32.彼女に溺れられるなら

「まさか叔母様に遭遇するとはアイゼンもとんだ災難だったな。お父様の怒鳴り声、久しぶりに聞いた」


 鍛錬後に帰り支度をしていたらアッシュに呼び止められた。

 話があると彼の部屋へと連れられて、何事かと思えばその話か。


 叔母様からのお土産なのだろう紅茶を啜れば、アッシュは本当に怖かったんだぞ……と小さく震えてみせた。



「叔父様はあまり怒らないからな」

「ああ。それに少し前まで機嫌が良かったから、その落差が余計怖かった。叔母様が遅れていることは知っていても、アイゼンのチケットを奪うなんて思いもしないだろ……。なんでも門のところまで聞こえていたらしい」

「それで叔母様はまだ城に?」

「いや、昨日帰った」

「そうか」


 叔父がそこまで怒るのには理由がある。

 観劇のチケットを用意してくれたのは他でもない、叔父なのだ。


 俺がキャサリン嬢に恋情を抱いていると知り、わざわざ一番良い席を用意してくれた。


 彼女には伝えていなかったが、あの席はVIPのみが使用できる場所で、劇の後には役者が挨拶に来てくれることになっていた。


 早く結婚しろと急かすことはしてこなかったが、婚約者や恋人がいないことを気にしてはいたようだ。


 そこまでしてくれたのに劇を見るどころか席に座ることすらなかったと知り、頭に血が上ったのだろう。


 俺だって叔母にチケットを渡した時はもうダメだと思った。


 せっかく取り付けられた約束が自分の選択によって流れてしまったことはもちろん、今から口説こうとする相手と身内を天秤にかけて悩んだ末に叔母を選んでしまったことにも落ち込んだ。



 彼女にはふさわしくないと身を引くことさえ考えた。


『なら今日ここに来たのはラッキーでしたね。アイゼン様がチケットを持ってここに来なければ、メルディ様はあのまま国に帰るところでしたから』

『また来ましょう。今度は私がチケットを用意します』


 キャサリン嬢のその言葉でどれほど救われたか。

 申し訳なさが募る一方で、彼女への想いが膨らんでいった。


 唇に歯を立てながら胸が張り裂けてしまうほどの幸福感を抱いた。知れば知るほど惹かれていく。


 これが恋に溺れるという感覚ならば、頭のてっぺんまで浸かった後、自分はどうなってしまうのだろう。


 怖さはある。

 けれど溺れる相手が彼女なら窒息しても構わないとさえ思えた。


 どうやって次の約束を取り付けようか。

 ガタゴトと揺れる馬車の中で彼女の未来を手にする方法を模索していた時だった。


『アイゼン様! お時間があるようでしたら、あれ観ましょう。チケット代は私が出しますので!』

 目を輝かせた彼女は窓の外を指差していた。指の先にいたのは劇場の客引き。馬車から見かけただけのそれに今から行こうというのだ。


 今度は自分がチケットを用意すると言ってくれた彼女だったが、早すぎないか?


 驚きつつも勢いに押されるように馬車を止める。

 手を支えにステップを降りれば、彼女はそのまま俺の手を引いて劇場へと向かった。


 先ほどまで居た国内最大の劇場と比較すればとても小規模な劇場で、外でチケットが手売りされている。彼女はポケットから革袋を取り出すと慣れた様子でチケットを買った。


 お礼を告げる間もなく、手を引かれ、席につく。



 小さな箱の中で見たのは三人の男の覚悟。

 人々を守り抜いた兄弟と、彼らに尽くしたかった男の生涯に強く胸を打たれた。特に建国者であるシュバルツ。


 彼は先祖だけあって、王族の持つ『強者に仕えたい』という欲の根幹のように見えた。


 無念だっただろう。

 亡骸を一人で目にした彼の感情は簡単に押し測れるようなものではない。それでも彼は最期まで従者であろうと足掻いたのである。


 そんな生き様に強く惹かれた。


 彼にとってのあの兄弟は、俺にとってのバルバトルの双子だ。顔の似た双子はよく笑い、クアラ殿は俺に剣への情熱を、キャサリン嬢は人を愛おしいと思う心を教えてくれた。二人が俺という人間を変えてくれたのだ。




「なんだ、全然悔しそうじゃないな。もっと落ち込んでいると思った」

「あの後、別の劇を見に行ったんだ。そこで楽しそうな彼女を見られたからもういい」


 もちろん今度また別の観劇チケットを用意するつもりだ。


 あの劇を観られたのはきっと運命だ。

 叔母にチケットを差し出さなければ得られなかった神からの贈り物。


「叔母にチケットを譲った後にほかの劇に連れ込むってどうなんだ……」

「劇を見ようと言い出したのはキャサリン嬢だ」

「は?」


 アッシュはぽかんと口を開ける。

 俺も彼女が劇を見ようと言い出した時、同じような顔をしていたことだろう。


 ひどく間抜けな顔で手を引かれるままに進んで、開演の合図が鳴るまで状況を上手く理解できていなかった。

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