第2話

 

 二年が経った頃でしょうか。わたしは私立の女子高に通い始め、叔父は、四十に掛かろうかという年だったと思います。

 そして。

 不思議な事にわたしの転機は春に訪れることが多いのです。

 その年、はらりはらりと舞い踊る桜の木々の中で、叔父の桜は咲きませんでした。咲かぬその幹を叔父は愛おしげに撫でておりました。二言三言話しかけ、額を押し付け、唇を押し当て、細く美しい掌が、桜の幹を撫でておりました。あんなにも日々眺める癖に、それを望んでいたかのように。


 「叔父様」


 わたしの声など、届かない、彼岸の景色でありました。


 「叔父様!」


 叫んで、叔父の体を桜から引き剥がします。背中を叩いて、わたしを見て、と縋りついて。


 「……嗚呼、雛鳥?」


 奇しくも、この日、わたしの体は女として機能を始めました。太腿からつぅぅ……と、一筋の赤い糸が、下ろしたばかりで目映いほどに白いのに、なぜか野暮ったく見える靴下に染みて、広がって、その耐えがたい痛みに蹲れば花弁に朱色が散り、点々と、染まる。


 「大丈夫かい?」

 「いいえ」

 「動けそう?」

 「わかりません」

 「……君は、もう、大人になったんだね」


 泣き出しそうな声でした。

 穏やかな春の日差しと匂いが甘酢っぱく立ちこめる血の臭いと混ざりあい、訪れた眩暈。ぼぉっと霞む意識の果てで、叔父の子を孕まずに崩れた最初の寝床を哀れに思っておりました。

 役目を果たせずに崩れるだけの寝床は、いつか他の誰かの寝床になるのでしょうか。野卑で好色な男の胤を孕むゆりかごとなるのでしょうか。他の誰かを孕むくらいなら、わたしは大人になりたくも、ない。

 叔父は、学校の男子とは、そして、多くの大人とは全く別種の生き物なのです。世俗に染まることのない、たったひとり、美しいひと。見た目だけじゃなく、その全てが、美しいひとなのです。

 彼は、基本的に女と云うものを必要としておりませんでした。女のみならず、他者を欲することがないひとでした。どう知りあったのか、広い交友関係を持ちながら一歩引いて、観察しているようにも見えたのです。悪魔的な魅力を持った人物として振る舞える癖に、それをひた隠しにして息を潜めていたのです。……わたしと、同じように。

 わたしは、小さな頃から綺麗な顔立ちをしておりました。ひねていることを差し引いても、魅力を損なわない程度には。綺麗なものは、ぐしゃぐしゃに穢してしまいたくなるのでしょうか。中学生の頃、性に目覚め始めた同級生ばかりがいる教室内で、厭な視線ばかりを浴び、当時から叔父以外の人間を尽く嫌悪し、排除していたのです。


 「雛鳥」


 春の日。

 空の青は落日の赤に染まる。

 刹那の抱擁は、痛いほどに強く、体は叔父らしからぬ熱を湛え、震えていました。


 「叔父様?」


 誰かの名前を象った唇だけ、はっきりと見えました。

 その時、叔父の湖畔の目が、揺らいで、中からぬらぬらとした妖しげなものが飛び出そうとした……そんな気がいたしました。静かな水面の下で揺らいでいた感情が殻を破ろうとした、と。叔父は彼自身を恐れたように、わたしを突き飛ばしました。

 そう、あの春の日、普段は野暮ったい黒ぶちの眼鏡を掛け、無精ひげを生やし、だらしのない恰好をした叔父は消えうせました。髪を撫でつけ、髭を剃り、眼鏡を外した叔父は、少し気だるげな瞳が映える、男となったのです。叔父が、卑しい生き物に変わった春でした。

