31 文学教育の存在意義

 現代社会を生きていくためには、論理的思考やクリティカル・シンキング(批判的思考)といった実学だけでは足りない。精神的支柱が必要なのだ。古今東西拘らず、時に文学は己を代弁し、他者の気持ちを語る。そしてまた良き理解者となり、心の拠り所となる。現代社会にこそ、文学が不可欠なのだ。私はそれを経験した。恩師から学んだ。だから今度は私がそれを伝えていかなくてはならない。古典教育や文学教育は何の役に立つのか? 端的に言えば、人格形成と精神安定の一助となる。もちろん、これだけではないが、少なくとも私が国語を学ぶ楽しさを教える立場として意識していることはこのようなことだ。特に進学校といわれるようなところでは受験勉強のために「楽しむ」ということを忘れがちで、もはや大学に入るための手段でしかないというような捉え方をする生徒も少なくない。しかし、それは違う。彼らは、作品に向き合うことをもっと楽しむべきだ。純粋に物語を味わい、勉強だということをあまり考えず、自分の感じたことをそのまま表現するべきなのだ。これは私の願いでもある。


 それでもやはり試験の点数や成績は彼らにとって重要な指標となっている。模試の結果を聞いていると、評論や古典はそれなりに点が取れたが、小説はなぜこの答えになるのか解説を見ても解らない、という声がよくある。「登場人物の気持ちがわからないから解けない」と半ば諦めているような子もいる。そのたびに私は「嘘だよお、そんなのは。じゃあ、仮に今ここで僕が泣いてたとしましょう、そのときあなたは、僕の気持ちが一体どういうふうになっていると思いますか。具体的な出来事は分からないにせよ、悲しいことがあったのかな、くらいは予想できるでしょう」とかなんとか言ってみる。「先生の例えはまだわかりやすいからいいんですよ。直接的な行動には表れていないようなことを察するってことが難しいんです」と言い返されることもしばしば——というか、何かしら反論される場合、こういう返答がほとんどだ。そういうとき生徒は、物語を単なる説明としてしか見ていない。つまり世界に入り込めていない。そのあたりにいる傍観者となっている。いや、傍観者どころか活字をひたすら追っているだけになっている。評論と同じように、頭で理解しようとしている。小説を読むときに脳みそはあまり使わない方がいい。その代わり、登場人物のすぐ隣に自分の心を寄せておいて、彼らと共に驚き、悲しみ、喜び、時には怒るということをする方が、感じたことを言語化するのに難があっても、読解という点においては、「勉強をしている」と思い込むよりもはるかに良い成果を出せるのではないだろうか。気持ちというのは、頭よりも先に心で感じていることが多い。さらに、高校生は数学や英語など、国語以外にも頑張らなければならない教科がたくさんある。小説を扱うときくらい肩の力を抜いて、純粋に物語を楽しんでほしい、と私は思っている。

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