レール上の悲喜劇
@atsub
第1話
私の力ではびくともしなかったスライドドアが開いた。建付けの悪い不愉快な音が響いて、また引き返す。
そして部屋がまた静かな閉鎖空間に戻ったと思えば、キュッキュとせわしないスリッパが近づいてきて、私の寝台前で止まった。
「起きてる?」
返事がおっくうだ。
「朝ごはんもう食べた?」
それはそれは、つまらなかった。
味のないゴミをかみ砕いて飲み込むだけだった。
「開けるよ」
桃色のベールが崩れる。
すき間から青年が顔を覗かせる。日焼けした彼の肌が、この生活では貴重だった。
「起きてたんだ。おはよう」
言葉には朗らかな笑みが含まれている。そのよく通る低い声は私には痛いぐらい。
青年は観音開きのカーテンをまとめていく。
今日はどんな土産話を聞かされるのか。私が欠席し続けている学級のことか、大会があったとかいう彼の部活のことか。どれも愛想笑いすら出なかったのに。
それでも、遠い昔から白黒へ退化した世界の中で、彼の話を聞いている間はほんのりと色がついている。
「今日はちょっと…」
斜め前におかれたパイプ椅子に、彼はぎこちなく腰かける。
「あの、話があって来たんだ」
わかってる。いつもみたいにどうぞ。
興味ありげに顔を向けると、俯いて座る彼は赤面していた。酒でも飲んでいるのかというほど熟れあがった赤さに、私は思わず目を見開いてしまう。彼はつっかえながら話す。
「退院予定って、来月末だよね」
私はそんなこと教えてないのに。またお母さんかな。
「もしよかったら、どっか出かけない?」
少し目がそれる。でも行ったって何もない。それよりひとりでいたい。
外に行っても、楽しいことをしても、誰かと一緒に居たって、結局私は…
「瑞空さん、大丈夫?どうしたの?」
肩をぽんぽんと叩く大きな手と穏やかな声ではっとした。気づけば私の唇は小さく震えて、ほてった身体は冷や汗を滴らせている。
心配そうに覗き込む彼がにじんで映って、慌てて顔を背け瞼を閉じる。
彼はごめん、と謝って椅子に戻る。
「ゆっくりしてて」
いやな心動と発熱が収まらない。息を整えようと深呼吸をする。
残り少ない春の空気が肺を満たして、真新しい酸素が体内に駆け巡るのを感じる。それでも内包した熱は消えず、吐く息も妙に荒いままだった。
「落ち着いた?」
私は顔を向けて見つめるだけで何も言わない。
すると彼はまた少し赤くなる。
そしてあからさまな照れ隠しで立ち上がり、ぱんぱんに膨れたスクールバッグを勢いよく背負う。
「俺もうバイト行かなきゃいけなくて。また来るね」
口ごもりながら彼は言って、ぎこちなくカーテンを閉め始める。足とうっすらと伸びる影だけになった彼はじゃあ、と言って小走りに消えていった。
やかましい扉も静まった後、私は横になる。
焼けただれる体をブランケットで隠して、焦げくずれた頭を枕にうずめる。
あの人は眩しすぎる。超高熱の善性にはどうしてもなじめない。
触れてしまえば炭の欠片すら残らず、私の心は失われてしまう。
◇
返信が来たときは、毛布にくるまって叫びたくなった。遠い存在だと思っていた少女と一緒に出かけられるなんて。
「いいよ」
画面に表示された短く不愛想な言葉を、握りつぶしてしまいそうなほど嚙み締める。満員電車の中でぎゅっと目をつむって、心身をゆらめきに任せる。
奥底から掌握されるような一目惚れから丸1年、やっと彼女と「らしい」ことができる。
どこか途方もなくなってしまう雰囲気を放つ彼女は、いつも目先の欲望に支配されている幼稚な僕にとって、遠大な旅路と試練を越えた仙人のように感じられたものだ。
しかし、それを上回る動機がある。創作された存在ではないかと疑ってしまう程の美貌だ。極めつけにあの儚げなしぐさ。卑しい庇護欲を掻き立てられた僕は成す術なくとりこになった。
ここしばらくは声すら拝めていないが、あの限りない魅力を構成するなにかにひとつでも触れていられないかと、限りある面会日で通い詰めた。
クラスメイトも先生もいない、会話が無くともたったふたりきりでいる時間は、1日の鬱憤が全て吹きとぶくらいの心地よさだった。
そうしてあたたかな感慨にふけっていた時、学校の最寄り駅へ電車が到着する。見慣れた制服を着た男女がぞろぞろと降りていき、僕はその最後尾として流れについていく。
同級生であろうが挨拶も交わさず、にぎやかな列にただ引きずられて登校した。
◇
限られた時間で、着実に計画は練られていく。
「うん」
応えは非常に淡白だが、問いに彼女が答えてくれるだけでうれしかった。
