14 お気に入りの短篇集

 やたらと腰が低い人だった。嫌悪感は抱かなかったが、こちらも申し訳なくなってきて、とっさに外国文学の棚から一冊、お気に入りの本を抜き出した。今日はお金が足りなくて諦めたが、次来たときにあれば、真っ先に購入しようと思っている代物だった。


「これです」


「これですか。ありがとうございます」


 彼は私から受け取った本をしげしげと見つめながら、ぺらぺらとページをめくった。彼の手はごつごつと骨ばっていたが、楽器をやっている人のように指がすらりと長いのが印象的だった。私が差し出したのは紫色のカバーの薄い文庫本で、短い物語がたくさん収録されており、文章を読むのが苦手でも親しみやすい短篇集だった。


「いやあ僕、この作家は知りませんでした。話も面白いですね。いい教材になるかもしれません。ありがとうございます」


「いえ、それほどでも」


「いやいや、いい出会いをさせてもらいました。ちなみにですが、この作品をおすすめされる理由はありますか」


 そう尋ねられたので、一つ一つの話が短く空き時間に読みやすいこと、「良い裏切り」をされるので面白いこと、日本文学とはまた異なった価値観のようなものがあること、その一方で私たち日本人でも共感できる話が多いこと——などを挙げた。彼は何度も頷きながら、興味深そうに耳を傾けていた。私が好きな本であるにも関わらず手にしていないと知って、彼は少しためらったが、いえお構いなく、著者名とタイトルさえ覚えていれば図書館でも見つかるはずです、と答えると、そうですか、僕がそうしたいくらいですが、今回はお言葉に甘えさせていただきます、すみません、と平謝りしていた。その本を探すことは、それから一切なかった。鮮明に記憶していたはずの書名すらも、いつの間にか忘れていった。



 彼との邂逅かいこうはこのときだけだろうと、ずっと思っていた。

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