもファンになっちゃった」


「おー。今日一日で女の子二人も篭絡させるなんて、流石は薫くん」


「なにが流石だよ。人聞きの悪いこと言わないでくんないっ?」


「あはは、ごめんごめん。薫くんいじるの楽しいからつい」


 傍から聞けば僕の人生が社会的に終わりかねない冤罪をついで口にしてほしくなかった。


「じゃあもう遅いし、わたしたち帰るね。二人とも、家まで送ってくよ」


 この雨が降りしきる宵闇のなか、女の子二人だけで帰るのは不安だしそれがいい。咲希と美玲も特に遠慮することなく、よろしくお願いしますと頭を下げた。

 

 そうして三人はアキ姉ちゃんの車で帰っていった。

 

 獣の咆哮のような排気音が彼方に消えて、玄関まで見送った僕は再び家のなかに戻るのだけれど、なんだかぽっかり空いた洞に風が吹き込んでくるような寒々としたものを感じて、すこし寂しさをおぼえる。それだけ、彼女たちが放つエネルギーが強かったんだろう。個性といってもいい。

 

 真っ暗でしんと静まり返った廊下を歩き、ふろ場に入る。


 シャワーを浴びると、溜まりに溜まった疲労がお湯に溶けて流され排水口へと吸い込まれていった。いろいろありすぎてもうへとへとだ。一日でこなすイベント量じゃない。何日かに分けてくれればいいのに。


「……あぁ、そうだ。じいちゃんに、咲希と美玲のこと話すって言ってたんだ……」


 う~ん、とすこし考えて思い直す。まぁいいか明日でも。今日はさっさと寝よう。


 寝間着に着替えて、自室のベッドへと崩れるように顔面からダイブし、四肢をぐでぇっと放り出し脱力させた。そのまま気絶するように深い眠りにつく。


 と、思いきや。ぼふっと顔を埋めた瞬間、布団に微かについた女性もののシャンプーの香りやらなんやらが鼻腔をくすぐった。

 

 そうだ。ついさっきまでここには、アキ姉ちゃんが寝転がっていたんだった。


 意識してしまったが最後、思春期男子とはなんと単純なものか。そのときのあられもない姿がいくらか色気割増しで美化されてまぶたの裏に浮かびなかなか眠りにつけず、僕はもんもんとした夜をすごすのだった。おのれアキ姉ちゃんめ。

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