第4話 それでは幸せとは何か【2】


「違う?」




黒田幸子がその絵を「パパ」と指さした時、私は察してしまった。




「そうだね、確かに。そっちがさっちゃんのパパに似てるね。」




私は笑った。笑いながらすべてを乗り越えてきた。




みんなが帰った後、私は広い作業所で一人、治験の書類を見つめている。


黒田幸子が薬を服用して、半年がたった。服用の継続の意志の確認だった。薬は施設で飲ませていたから、施設の責任者と親の双方の同意が必要だったのだ。




継続するか、否か。




黒田幸子の父親は継続の書類をすでに出している。彼女に母親はいない。それでも私が拒否すれば止められる。黒田幸子とその父親の人生を想像してみる。それはやがて自分の人生を振り返る時間になった。




笑顔で戦い続けた人生だった。




娘が、重度の知的障碍と受け入れるまでに数年。


娘自身を、見つめて理解できるようになるまで数年。


娘の居場所を、作るために戦い続けで十数年。




私は、どうやっても娘を置いて死ぬ。その間に私がいなくなっても娘が生活できる居場所をどうしても作りたかったのだ。絵が好きで得意な絵をかけるように、とにかくいろんな絵をかけるようにした。そして、まずは自宅に同じような絵が好きな子を数時間一緒に見てあげるようにした。やがて、人が増えた。政府から作業所の認可が降りた。マンションの一室からこの建物の3階は全部作業所になった。その間に夫は家に帰らなくなったが、お金だけは家にいれ続けてくれた。それだけで私は十分だった。作業所で描かれた絵も販売経路ができている。娘もこの建物の3階で生活できるようになった。作業所の後継者もできた。充分だった。あとは娘の邪魔にならないように死ぬだけだった。




その薬が発表されたのは1年前のこと。




知的障碍が改善されるという魔法のような薬。治験の募集が来た。1か月10万円の支援付きだ。作業所に来ている子たちの親に説明した。真っ先に手を挙げたのは黒田幸子の父親を含めて数人。私は、自分の娘に飲ませなかった。副作用がわからなかったからだ。




作業所にくる子の中に、時々殴られたようなあざを作る子を残念ながら何人か見てきた。黒田幸子もその一人だった。胸が苦しくなった。このあざは、その子の体にだけついたわけではないことを私は痛いほど知っている。追い詰められた親の苦しみを、私は知っている。だから笑顔で見なかったことにした。みんな、この作業所に通うようになってから、あざを作らなくなっていった。そのことが私の密やかな誇りだった。




黒田幸子もそんな子だったのに。




今日、彼女が「パパ」と指をさしたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」だった。服を着た絵ではなく、裸の絵を指さした。それだけで、私は察した。違う。本当は薄々感じていた。時々作る、手首のあざに。確信に変わっただけだ。想像もしたくなかったのだ。そのおぞましすぎる現実を。




今すぐ引き離したい。今机に置いてある彼女の父親の署名にさえ、吐き気がするほど憎悪する。




そして、黒田幸子はどうなる?




薬の効果は素晴らしいものだった。服用した子たちは一様に、知性が身についていった。




そして、笑顔が消えていった。




黒田幸子はいつもニコニコしている子だった。いやだという時以外、いつも笑って、楽しそうに絵をかいて、何かあれば歌を歌う。決まって、「上を向いて歩こう」を。それは誰が歌っていた歌なのだろうか。





書類が滲む。私は、泣いていた。泣くなんて、何十年ぶりだろうか。娘の為に生きると決めた時、泣くのは最後だと決めていたのに。嗚咽が混じる。ああ、どうしよう、どうしよう。彼女はこのまま薬を服用し続けたら、いつか、理解するのだろうか。自分が何をされていたかを。




黒田幸子の絵は素晴らしかった。色遣いが鮮やかで、独特で、「形」がなかった。それが彼女の世界だったのだろう。彼女は鮮やかな色を好み、形を嫌った。そんな彼女の絵はこの作業所の中でも特に人気があった。




ところが、薬を飲み始めてから、絵に形が出てきた。最初はいびつな、そして、少しづつ整っていった。今の彼女の絵は、幼稚園児が描く絵と同じだ。絵を描く時の笑顔も消えた。




作業所を歩いた。机、窓、色とりどりの画材。私が人生をかけて、作り上げた、形。




黒田幸子の机を指でなぞる。彼女の笑顔を、色を想う。ふと、机の下の引き出しに服がある事に気づいた。彼女が好きな真っ赤なTシャツ。今日着ていたものだ。そうだ。彼女は今日着替えていた。汗で張り付いた服を、彼女が嫌うことを父親は理解している。寒いと感じるのが嫌なことも。だから彼女は冬は誰よりあたたかな格好をしていた。




だから、なんだ。




Tシャツを広げる。LEDの光を受けて、真っ赤に染まる。




私の世界は、今、その線を越えた。




薬ができた時点で、その線はあったのだ。服用を了承した時点で、もう変わることは余儀なくされていたのだ。




「ママー」


「はあい!」




誰よりも愛しいその声に、私はとっさに涙をぬぐい、笑顔を作った。私の愛情と情熱の形。




娘にも薬の服用をさせることを決めた。貴方の笑顔もなくなるのだろうか。私を恨むのだろうか。それでもいい。貴方の幸せを私は決められない。だから、私は私ができることを。




どうなるかはわからない。ただ、明日、私は黒田幸子を笑顔で迎えないことだけは決まっている。

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