複雑怪奇な彼女

星見守灯也

複雑怪奇な彼女

「申し訳ありませんが、相席を」

「はあ」

 なんとも間の抜けた返答だと思った。

 しかしウエイターはさっさと反対側の席を勧めてしまう。

「すみません」

 女性だった。年齢は二十ほどか。

「ああ、はい」

 ノーと言えないのなら、もっとましな応答ができればいいのに。

 向かいの席で、彼女もメニューに目を落としている。

 彼女は何を頼むのだろう。同じものを頼んだら、少し気まずいだろうな。


 不意に彼女が顔を上げた。どきりとして、メニューに目を戻す。

 からん、と涼しげな音がした。ああ、なんだ、水を飲んだだけか。

 ほっとして、そうっと目線を上に上げていく。


 ――目があった。

「あの」

 にこりと微笑まれ、なんだかまごついてしまう。

「はあ」

「水は、」

 彼女は、呟くように言った。

「水は、なんでも知っているの?」

 一瞬戸惑って、そして理解した。

 なんだ、どこぞの宗教の勧誘か。混雑した昼飯時に何を呑気な。

 ほんの少し、何かを期待していた自分をむこうに追いやる。

「善い言葉をかければ、綺麗な結晶になると」

 ああ、これは面倒くさいことになりそうだ。

 こういうのは肯定しても否定しても角が立つ。まして初対面の人間だ。

 困ったなぁ、と露骨には表に出さないが、それという雰囲気はあったのだろう。

 彼女はちょっと小首を傾げ、またそうっと、様子を伺うように言うのだった。

「善いものは綺麗、じゃあ悪いものは醜いの?」


「綺麗なものは正しくて、醜いものは正しくない……本当?」

 と、彼女はグラスを手元に引き寄せ、水平に揺らした。

 からから、からり、と彼女の手の中で小気味いい音が鳴る。

「あなたは、何が綺麗で、何が正しいの?」

「えーっと……」

 本当は適当に答えて煙に巻こうかと思っていた。

 だけど、それがあまりにも間抜けな問いかけだったから。

「ぼくはさっき、その氷の音が綺麗だと思ったんだけど。それは、君が正しい『から』綺麗な音が出たのかな?」

 一瞬、目を見開いた彼女は、息を吐くように、ふふ、と笑った。

 氷と水とガラスが立てる音のように、鮮やかな答えだった。


 彼女はちょっと唇に手を当て、微笑んだ。

 その様子が、とてもかわいらしくて。つい口が滑ってしまった。

「真理は単純で美しい。ある科学者が言ってたけど、本当にそう思う?」

 小さな手がグラスの縁に触れた。そのまますうっと指でなぞっていく。

 彼女の視線はぼくから外れ、まっさらな画用紙に本来描かれているべきものを探すかのようだった。

「音は、」

 その想像を断ち切るように、ぽそりと、彼女は言った。

 グラスが、もしも、もっと薄いガラスで出来ていたとしたら。

 きっと綺麗な音が生まれたのだろうな、と思う。

「二つの音の周波数比が単純なほど、良く調和するというけど」

「聞きやすい音だね」

「そんな音だけを集めて作った曲は、最高の曲になるかしら?」

 彼女はグラスから手を離し、じっとぼくを見つめる。

「綺麗すぎる音だけは、味がないの。……純水でできた氷のように」


「まあ、あの単純な分子構造が音を理解するとは思えないけど」

「そうね。水が本当に全てを知るなら、人ごときの感情には左右されないでしょうに」

 彼女がにっこりと笑う。その表情は笑いという単純なものではなく。

「ご注文は?」

「あ」

 グラスの氷はすっかり溶けてなくなっていた。




「あの時、何食べたんだっけ?」

「さあ。覚えてない」

 結局、あれが彼女との出会いだった。

「どこかの科学者が言うように、世界はシンプルなものかしら」

「少なくとも、ぼくにとっては複雑怪奇だね」

あの後、ぼくと彼女は世間一般に言う「付き合っている」状態になってしまった。


「……きみは、十分複雑で綺麗だよ」

「うん。その点に関してあなたは正しい」

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複雑怪奇な彼女 星見守灯也 @hoshimi_motoya

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