それでも生きる

ひのかげ

Ⅰ アンダー・プレッシャー

1 それでいい

 十分な休憩時間と定時退勤。我々教師にとってそんなものはないに等しい。


「お疲れ様でした」


「松田先生、お先に失礼します」


「松田くん、お疲れ」


 十八時ごろになって、ちらほらと帰り始める教員が出てくる。多くは家庭がある人、その中でもとりわけ女性教員は早く帰宅しているイメージがある。私は適当に返事をしながら、目の前の液晶画面とにらめっこしていた。


 十九時になってもサービス残業は当たり前。管理職なんかは朝一番に来て最後に出なければならないから、いくら出世だ昇進だと言われてもなりたくはない。


「ごめん、遅くなるから先食べといて。うん。冷蔵庫の中に入ってる。そうそう。ごめんね」


隣の英語教師は、研究授業の準備に大忙しだった。


 二十時。まだ終わらない。


「ふぃ〜」


 また一人、同僚が荷物をまとめる。数学科の真鍋だ。よく日焼けしたサッカー部顧問の彼とは、三年間同じ学年を持っている。実は高校の同期で、この学校の教師歴としては彼の方が長い。


「お疲れ」


「ほい。無理すんなよ」


目を細めながら資料と闘っていた私の肩を叩き、真鍋が何かを置いた。


 栄養ドリンクとチョコレート味のプロテインバー。


「今日、まともに晩飯食ってないだろ。まあ、ないよりかはマシってことで」


「ああ……ありがとう」


「うん。……お前、最近老けた?」


 真鍋は思ったことをすぐ言うタイプの人間で、それがたまにあだとなることがある。昔からそうだった。私は自分の頬を触った。


「えっ、そう?」


「そんな気がする。なんか、シワと白髪が一気に増えたように見える」


「そ、そうか。うーん、ついに白髪染めデビューかな」


「いや、白髪で老けて見える人は大勢いるけど、お前はいい感じになってるぞ。ダンディな渋みが増してる」


「そうかな……。それよりもほら、家で奥さんと娘さん待ってるんじゃないのか。早く帰ってあげないと」


「おう。じゃ、また明日」


 真鍋は教頭に挨拶し、足早に職員室を出ていった。年齢と話し方が合っていないと前々から思っていたのだが、最近若見えと生徒からの高い好感度の要因であるとわかって、少々羨ましくなった。


 二十時五十分、本日の業務終了。


「お疲れ様でした」


残っていたのは管理職とやはり仕事に追われる教員ばかりだった。



 教務主任になって約三ヶ月。去年まで主任を務めていた教員が異動になって、ここでの勤務期間が彼と同じくらいであることと、教師歴、および探究科での主任経験ありということで私が狩り出された。前任者曰く、年齢的には遅い方らしい。慣れない仕事と膨大な業務量には当然ストレスが付き纏ってくるわけで、真鍋からあんなふうに言われるのも無理はない。それに、何だかやつれてきたなぁというのは自分でも薄々感づいていた。


 梅雨時の湿気が気に障る夜。車の中も快適とは言えない。出発する前に、私は真鍋がくれた晩ごはんを貪った。


(だめだ、足りない)


 私は気がおかしくなる前に、慌てて車を走らせ、コンビニで菓子パンやおにぎりを五個、コロッケを二個買った。そしてそれらを車内でガツガツ食った。傍から見た私は、鮭おにぎりやカツバーガーごときを実に美味そうに食べている中年男性でしかないだろう。


それでいいのだ。

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