第2話 それでは私とは何か【2】
その男は疲れた様子でその部屋に入ってきた。手に持ったいくつかの紙の束と、念のためのボイスレコーダーをデスクに投げ出す。
「お疲れ様でした。」
片方だけヘッドフォンを耳にあて、座ってモニターを見ていた女が男に振り返って声をかけた。
「どうだ、被疑者の様子は。」
「絶叫中です。聞きます?」
女はヘッドフォンを男に向かって差し出す。少し離れていても、その悲鳴は聞こえた。
「いい。鼓膜が震えるだけだ。」
「違いないですね。」
モニターには、ベッドの脚にしがみつく人の姿が映っている。男は一瞥し、鼻で笑った。
「またすごいストーリーになりましたね。」
「ひどいもんだよ。ストーカーされてだと?はっ、どの口が!」
ふくよかな男が座るにはやや頼りないそのオフィスチェアーは、その重みを全面に受けてギ、ギギ、と嫌な音を立てた。天井を見上げたその男の目は、獰猛な光を隠さない。デスクに無造作に置かれた、その紙に。
御剣綾子 34歳 女性 【死刑確定/未執行】
対象は幼少から父親に虐待を受ける。母親は対象が3歳の時に家を出てから行方は不明。父親は対象が16歳の時に家を出るも、最低限の金銭援助はしておりそのままアパートで生活。16歳から24歳の間に、4人刺殺。いずれも男性。すべて自分のアパートに連れ込み、背中から執拗に刺している。あらかじめ黒いビニールを床に敷いておき、刺殺後、そのままビニールで包み、アパートの床下に埋める。あらかじめビニールを敷くなど、極めて計画的に犯行を行っているため、責任能力有との判定。
その下にボイスレコーダーが乗っている。男は天井を見上げたまま口を動かす。
「ストーカーされた?逆だろう!」
男は振りかぶってデスクを叩きつけた。女はビクリと背中を震わせた。
「・・・人、増えないんですかね?」
「非公開の研究だ。これ以上予算は割いてはくれんだろう。」
「でもせめて開発から臨床に、もう一人くらい。」
「薬を開発するだけの研究バカに、臨床ができるかよ。」
「その研究バカにまで、なんて呼ばれてるか、知ってます?人殺し部署、ですよ。こちらの苦労を一人でも・・・。」
「言わせておけ。君もわかってるだろう。この薬が完成すれば、どんなに素晴らしい世界になるか。もう更生プログラムなんて必要ない。薬さえ飲めば、犯罪を起こそうなんて人間が現れなくなるんだ。」
「そう、ですが・・・。」
女は言葉を飲み込んだ。モニターに映る人の形。
まず、すべての刺激に過敏になった。
次に、すべてに恐怖を覚えるようになった。
やがて、自分の行いに恐怖を覚えた。
そして、すべては恐怖から逃げるための凶行だというようになった。
防衛反応から記憶を改ざんした。モニターに映る人の形はもう、自分が何人殺したかも覚えていない。あの部屋に初めて入った「御剣綾子」は、跡形もない。残っているのは恐怖だけ。「御剣綾子」をさんざん蹂躙し、壊し、出ていったその「セナカ」に対する思いだけ。
ヘッドフォンから声が聞こえる。
悲鳴が、笑い声に変わっている。
女は、ヘッドフォンを強く強く握り締める。いつの間にか、女の後ろに立っていた男がモニターを消した。
「これは元々、人として壊れていた。」
男の声は女の耳に冷たく響いた。
男は一人娘を殺された。
女は両親を殺された。
モニターの四角い光を失ったこの小さい研究室も、独房のようだと女は思った。
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