第4話

 このまま昼休みが終わるまでずっと雨をかぶり続けることを覚悟していたけど、白峰さんがくしゅんとくしゃみをしたことでしんみりした空気はどこかへ飛んでいき、猫がいることもあって僕たちは雨がよけられる建物の壁際に場所を移した。


 となりあって体育座りをし、お互いぼんやりと雨の向こう側を眺める。


「……雨、やまないね」


 雨音にかき消されそうなほどの小さなつぶやきが聞こえた。


 横を向けば、ちらりとこっちを見ていた白峰さんと目が合う。ろくに傘もささずにいたから彼女の体も水滴を纏っていた。湿った髪がおでこに張り付き、スカートからはしっとりと濡れた脚が惜しげもなく出ていて、肩には体を冷やさないように、僕の制服を羽織っている。


 おまけにかわいいときたもんだから、そんな子がすぐ近くにいると思うと落ち着かない。どうして雨に濡れた女の子って、こんなにも色香を漂わせてくるんだろう。直視してはいけない気がして僕は視線を下げた。


「今日は、夜まで降るみたいだから」


「そっか……ねぇ、薫くん」


「なに?」

 

「薫くんの用事って、ハンカチ渡すだけ、だったの?」


 白峰さんがタオルで包んだくるんだ猫をなでながら聞いてきた。


「えっと、それ以外にも話とかできればなって思ってたんだけど」


「今、してるよ?」


「まぁそうなんだけどね。なんていうか……」


 たまには店に入ってください。なんてこの空気で言えたら、そいつは勇者でもなんでもなく。ただなにも考えてないだけの大馬鹿能天気野郎だ。いくら僕でもそれくらいはわかる。


「それはまた今度でいいよ。とりあえず、今はその子をどうにかしないと。この雨のなか外にいたままじゃ弱っちゃうし、ずっとこの場所にってわけにもいかないから」


「……でも、どうしよ。わたしの家じゃ飼えないし」


 白峰さんの表情が陰る。


 家じゃ飼えない、か。よく聞く話だし、薄々はそうじゃないかと思ってた。こんなところで面倒を見ている理由なんてそれくらいだ。


 かといって、保健所には連れて行きたくないって気持ちも痛いほどわかる。うちもそう言ってあそこまで数を増やしているんだから。


「じゃあさ、白峰さん」


 ということなので、どこで飼うかというのはさほど問題ではなかった。極身近にいい場所があるじゃないか。


「その子、うちで預かろうか?」


「……いいの?」


「うん。もう何匹もいるし、その子が来てもそこまで苦じゃないというか」


 じいちゃんには許可取んなきゃだけど、二つ返事でオーケーしてくれるはずだ。親子そろって猫好きだから。


「それに、白峰さんだっていつでも会いに来れるでしょ? どうにかって言ったのは放課後までって意味で……まぁ職員室に預けるしかないんだけど」


「先生、許してくれるかな?」


「うちのこと知ってる先生何人かいるから、事情話せば大丈夫だと思うよ」


 あの人たちも例に漏れずうちの店にいる猫たちのファンなのですでに懐柔済みだ。新入りを先んじて見れるとなればよろこんで引き受けてくれるだろう。


 駄目押しでそう言えば、白峰さんは僕を見て、猫を見て、また僕を見て。すこし逡巡した後、唇をきゅっと結んでこくりと頷いた。


「ありがとう。薫くん、やっぱりやさしいね」


 白峰さんの頬がほんのり染まり、口元にはかすかに笑みが浮かぶ。


「いや、僕もその子……にゃん吉のことは心配だから、そんなお礼なんて」


「ううん。わたしだけじゃ、どうにもできなかったし。それににゃん吉のことだけじゃなくて、ハンカチとか、あと雨に濡れないように傘かしてくれたりとか。そういうの、全部うれしかった」


 そう言ってもらえるとなんだかこそばゆくなる。僕は照れ笑いして頷いた。


 しかも、その後も白峰さんはずっと笑顔でこっちを見てくるものだから、心臓の鼓動が火をくべられたみたいにどんどん上昇していく。身体の方も熱っぽくなってきたぞ。


 なんだこれ。わけもわからずどぎまぎして、僕はわざとらしく話をそらした。


「そ、そろそろ昼休み終わっちゃうし、早く職員室行こうか」

 

 ずっとこの時間が続いてくれればいいのに。と心のどこかで名残惜しみながらも僕たちはその場を後にし、廊下が上履きにまれて鳴き声を響き渡らせるなか、二人と一匹で職員室に向かった。


