43.石けん一年分でも足りないくらい
「結婚してほしいって。私が申し出を受けるなら、この手紙をクアラに渡してほしいって言われたの」
分かっているのは本当に少しだけ。
けれどクアラにはこれだけで十分だったようで、ため息を吐くように「なるほどね」と呟いた。
「一回会ったら我慢できなくなったっていう気持ちは分からなくもない。むしろあの数回分デート挟んだだけで上出来と見るべき? まぁいいや、返事書くからその手紙貸して」
「え、でもまだ結婚するって決めたわけじゃないし」
「僕もまともなデートを一回もせずに結婚させるつもりはないよ? だから勝って、せめて魔の周期終わってまともなデートしてから出直して来いって言ってやるんだから!」
「勝っても負けても、一度手紙を渡したらそれは結婚する意思があるってことになるでしょう。アイゼン様は、私がクアラであることを望むかもしれないのに」
一番の問題はそこだ。
クアラは兄さんのようにゆっくり待ってはくれないかもしれない。すでに数回会っておいてまだそこで悩んでいるのかと言われるかもしれない。
だが私は、アイゼン様が別れ際に残したあんな顔は見たくないのだ。思い出すと痛み始めた胸をギュッと押さえる。
「ねぇそれってそんなに大事? だってどっちも姉さんじゃない」
「そうだけどそうじゃない」
クアラは簡単に言うが、それはクアラが私のことをよく知ってるから。アイゼン様はそうじゃない。彼が認めてくれたのはあくまで私の一部である。せっかく認めてくれた場所を他の理由でなかったことになんてしたくない。
私だって本当はどちらも見ていて欲しい。失望してほしくない。けれどどちらもが無理なことは分かっているのだ。
だから必死で選ぼうとしている。
「そこで迷うのならこんな手紙燃やして、二度と会わなければいい。あの人と僕たちじゃ身分も年も違うんだから」
「あ……」
「アイゼン様が『クアラ』に話しかけられたのは鍛錬場にいたから。アイゼン様は忙しいんだから、ダメだと分かればわざわざ連絡をよこしてくることもなくなる。会わないなんて簡単なんだよ」
言われてみればそうだ。
アイゼン様は公爵家、それも王家の血筋を引いている。年だって私よりも十一も上。
本来、会う機会なんてそうそうないのだ。
この手紙を燃やしてしまえば、キャサリンとしてドーナツの穴を一緒に食べるどころか彼の背中すら見ることはなくなる。でも『クアラ』として騎士団に協力すればきっとーーそう考えて、無理だと気づく。
だってクアラはもう魔物と戦えるほど健康になったのだから。愛する弟が望んで剣を振るうのならば、クアラの成長する可能性を奪うことはしたくない。
「クアラは私に結婚してほしいのか、結婚してほしくないんだかわかんない」
わざとらしく頬を膨らませて不機嫌を装って見せる。するとクアラは困ったように笑った。
「僕はいつだって姉さんの幸せを願っているよ。本当は僕だってこんなに急がせるつもりはなかったんだ。姉さんが悩んでることも知ってたし。なのにアイゼン様が変なところで急ぎすぎた上に究極の二択しか用意しなかったせいで台無しだよ! アイゼン様ははもっと空気読むことを覚えたほうがいいと思う。でも、姉さんがあの人といると楽しそうなのを知ってるからを少しくらい大目に見てあげようかなって」
自分で決めなきゃと思っていたのに、クアラには全部お見通しだったらしい。
アイゼン様は僕に感謝すべきだよ。あの石けん一年分でも足りないくらい! と顔を歪めるクアラだが、その手はレターセットに伸びている。
ならば私も腹を据えるべきなのだろう。
「……そうだね。なら私がクアラとして戦って決めようかな」
「それはダメ!」
「なんで?」
「姉さんに相応しい相手か確かめるのは僕の役目だから! そこだけは譲れない。やりたいなら二回目以降にして!」
「何回戦うつもりなのよ」
国で一番の騎士に勝つこと前提なのはひとまず置いておくとして、何度も戦ううちにアイゼン様が諦めたりしないか心配ではある。
「何度でも。一、二回で諦めるような意思の弱い男は初めから願い下げだからね!」
胸を張って宣言するクアラに思わず笑みがこぼれる。確かに意志の弱い男は私もお断りだ。
「そうと決まれば早速手紙読まないと! えっとなになに……」
クアラが音読し始めた手紙によれば『自分がキャサリンを守るに相応しいかどうか見極めてほしい』と。
魔の周期中なので王都に滞在しているタイミングがまちまちになってしまうことは申し訳ないが、一日でも早く夫になる権利が欲しいとも書かれていた。
「なるほどね。こちらの見届け人はライドを連れてくることにして、日取りは魔物討伐の予定さえ入ってなければいつでもいい。最短なら明日でもいいでしょ。父さん達には僕の承諾を得たら改めて申し出てくれるらしいからいいとして」
クアラは一つ一つ確認しながら、便箋にペンを走らせていく。そうして完成した手紙を使用人に託すために部屋を出て行った。
クアラを見送って、ようやく机に紅茶が置かれていることに気づいた。私がぼうっとしている時に用意されたのだろうカップに触れればまだ温かかった。
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