「いいと思う」
感嘆も疑問もない。質問に一言返すだけ。大抵は了承してくれた。
「わかった」
あれから3週間を経て、ほとんど押し付けるような形になった気がしなくもないけれど、ひとまずは来月の頭に美術展示会を観に行くことになった。本を読んだり絵を描いたりしている様子はたびたび見かけていたから、そんな芸術的な彼女が楽しめる良い休日になると思う。
土日で直接話しに行った時も感触は良かった。頷いたり首を振ったりしてくれるようになったし、くすりと笑うこともあった。
そんな彼女のひと欠片に触れた日の帰り道は、湧き出す希望と喜びに彩られていた。
「永井くん」
翌日に約束が迫った金曜日、帰り際に擦り切れそうな程か細い声が聞こえた。振り向くと目が合う。
「楽しみにしてる」
色白で可憐な彼女がにっこりと笑った。
◇
とめどない人の往来をベンチから眺めて、永井は約束した時間を待つ。
眠気が抜けない朝から日のだいぶ昇った午前中まで、駅構内はいざ休暇を楽しもうという老若男女で溢れていて、長年の登下校で人波に慣れている彼でも軽く辟易するほどだった。
その止まない喧騒にもまれていた時、ポケットのスマホがかすかに鳴いた。すかさず取り出して見ると、瑞空の着飾らない素朴なメッセージがひとつだけ送られてきている。
「ついたよ」
すぐに立ち上がって辺りを見回すが、あらゆる隙間を満たす横断に遮られ、瑞空の姿を探し出すことはできなかった。
あちらこちらと見渡している間に、今度は電話がかかってきた。コールが3回鳴る前に応答する。
「もしもし、いまどこ?」
「中央線の改札近く」
「わかった。じゃあ今行くね」
瑞空の声は雑踏にかき消されそうな小ささだったが、永井の耳ははっきりと聞き取った。はやる気持ちに任せて、足早に歩きだす。
相変わらずの混み具合をくぐり抜けて改札に着くと、柱に背中をはりつけるひとりの少女がはっきりと映った。
絵具を落としたような白がとびきり目を引く。全身にまとった引きずり込まれそうな黒の中で、貴き純白の肌が輝いている。永井はその姿を見るや否や心臓が跳ね上がり、なんともいえない高揚と不安を感じた。いっそこのまま予定をはぐらかして帰ってしまおうかという臆病な考えもでたが、さすがにこの千載一遇の機会を逃すわけにはいかないと、勇み足で障害を通り抜け、少しづつ近寄っていく。
だんだんと鮮明になる瑞空のたまらない麗しさに、いよいよ心拍が頂点に達するというところで、ふと顔を向けた彼女がこちらに気付いて話しかける。
「顔赤いよ」
きょとんと目をあわせてくる永井を、瑞空は冷ややかに見つめ返す。
「ああちょっと、暑くてね」
永井はあっけにとられた様子でたじろぎ、不明瞭な返事をする。瑞空はもたれた身体を起こし、ふいと歩き出して言う。
「今日はよろしく」
これまで拝むことのなかった瑞空の背中を永井はやや呆然と追った後、我に返って小走りについていく。
「どうしたの?」
瑞空は遅れて並んだ永井をちらりと一瞥して聞く。
「いや、楽しみだなって」
そう答えて永井ははにかんだ。
◇
先程のやかましさとは打って変わって、美術館内はまっさらな静けさだった。コンクリート打ちっぱなしのエントランスでパンフレットを受け取り、来館経験が多いという瑞空の先導で肌寒くすらある通路を抜け、展覧会スぺースに辿りつく。
市立病院の待合スペースよりはさすがに広いかというくらいの空間で、大小さまざまな作品がこれみよがしに置かれている。瑞空は入ってすぐにある巨大なモノをにらみつけるように眺めはじめるも、永井は解説文を一瞥したのみで「先、観に行ってるよ」と次に行ってしまった。
そして何人かの観覧客がよそいきに通り過ぎてから、じっくり味わうより一通り目に入れようと瑞空は思い立って、ずんずん奥に進んでしまった永井を追うように順序立てて観ていく。
ある高校生作の絵画には、なんとも瑞々しくない題名とちょっとした手の内明かしが書かれている。大賞受賞マークが彼女をずきりと痛めた。
あまりに精巧な工芸品を覗き込んで、見知った製作者を彼女は思い出した。
あの人とは席を並べたこともあったが、今ではどうだか。
瑞空は作品を目で受け取る度に拭い去れない苦悶を覚え、結局立ち止まってしまう。いつ何時でも全身を切り裂く才覚の限界と優劣。エキストラとしてさえ過ごせなかった日々。私の生きる行く末に希望はない。
そうして手前も手前で停滞している彼女の元へ、永井が心配そうに戻ってきて話しかける。
「別々のほうがじっくり見られると思ってたんだけどさ」