 その道すがら、すれ違う生徒たちが僕たちに好奇の視線を浴びせてくる。


「なぁ、あれって一年の」「あ、咲希ちゃんだ」「やっぱかわいい~」「あれ? なんで男子の制服羽織ってんの?」「ていうかとなりの男、だれ?」「まさか、彼氏とかじゃないよな……」「嘘でしょっ? 俺ファンクラブ入ってたのに!」


 聞こえてくる会話からは白峰さんの知名度の高さがうかがえる。やっぱり人気者なんだな。ファンクラブまであるのか。漫画とかの世界だけかと思ってた。


 けれど、そんな彼女のとなりを歩く僕は気が気じゃなかった。誤解が際限なくふくらんでいくのが肌でひしひしと感じる。


「白峰さん、もうちょっと離れて歩かない?」


「や、やだ。だって皆、こっち見てるんだもん……」


 耐えかねた白峰さんが僕の背中にかくれると、ささやき声は黄色い歓声と断末摩の悲鳴に変わった。


「そうやってくっつくと、もっと見られるからっ」


 見られているのはもっぱら僕の方だけど。視線に物理的な殺傷能力があればとっくに穴だらけだ。だけどもうすこし。職員室にたどり着ければ、この集中砲火からひとまず逃れられる。


「およ? あ、いたいた薫くん」


 しかし、あと残り数メートルというところで、今しがた職員室から出てきた美川明乃みかわあきの先生に呼び止められてしまった。ぴしっとしたブラックのスーツを身に纏い、五倍子ふしで染めたような灰色がかった淡い茶色の髪を後ろで束ねた新任の英語教師だ。


「もう、捜したんだよ。教室行ってもいないんだもん」


「いや、あの、ちょっと……」


 わけあってこの美川先生と僕は長い付き合いで、呼び方にも口調にも親しみが込められている。が、公私混同は止めていただけませんかね? ただでさえ注目されているのに、あなたみたいな新任の女教師と親しい間柄って知られたらまた火に油を注ぐでしょうが。

 

「先生、学校で『薫くん』は止めてくださいって、前にも言いましたよね?」


「うわっ、慇懃いんぎん。高校生になった途端これだよ。つれなくなっちゃったなぁ。ちょっと前までは、アキ姉ちゃんアキ姉ちゃんってわたしの後ろくっついてきてたのに~」

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、先生はつんつんと僕の頬を突ついてくる。周りからの視線もぐさぐさ突き刺さる。

 

「だからこういうのは止めてくださいって」僕は鬱陶しそうに先生の腕をやんわりと払った。「それでなんの用ですか? 僕らも職員室に用があるんで手短にお願いしたいんですけど」


「僕ら?」


 そこではじめて先生は僕の背中にかくれていた白峰さんに気づく。


「あれ、白峰さんもいるじゃん。なに、どういう関係? もしかして逢引き?」


「違うに決まってるでしょうが。ほら、白峰さんの腕のなかも見てやってくださいよ」


 先生が僕の肩越しから覗くと、白峰さんはびくりと身体を揺らす。


「ありゃ、猫ちゃん。どしたの?」


「あの、この子は……」


「校内に迷い込んでたんです。放っておくわけにもいかないんでうちの店で預かることにしたんですけど、放課後までは職員室にと思って」


「あらら、それは大変。わたしの用事なんて大したことないし後回しでいいから、早く連れていきましょ」


 自分のことを二の次にして職員室に戻ろうとする先生。こんなんでも一応教師なのだ。その背中に、なんとなく気になったので僕は投げかけてみた。


「大したことないって……ちなみに先生の用ってなんだったんですか?」

 

「え? いやほら。薫くんの部屋に置きっぱなしにしてた漫画。なんか読みたくなっちゃったから返してもらおうかなって」


 聞いたことを心底後悔した。とんでもない爆弾が投下され、その場にいた生徒たちがざわめきだす。ほんとになに言ってくれてんだよ。


「わ、わかりましたから。明日持っていくんで、それでいいですね?」


「そんな悪いって。それにすぐ読みたいから、学校が終わった後にでも取りに行くよ。夜になっちゃうけど」


「だあああああっ。もういいから黙っててください! この続きは職員室で!」


 これ以上よけいなことを言われてはたまったもんじゃない。僕は先生の腕をつかんで職員室へと引っ張っていく。


「やだちょっと。わたし強引な薫くんも嫌いじゃないけど、ここ学校だからそういうのは……」


「アキ姉ちゃんには言われたくないんだけど⁉」


 いきおい余って思わず口をついてしまった。僕がそう呼ぶと、先生は満足げににっこりと笑う。


 けれどその笑顔の代償は僕の平穏な学校生活だ。好奇やら嫉妬やら。あと白峰さんの戸惑った視線やら。あらゆる感情が飽和する衆目の檻から逃げ出すように、僕は二人を引き連れ職員室へと駆けこんだ?

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