39 サキの忘れ物

「今回の『ことばの森に寄り道しよう』、これにしようと思うんです。短篇集の中の一篇」


 国語科打ち合わせのあと、職員室に戻った私に松田先生がすっと差し出してきたのは、『サキの忘れ物』というタイトルの四六版の本だった。先生は表紙をめくり、目次を指さすと、私に向かってにこりと笑った。先生のその細く骨張った指の先にも「サキの忘れ物」の文字があった。私は再び先生の顔を見た。なんだかニヤついているようにも見える。


(ツッコミがほしいのかな)


私はそんな先生をおちょくろうと思って、ボケ返すことにした。


「私何か忘れてます?」


 私は目を少し見開いた。先生は面食らうでもなく、微笑んだままで、


「どうかな。何か大事なものを置いてきてしまったかもしれませんね。大人になるまでに」


意味深な言葉を放った。私の頭には「?」が浮かんだ。どういう意味ですか、と尋ねるのも先生の術中にはまる気がして、ボケ続けることにした。


「先生も何か忘れてるんじゃないですか」


「そうですね。例えばなんだろう」


「えっと、ペッパー女王、とか」


「ああ!」


 先生の声が大きかったせいか、数人の視線を感じた。


「声大きいですよ」


「ごめんごめん。いや、こないだからちょっとモヤッとしててね。女装したことあるんですかって生徒に訊かれたから、あるよって、具体的に名前を挙げようとしたら、ど忘れしてて。エリザベス・M・ペッパーだったか……そんなんだったね」


先生はそんなことまでちゃんと覚えていた。


「なあんだ、覚えてたんですね」


「うん。まずかった?」


「いえ、どちらかというと忘れ去られてたことのほうがショックで」


「ごめんごめん。インパクトが強すぎるのも考え物で」


「言い訳ですか」


「いや、そんなつもりは」


「思い出に残る恋なら忘れることはなかったんでしょうねっ」


 今度はいたずらっぽく言ってみた。ちょっとした賭けのような覚悟だった。しかし先生は表情を崩さぬまま、


「ええ、そうですね」


と、視線を私から本へと移した。


「記憶の話になったけれども、あれ、覚えてるかな。雪の日、歴史屋書房で、担任を持つ前、一度会って話したこと。『サキ』っていうのはね、あのサキなんだ。もしよければ本ごと貸すけど、どう」


(えっ)


 松田先生からの借り物。初めてかもしれない。返さなければならないものだが、尊敬する師からのある種のプレゼントのような気がして、純粋に嬉しかった。


「いいんですか」


「いいですよ。もう授業用にコピーは取ってあるから、いつでも好きなときに返してもらって。もしかしたら足りないとかでちょっと戻してもらうこともあるかもだけど」


「ありがとうございます」


 私はその本を家に持ち帰ることはせず、自分のデスクの引き出しに入れておくことにした。お守りのような感覚だった。

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