「良かったら、一緒に見ない?」
呼びかけで瑞空がぐるりと振り向いたその途端、目を合わせた永井は底知れぬ恐ろしさで視線を釘付けにされる。
彼女の目はぽっかりと空いた大穴のように見開かれていて、生気が感じられない。肌の青白さが真っ黒な瞳を際立たせる。引き込まれそうな負の深淵を全身から覗かせる瑞空を前にして、強烈な悪寒が永井を感電させる。
それでも永井は芯が抜けた両脚で彼女へ歩み寄り、無骨な左手を小さな右手に重ねる。瞬間ひやりと冷たい刺激を感じたが、筋張った寒さは段々と和らいでいき、鼓動する温もりを感じられるまでになった。永井は言う。
「ごめん」
恐れや迷いを背に這わせながら永井は続ける。
「一緒に観よう」
言葉を精一杯しぼりだして、永井は瑞空を直視する。そこにあの濃い陰りは無く、既にくすんだ黒の両目へ瞼がぼんやりと垂れ下がっているだけだった。先ほどまで死人のようだった肌色もいくぶんか現実味を取り戻してきて、それどころかのぼせたように火照りはじめる。
カメレオンばりの変色に永井は少しうろたえて、ぱっと手を放し後ずさる。
「あっ、ごめん…嫌だったよね」
斜めに目線をずらす永井が遠ざかって、上の空でいた瑞空の焦点は急速に彼へ戻る。小さく首を振ってたどたどしく話す。
「嫌じゃない」
「いっしょに、お願い」
未だ燃えている身体と掌を永井に向けて、瑞空は返答を待った。
永井はそっと手を握る。
◇
苦しくないように優しく、ほどけていかないように固く、二人は手を握り合っていた。展示物を巡り見る間も、灼けた街をゆっくりと帰る間も離すことはなかった。
そしてそのままで駅のホームに並び立っている時、瑞空が小さな声で呟いた。
「わたし達、付き合う?」
瑞空は恥じるそぶりもなく回答を委ねている。
これでもう疑いようがない。ひそかに高まっていた可能性はついに失敗の憂慮を押しのけた。念願の成就を確信して永井は頷く。
「瑞空さんがよかったら、僕もそうしたい」
永井はひと回り背丈の低い瑞空を横顔で見やる。全身に差す橙で顔色を読むことはできない。すると瑞空は手をぱっと離し、うわずった涙声で話す。
「なら、二人で」
瑞空は黄線にさりげなく乗り唖然とする永井へ振り向く。彼女は背負った夕焼けに反して悲しげな表情で問う。
「どう?」
そこで永井は身に覚えがある雰囲気を言の節々から感じて、今起こりつつある未来を認識した。まだはっきりと確証もなく、どう転ぶか決まった訳でもないが、きっとここからは身の振り方で失敗できないだろうという思いが強まる。
注意喚起のアナウンスが、さながらカウントダウンのように流れた。黄色い線の外側で、じれったく選択を待つ瑞空が一歩後退する。
「嫌だよね」
そうだよね、とまた一歩。かかとの一寸先では線路がかすかにうなっている。
「紗月さん」
永井は静かに隣へ歩いていって、震える瑞空の手首を飲み込むように掴んだ。
「一緒にいよう」
ぐっと両脚に力を入れて無事に成し遂げられるよう願う。一息でいくには良い姿勢だ。
「一緒のほうがいいでしょ」
瑞空の黒髪が風でなびいた。
ホームを仰ぐ永井のすぐ近くを絶叫が轟いて、過ぎ去った。
◇
連休の明けた朝、登校した全生徒が集まる体育館内はざわついている。不登校の美少女とパッとしない少年が起こした騒動で話題は事欠かない。男女のもつれが原因だというのがもっぱらの噂だが、どこからともなく接着された起爆剤に火がついて、確かなピースが無いままでたらめな憶測が広がっている。
いつまでも落ち着きのない空気の中、校長がステージに上り、神妙な調子で話し始めた。
「みなさん既にご存じかと思いますが、先日の土曜日、二人の生徒が電車に飛び込みました」
生徒たちの囁きへ熱が入る。
「間一髪のところで幸い大事には至りませんでしたが、わたしは朝早くからつらい思いでいっぱいです」
自死という行為を嘆く談話は続く。その間もこそこそと話す声は止まない。
「女のほうは地雷系だって、有名だよな」
「そうなん?でも確かにすっげぇ可愛かった」
「あの男の子知らないんだけど…」
「なんかよく早退してるらしいよ」
それから挨拶もそこそこに集会は終わった。
新鮮で非日常だったトピックも放課後にはすっかり衰えて、灰色の曇天に包まれた帰路では他愛もない会話にすり替わる。
「遅延ヤバすぎ」
「迎え来てもらったほうがいいなこれ」
ひとりだけの線路は冷たく、暗い血反吐に染まっている。
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