2 秘密

「はい、じゃあチャイムも鳴りそうなのでここらへんで終わっときましょうか。号令お願いします」


「起立。気をつけ、礼」


 張った糸が急に緩んだように空気が開放的になった。金曜日の六限は教師も生徒も辛い。現代文なんて、生徒にとっては睡眠時間にも等しいのだろう。特に評論文。このクラスは文系なのだが、下を向いている顔やカクンカクンと頻繁に動く頭がいくつかあった。まあまだ二年生なので、許容範囲内と言うべきだろうか。


「松田先生、質問が」


「はい。何でしょう」


「さっき先生が解説されていたところなんですけど、やっぱりわからなくて。ここの『資本主義は、言いかえれば経済主義である』からの段落で、——」


「ああ待って」


 立っている床がぐにゃ~んと曲がるような、ひどい目眩がしだした。私は五秒ほどこめかみを押さえた。


「はい、ごめんね。で、そこのどこまでが分かってて、どこからが分からないのかな」


「あっ、はい。この『共産主義との差異』が——」


 こんなことは朝夕問わずしょっちゅうである。そのたびに気まずそうに話しかけてくる生徒に対して、私は何度申し訳なく思ったことだろう。


 生徒への長い解説が終わり、職員室に戻って来たのは終礼から十分ほど経ったころだった。帰りのショートホームルームを待たせると悪いと思ったのでできるだけ簡単に話したつもりだったが、それが逆に良くなかったのか、案外時間がかかってしまった。


 まだ目眩がする。腹も減った。とりあえず何か食べて、エネルギーを補給しなければならない。私は引き出しを開け、食い物が入っていないか探った。


 残念、スティックパンもカップラーメンも切れている。ああ、昨日ついでに買っておけば良かった。給湯器のそばにあるお茶菓子コーナーにも満腹感が得られそうなものはなかった。またコンビニへ行くか、誰かからもらうか。最近食費だけでかなりの額を使っているので、次の給料日まで節約しなければ。となると必然的にもらうしかない。


「どなたか、食べ物ありませんか? お弁当の残りとか」


こう周囲に訊くのも今では恥ずかしくなくなった。


「あれ、ストック切れちゃったんですか?」


「ええ」


「じゃあ、これどうぞ」


 三十代の男性物理教師が差し出してきたのは、コンビニのジャンクフードコーナーで売っている、鶏唐揚げの串刺し二本だった。


「ありがとうございます。わあ、おいしそう。でも、こんなに頂いていいんですか」


「いいですよ。僕、健康診断でメタボ手前だって言われたんでダイエットしてるんです」


「ダイエット中でもこんなもの食べていいんですね」


「今日はチートデーっていって、炭水化物・脂質何でもOKの日なんです。でも三本はさすがに多いので、二本どうぞ。家に帰ってからも晩飯がありますしね」


「ありがとうございます」


正面に向き直って、思い切り肉にかぶりつこうとした瞬間、


「前から思ってたんですけど、松田先生って何かにかぶりつくときいつもドラキュラに見えるんですよね。どうしてか」


 三十代女性生物教師の不意打ちだった。慌ててすすったよだれが気管に入りかけ、少しむせた。


「ああ、すみませんすみません。大丈夫ですか」


「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそ。そんなことを言われるのはなんですが、不意だったので」


「すみませんでした。でも、やっぱりそうですよね。色白で日本人離れした顔で、犬歯が長くて、痩せ型で」


「はは」


「昔の吸血鬼映画を見たことがあるんですけど、あれよりも松田先生の方がザ・ドラキュラって感じしますよ」


「はい、松田先生は今お取り込み中なんだ。お静かに」


「あっ、はい」


 真鍋が女性教師の後からウインクしてきた。ナイスフォローだ、真鍋。これでようやく肉にありつける。


(いただきます!)


 鋭い犬歯が、弾力ある鶏肉に突き刺さり、引き裂く。染み出る肉汁と下味の醤油の風味がまたたまらない。美味い。美味い。美味いが、やはり足りない。いや、贅沢を言うな。こうやって食料をもらえただけ、ありがたいことではないか。ここに勤め始めたころはしばらくお茶菓子コーナーの薄いおせんべいで我慢していたのでお茶菓子が頻繁になくなり、供給源を悩ませていた。食い意地が張ったやつと思われて、同僚から食べ切れなかった愛妻弁当の残りをもらったのがきっかけとなり、周囲から食べ物を頂けるようになった。飲み会ではいつも残飯処理係になっている。残飯処理は学生時代から変わらないが、歳をとるとそのとき以上に食欲が湧くようになった気がする。それどころか、代謝がますます良くなってきて、胃粘膜の修復も早くなり、胃もたれ知らずの大食い中年になってしまった。しかもどれだけ食べても太らない。


 そんな私を羨む声は多い。教師仲間だけでなく、生徒からもどんな食生活をしているのか時々尋ねられることがあり、教えるたびに、


「え~っ! そんな食事でここまで細いなんて。あたしもそんな体質に生まれたかったあ」


「どんな食べ方したら先生みたいに太らずに済むんですか?」


「運動とかしてるんですか? もしいい方法があったら、教えてほしいんですけど。あっ、なるべく負荷が軽いもので。あははは」


とまあ、こんな反応が返ってくる。育ち盛りの若者と比べても明らかに高カロリーの食事かつ早食い、運動は週一、二回程度の生徒との一キロランニング(という名のジョギング、ひどいときはウォーキング)という、常人ならすぐに増量してしまいそうな生活習慣。そもそも運動は貧血持ちで大したことはできない。にもかかわらず、四六時中空腹なのである。その理由をよく訊かれるのだが、私は一貫して「わからない」と答えている。本当にわからないわけではない。心当たりは一応ある。ただそれは、私の内にそっとしまっておきたい秘密なのだ。

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