8 ことばの森
未来のことを少しずつ考え始めるようになる高校生のころは、よくそんな身の上を恨んだ。先祖や名前も知らない彼女に憎しみを抱いたところでどうしようもないことなのに、将来自分がどんな大人になっているのか想像できず、思い浮かぶのはやはり冷遇される毎日。いじめられた経験が大きいのだろう。自暴自棄になって、両親にきつくあたることも度々あった。
そんなときに出会ったのが、中島敦の『山月記』だった。今はすっかり高校の現代文でおなじみとなっているが、私が授業で習ったときは教科書ではなく、先生が個人的に用意されたものだった。この先生は私の恩師で、数年前に亡くなられたのだが、卒業してからも親交のあった数少ない人物のうちの一人であった。
私は感動した。授業で扱い終わっても、配られたB4のコピー紙を何度も何度も読み返した。自分が抱いていた悶々とした感情が、これほど明確に言語化されたものはこれまでにあっただろうか。本という本は数多く読んできたが、このような感銘を受けたのは『山月記』が初めてだった。一般的な解釈として先生は「優秀な人物であるが故に、己の自尊心を守ろうとして心の中の猛獣に身をやつしてしまった話」と紹介されたが、私はそうした考えの他に「人外のバケモノになってしまった主人公が己の現実を見つめつつ苦悩する話」と捉えた。間違った解釈かもしれないが、不安定な心の拠り所が見つかった気がしていた。それと同時に、将来の夢も見つけることができた。
このような予期せぬ出会いがあるから、私は「ことばの森に寄り道しよう」というテーマで、自分がおすすめする図書を読む時間を授業内に設けている。毎時間ではないが、主に教科書の内容が一段落したときに行っている。みんな眠そうにしているけれど、しょうがない。一人でも興味を持ってくれれば、成果は十分あるのだから。
「いつつつつ……」
午前一時。まだ痛む腰をさすりながら、私は寝室で明日の——いや、今日の授業で扱う作品にぱらぱらと目を通していた。風呂も入ったし、これが終われば寝るだけだ。
サキは面白い。十年ほど前にたまたま立ち寄った古本屋で、短篇集を薦められたのがきっかけだった。「サキ」と聞くと女性の名のように思えるが、本名はヘクター・ヒュー・マンローというイギリスの男性で、同じく英国を代表する作家オー・ヘンリーと並ぶ短篇の名手だともいわれる。日本でいうなら星新一のような人だろうか。ブラックユーモアに満ちた意外な結末が、星のショートショートとはまた異なった味わいを持っている。
「開いた窓。サキ」
小さな声で、範読の練習をしてみる。BGMは静かになってきた雨音と、恐らく軒下で暇をつぶしている野良猫の鳴き声。この作品はこれまでに何度も読んできたし、普段は生徒に音読させているのだが、こちらも文章を把握しておかなければ授業が成り立たない。
「フラムトン・ナトルは——」
一通り読み終えた後、明かりを消してベッドに潜った。雨が再び激しくなってきて、しばらくは目が冴えていたが、昔のことをあれこれと思い出しているうち、いつか意識はなくなっていた。
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