花散らし

水城みと

第1話


 ――あなたは春に攫われたのだと思うのです。


 春の喧騒に浮かれた桜の花ばかりが、わたしの記憶にこびり付いております。住んでいた町は、海も山もある田舎町で、車さえあれば、何処にでもいけるような町でした。地元出身の有名漫画家のキャラクターが印刷された電車が一時間に一本、がたんごとんと音を立て、通過していくような、そんな町。

 何処にも行けなかった父母はそこで恋に落ち、わたしを産み落としたのでしょう。ふたりがどうして知り合ったか、愛しあったか、教えては貰えませんでした。物心ついた時には、母は泣き崩れ、父は仕事に行く……そんな毎日だったような気がします。歌うように、言い聞かせるように、あなただけが大事なのよ、と母はわたしを抱いていました。

 月に一度だけ、決まった日に父母は何処かに行きました。帰ってきた母は甘い匂いをさせ、泣き腫らした眼をしておりました。化粧の臭いと、赤い目と、頬。その日、父は母を蔑むように見ながら、母を組み敷いたのでしょう。朝になると豊かな白い体が布団に投げ出され、生臭い性交の残り香が立ち込めていて、無知で幼いわたしだけが置いて行かれたのです。

 叔父と云う人がわたしに出来たのは十三の時でした。花散らしの雨が降る、四月の午後、傘すら持たずに立ち尽くしておりました。当時のわたしは親が死に、身寄りのない、かわいそうな少女でした。

 いいえ、少女と云うにはいささかひねくれていたかもしれません。周囲から一歩引き、冷めた目で見る、厭な子供。子供たちの輪に入れなかったことが始まりでした。子供は大人の感情を感じ取ります。わたしのことを理由なく蔑む大人に従って、同じように拒絶するのです。拒絶されるくらいなら、先にこちらから切り離してしまった方が傷つかなかったのです。

 葬式の日、細い雨に濡れていくわたしに差し出された手ばかりが、今も印象に残っています。細く長い指先と、伸ばした手を包む冷たさばかりがはっきりと、焼きついて。

 ――一緒にくるかい?

 たった一言、その言葉でわたしは一切を決めたのです。叔父と名乗る男の美しい瞳に、魅入られて。

 叔父は……、ゆかりさま、とお呼びした方がいいのでしょうか。どちらの縁のものかも解りません。恐らく、どちらとも血は繋がっていなかったのでしょう。父にも、母にも似てはおりませんでした。

 細面で、しなやかに伸びる背に着物がよく映えておりました。そして、何より。何より、嗚呼! あの、淋しげな色をにじませた灰色の瞳。雨に煙る瞳に、長い睫毛の落とす影が、何と美しかったか。高い鼻梁は角度によって、叔父を彫像のように見せました。彫刻家が魂を込めて切り出した、美しい像。どんなものより、美しい、わたしの、叔父。

 ――君は、私の遠縁だから。

 ――それは嘘でしょう?

 ――どうだろうね。遡れば何処かで繋がっているかもしれない。でも、君のお父さんとは懇意にしていたんだ。それは嘘じゃあないよ。

 それが、本当でも嘘でも、余り関係のないことでした。

 県を越えて、わたしは迫害を受けなくなりました。

 彼はわたしに、元々住んでいたマンションの一室を譲りました。高い窓から見える町並みはちっぽけなくせに、不気味な引力を持ち、わたしを誘うのです。その誘惑に耐えかねて常にカーテンを閉めていました。叔父が一緒ならば、惹かれることもなかったでしょう。けれど「私は実家に移るから」そう言い置いて、去ってしまったのです。当時のわたしがどれだけ打ちひしがれたかなんて叔父は知る由もないことです。

 叔父の実家というのは、そこから少し離れた、桜の見事な家でした。

 広い館で、叔父がどう暮らしていたのかよく解りません。そもそも、働いていないように見える彼が、どう生計を立てていたのか、それすらわたしは知らなかったのです。

 元来、出不精だったのでしょう。初めのうちは足繁く来てくれていた叔父の脚は、半年経つと遠くなり、わたしが家に向かうことが増えました。困ったような顔で、それでも、出迎えてくれるのが叔父でした。


 「雛鳥は好きに生きていいのに。私の事なんて放っておいて構わないよ」


 わたしは小鳥でした。雛鳥でした。叔父がそう云うのだから、間違いはないのだと信じておりました。特別なこの名は擽ったく愛おしく、呼ばれるたびに胸の奥でぽぉん、と、心が弾んだものです。それだけで、本当の名前なんて、必要ないとまで思えたのです。


 「いつだって好きに生きています。叔父様と同じように」

 「そう、それは仕方がないね」


 叔父は拒絶をしない代わりに受け入れることもなく、大抵は奥の座敷に籠って、思索に耽っておりました。物憂げに煙草を咥え、目を細める先にあるのは本ではなく、一本の桜……、かつては見事だったのだろう桜に注がれていると知ったのは、何時だったのでしょうか。

 お茶を飲みながら変わらず、桜を見る彼に、何の気なしに問いかけたのです。


 「桜がお好きなんですね」

 「――嫌いだ」

 「でも、何時も……」

 「見ているのはなんでかって?」


 弾かれたようにわたしを見る顔は嫌悪と自嘲と憎悪の最中で揺れ動き、引き攣った動きを繰り返す赤い唇と、剥き出しとなった白い歯が織りなす対比は、不思議と彼から美しさを奪い、獣の貌へと変えていました。あの時、叔父は嗤ったのだと気が付いたのは、随分と後になってからです。


 「君が知る必要なんてない」

 「ごめんなさい、わたし……」

 「……おいで、雛鳥」


 手招きをする様はすでにいつもの彼でした。嫌われたくない、その一心で謝罪し続けるわたしを哀れんだのかもしれません。手を放せば十代の少女は生きる術もないのですから、突き放す意味もないと思ったのでしょう。呼んだのは叔父の癖に、抱擁は酷くぎこちなく、触れることを躊躇っているようでした。

 不思議な事に、この日以降、わたしを柔らかく包み込んだ静寂と暗闇は、心を痛めつける鞭となって強かに打ちつけました。温もりが欲しくて欲しくて堪らなくなったのです。誰でもない、叔父の温もりが。

 

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