30 古典は役に立たない?

「——古典なんて、点が取れるからやってるだけなんだよな」


 三年生を対象にした夏期補講の直後、聞き捨てならない一言を耳にした。ちらりと顔を向けると、前から国語が苦手だと言っていた生徒が友人たちと喋っていた。どうやら先程の言葉はその友人が口にしたものらしい。私はそれをあえて止めず、教材を片付けるふりをしながらそっと耳を傾けていた。


 なるほど、彼は理系で、現代文はともかく、古文や漢文を学習する意義が解らないらしい。それが苦手意識にも影響しているのだろう。私はうんうん、と心の中で頷いていた。文系の友人も「好きでやってる」というようで、自分の志しているところと古典作品が直接的には結び付かないという。さらに、理系の彼含めた複数の生徒は、現代文であっても文学的文章については習う意味を見出せないでいるようだ。恐らくこれは、他の生徒も思っていることだろう。せっかくだから次の補講でテーマにしてみようか。目的や理由を見つけられないと、受験勉強も滞ってしまうに違いない。


 私は彼らの話の続きを聞こうとした。ところが、


「松田先生~」


次々と他の生徒たちがやってきて、私はその対応をしなければならなくなった。その間に彼らは教室を出ていった。私は矢継ぎ早に出される質問に答えながら、古典、ひいては国語を学ぶ意義について考えていた。


 自分のことを振り返ると、根源にはやはり「好き」という気持ちがあった。昔も今も変わらない人間の本質を垣間見ることができたり、現代にはない考えを知ることができたりと、私にとって古典を読むというのは「時空を超えた人間探究の旅」ともいえた。


 よく議論されるのは、古典教育の実用性である。現代とは読みも書きも異なる昔の文章を読ませて何になるのか。論理的な思考力を育てるためには、現代的な文章、特に批評文や説明文を多く読ませる方がいいのではないか。そもそも実社会を生きていく中で古典や小説を学校で教える必要があるのか。現在の国語教育は、実学とは言えないのではないだろうか。……完全に個人的な意見だが、「実用的な文章」ばかりの国語こそ国語嫌いを増やしそうだと思っている。感情論かもしれないが、そのような「国語」は、はっきり言ってつまらない。


 そもそもの大前提として、現代の政治や文化などは、当時使われていた言葉が今においてもそのまま残っているようなたった過去数十年間の積み重ねだけで成り立っているわけではない。今私たちを取り巻いているあらゆる事物は、数百年、数千年、数万年の歴史から形作られているものであり、そんな現在を生きる私たちもまた、これからの未来を構成する一要素である。歴史に名を残すような偉大な人物でなくとも——つまり私たちのようなごく一般的で平凡な人間でも、この世界の将来をつくっているのだ。柳田國男のことばを借りるなら、「現代社会の横断面、即ち毎日我々の眼前に出ては消える事実のみに拠つて、立派に歴史は書けるものだ」。古典が実用的でないというのは、全くの誤りだ。極端なことを言えば、例えば三平方の定理は建築や数学の世界において基本的な考え方の一つとなっているが、それを読み解いたのは、そして現代まで伝え続けてきたのは何だろうか。それこそ、古くから何度も書かれてきたいくつもの解説、つまり古典とそれを著した人々、及びその読み手なのである。人文学においても古典を読み解くのは重要である。仏教をはじめとした宗教も、各地に残る伝統的な風習も、教えや方法を記した文書があるからこそ、現在にまで伝えられ、実践されているのではないだろうか。書かれている意味を自分なりに解釈し、それを心の糧にするのは今も昔も変わらない人間の実際だ。それをどうして「役に立たないから」と切り捨てるのだろうか。人間らしい営みのひとつを、どうして否定するのだろうか。

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