19 教え子として、後輩として

 心臓が一瞬止まったかと思った。私は、高校生の一時期抱いていた松田先生への恋心を、気心のよく知れた彼女だけに打ち明けていた。まさかそんな前のことを覚えているなんて。唐突のことで、三秒間の沈黙さえも十秒ほどに感じられた。


「……うん、好きだった、その人」


私はうつむきながら、お冷を一口飲んだ。唐辛子でひりついた舌には冷たい水なんて生ぬるい。痺れが取れるのには少し時間がかかりそうだ。


「そっか。——さすがにもう、そういう想いはないよね。結婚してるし、なんだったら高校生のときに諦めたって言ってたし」


 私は顔を上げて、何も気にしていないような軽い口調で言った。


「うん。今は恋愛感情なんてないし、仕事をする上で信頼できる上司、尊敬する先生ってだけ。あのころの思い出も、今ではいい思い出だよ。みんな懐かしい、甘酸っぱい記憶」


そう——当時は辛かったけれど、それでも忙しい毎日にほろ苦さが溶けていくような感覚で、その後も何かと目の前のことに夢中になっていたから、いつの間にか泣きたい気持ちも、さらには強い感情さえも湧かなくなった。職場は同じだけれど、仕事の喧噪に揉まれる日々、教師という職業における師としてしか見ない、見えない。私はむしろそういう存在としての先生に対して安らぎを覚えていた。窮屈な恋をするより、あけっぴろげに接することのできる先輩と後輩(かつ恩師と元教え子)という関係であるほうが、気持ちはかなり楽だったからだ。


 諦めたことを、後悔はしていない。先生も望んでいたことだったし、あのとき諦めたからこそ、今の自分がある。そう信じている。




 デザートの時間。私はティラミス、梓はジェラートを食べながら、今度は私の結婚生活についての話になった。


「さっきも言ったけど、相変わらず美人だよねぇ」


「そう?」


「そうだよぉ。二重でしょ、スポーツやってたから筋肉もあって体引き締まってるでしょ、唇も下唇ちょっとぷっくりしてるし、眉毛もはっきりしてて、歯並びもいいし。非の打ち所がないよ。こっちなんか奥二重だから正面から見たら一重と変わらないし、お腹とか太ももとかぷよぷよだし、眼鏡だし。神は二物も三物も与えるんだーって」


梓は細い目で私を見た。


「そんなことないよ。大学まではテニスやってたけど、今じゃもう派手に動けないから。贅肉ついてばっかりの情けないプニプニおばさんだよ」


「え~? うそぉ。そんなこと絶対ないでしょ」


「いや、あるの。旦那さんと一緒にテニスに行くことがあったんだけど、明らかに鈍りまくってて、大差で負けた。大学のころは私のほうが戦績上だったのに」


「えっ、旦那さんと一緒にテニスしてんだ。いいな、そういうのに付き合ってくれる人って。まあでもそっか、同じテニス部だったもんね。写真見たけど、かっこよくて、性格もよさげじゃん。いいなぁ、理想的な夫婦で」


素直に言うと、照れる。でもデレデレするとかっこ悪いので、ニヤニヤするだけにとどめた。


「まあまだ新婚だし、ぼろはこれから出てくると思うけど、なんだかんだ上手くやってるよ。お互い教師だから、一緒にいる時間は会社勤めと専業主婦の人に比べたら少ないかもだけど。梓こそいい夫婦じゃん。半年に一回は一緒に旅行行ってんでしょ」


梓も、同じサークルの同期と交際して結婚に至っていた。


「それがさ、今年から年イチになったのぉ。節約しようって言って。稼ぎが少ないのはごめんなさいだけど、モチベにもなってたことを削るってどうなの?」


文句の言い方が梓らしい。私は終始笑いながら彼女の愚痴を延々と聞いていた。

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