13 来訪者
それからその古本屋は、私にとって大切な場所になった。長期休みのときぐらいしか行けなかったけれど、店の中にはいつも私とおじいさんの二人きりで、私たちを妨害するものは何もなかった。真夏の蒸し暑さも、冬の凍てつくような寒さも、私たちの空間を作り上げる重要な一部となっていた。互いに喋るのは来たときと帰るときの二回、たまに他愛もない世間話をすることもあったが、一分もかからずに終わることがほとんどだった。普通の人にしてみれば短すぎるかもしれないが、私たちにとってはそれくらいがちょうど良かった。
ただ、たった一度だけ、私たちのもとに来訪者があった。
高二の冬休み。その年は例年にない寒波が日本列島を覆い、各地で大雪が降っていた。歴史屋書房のある地域とて例外ではなく、いつもならすぐ溶けるはずの雪が、五センチほど積もっていた。家の周りにも雪があったので長靴を履いて行った。雨の日でもあまり履きたくないものではあるが、この日ばかりは「用意してきて良かった」と、駅前ロータリーの惨状を見て思った記憶がある。
「こんにちは。雪、すごいですね」
「ああ、いらっしゃい。そうそう、毎年全然降らないのに、今年はこんなに積もっちゃって。おかげでひさしを畳まないといけなかったんだよ」
「そうなんですね」
「さあさ、入った入った。中はまだましだよ」
いつにない環境だからか、おしゃべりが弾む。普段のように本を手に取るまで、少し時間がかかった。だが、一旦物語にのめりこむと、私は時を忘れた。
そのような状態だと、周りも見えなくなるらしい。私は他のお客が来たのを一切感づかないまま、外国文学の棚の前で『ファウスト』を熟読していた。
「……すみません」
「はいっ」
顔を上げると、濃いこげ茶のロングコートを着た三十~四十代くらいの肌の白い男性が、申し訳なさそうに私を見ていた。背が高く、半ば覗き込まれているようだった。
「その奥にある本を見たいのですが」
「あっ、はい。すみません」
「いえ、こちらこそ」
狭い店内は棚と棚の間が人一人分しかなく、複数人のお客がいる場合は譲り合わなければならない。私は通路から退き、日本文学コーナーの前に移動した。男性はレジ横のおじいさんに軽く頭を下げると、本たちを舐めるように物色し始めた。
私は自分とおじいさん以外の第三者がいる歴史屋に不慣れだった。じっと作品を堪能しているつもりでも、ふと彼の——その男性の姿を追っている。間に物があっても、気配を感じてしまう。彼に対してネガティブな感情が働いていたというわけではなかった。しかし、気が散って読書に集中できずにいるのも何なので、私はもう『ファウスト』を買ってしまおうと決めた。
「いつもありがとう。また来てくれるかい」
「はい。もちろんです」
見慣れたロゴがプリントされている紙袋を腕から提げて、店を出ようとした、そのときだった。
「……あの」
先ほどの男性が、手にしていた文庫本を置いて話しかけてきた。やや緊張した面持ちだった。
「……はい」
「高校生の方、ですか」
「……ええ」
「そうですか」
男性は自分を落ち着かせるようにふう、と息をついた。
「実は僕、高校で国語を教えているんですが、今度の授業で扱う作品をどうしようか迷っていまして。僕自身のおすすめでもいいかと思うのですが、たまには趣向を変えて、同じ世代の仲間がおすすめする作品をやってみてもいいのではないか、と考えついたんです。唐突で申し訳ありませんが、……何か、そういった作品はありますか」
私は返答に窮した。うつむいて「おすすめの作品、ですか」とつぶやくと、彼は慌てた様子でこう言った。
「別に、なかったらなかったで構いませんので。恥ずかしかったりもしますし、『なんでこんなおじさんに話さないといけないんだ』と思われても、もっともなことですから」
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