 そもそも、春とは、厭な季節なのでしょう。叔父の皮を被った誰かは、色々な匂いを纏い、部屋の濃度をあげ、生臭い匂いと共に桜を欲しておりました。

 何人もの女のひとがひっきりなしに訪れ、わたしは追い出され、家の中で行われているだろう情事に思いを馳せるようになりました。それしか出来なかったのです。……経血の赤色と共に。

 わたしが性に目覚めたのは、この日に違いないのです。膨れ上がり、抑えきれない欲望。春のざわめきに導かれて、叔父の子を求める、卑しい本能。

 眠りに落ちるたび、桜の木に思いを馳せました。

 あの、ごつごつした幹を、切れば血液を滴らせそうなねじ曲がった枝を、神聖なものに触れるように触れる、指。あの、叔父様の、ゆかりさまの、美しい、……美しい手。

 ――雛鳥。

 桜はいつしかわたしに変わり、叔父の手が体を這うことを乞いました。慈しむように乳房を撫で、固く尖った乳首を摘まみ、赤い血を垂らす未熟な性器を撫で、そっと挿し込まれていく一本の指を思いました。ペン胼胝の出来た、中指。その、造形を。

 叔父はわたしを丹念に開いて下さるに違いない。嗚呼、可愛いね、愛しいねえ、雛鳥。この腕の中に閉じ込めて翼を奪って舌を切って、閉じ込められたらいいのにね……。そう囁いて叔父が頬を包めば、舌を差し出し噛み切りましょう。やがて、脚の間から透明に滴り始める頃、わたしは充血した性器を開いて、ぎしり、と鳴るベッドの上で、叔父を求める……。

 そんな夢から覚めて下着を濡らすものは、生温かな蜜でした。透明に、粘っこく、目覚めの度に泣きたい気持ちになりながら、夢の熱を乞うしかない。体の奥にじんと残る疼きは春が過ぎ夏を迎えても沈澱しているのです。澱のように降り積もり、わたしを変えていくのです。

 だからでしょう。お淑やかに、お上品に、鶏卵パックにいれられた少女たちの中で、わたしだけは浮いていました。同じ見た目で、同じ言葉を話していても、毛色の違いは誤魔化せなくなっていきました。

 ――保護者は?

 家庭訪問だのなんだの理由をつけて上がり込みわたしに問い掛けた教諭は、梅雨の湿気が籠る目で見つめていました。つんと鼻を突く、不快な欲望を湛えて、じっとりと。

 ――不在です。

 ――淋しくはないの。

 解りきった言葉。

 解りきった、欲望。

 ――護ってください、先生。

 スカートを捲くりあげれば、痛いほどに唇が吸われ、ブラウスのボタンは外されて、握りつぶされた乳房は、歪み、赤い痣が残ります。叔父の与えた部屋で、叔父の暮らしていた場所で、わたしの処女は、叔父ではない男に呆気なく奪われていきました。

 固く、解れてもいない場所に、固く屹立した不気味な肉の杭が穿たれ、わたしは死んだのです。好き勝手に動き、暴れまわり、悲鳴をあげるわたしのことを気に掛けることなく、子宮をごつりごつりと突こうとして、笑うのです。ほうら、気持ちいいだろう、こうされたかったんだろう。とても厭らしい。こんなにして……。音は流れて、視界に広がる醜い男はどちらが本物かを夢想しました。熱く教鞭をとり、爽やかに嗤う姿と、ご馳走を食べたと、舌舐めずりまで、見えそうな醜い顔で、嗤う姿と。

 冷えて、凍えて固くなった女の肉が痙攣し、微かな吐息を漏らす頃、男は……校内で人気のある若い教諭は満足げに吐精しました。びくびくと脈打ち、生臭く暖かな温度は腹を汚します。赤黒い楔は、わたしが確かに少女であった印を纏い、ぽたぽたと落ちる雫が、淡く染まっていたのは照明のせいでしょうか。屍の女が鏡に映っています。黒髪は蛇がうねる姿を模してシーツに広がり、白い顔は嗤っています。足りないのに、虚ろになっていくのに、時間だけが満たされる。

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