関東から見た日本の地震

能依 小豆

地球一の地震大国、日本。

 2011年3月11日、東日本を強い揺れが襲った。

 これは後に東日本大震災と呼ばれる悲劇の始まりだった。


 私はその日、東京都の中央線の駅付近にいた。まだ幼かった私は母に抱かれていた。

 揺れが収まった直後、駅のシャッターが閉まった。当時の私はなにかを考えるということができるとは言えない年齢だったが、このことは鮮明に覚えている。

 その後は悲劇の連続だった。鉄道が止まり、東京都は帰宅難民で溢れた。原発の影響などで電気が足りなくなり、計画停電が始まった。テレビでは、連日岩手や福島の話題が取り上げられた。CMの多くはACジャパンだった。私が初めて喋った言葉もACだった。


 それから12年。もうすぐ13年が経とうとしている。


 そんな年の元日、北陸に最大震度7の揺れが襲った。震源が浅く津波がすぐに到達した。能登半島では5メートル、その周辺地域は3メートルにも及ぶ波の高さだった。埼玉県のショッピングモールにいた私は他の客のスマホから一斉に鳴り響いた緊急地震速報のサイレンを一瞬認識できなかった。私は通路の中心付近にいたため揺れがくる直前、冷静になった時に「動かない」という判断ができた。幸い、こちらの震度は3から4程度だったため、物が落ちてくるということはなかったが、長い横揺れが私の鼓動を速くしていった。揺れがおさまった時、周囲に被害は見受けられなかったため、館内放送なども開始されたが、私は万事をとって帰る決断をした。決断が早かったため、渋滞にも巻き込まれずに済んだが、車内のラジオで震源地が北陸という情報を聞いた時、恐怖を感じた。今まで、茨城県周辺で地震が起きた時ですら感じなかった大きさの揺れを感じていたからだ。山脈を越えてきた揺れがここまで大きいのか。なら震源付近の揺れはどれだけ大きかったのだろう。そう思いながらラジオに耳を傾けていると予想通りの最大震度7という単語と、津波がもう到達しているという意外な事実を知った。

 私の脳裏に東日本大震災という単語が浮かんだ。似ているような気がした。

 だからだろうか。原発に問題が確認されなかったと聞いて「最悪は回避できた」と思ったのは。X(旧Twitter)を見ると、予想通り#東日本大震災や#南海トラフというタグが多く見受けられた。鉄道が止まっているという情報も多くあった。

 東日本大震災当時も鉄道が止まっていたが、止まった瞬間から多くの人が1秒でも早く復旧させようと力を尽くしていた。今も同じなのではないか。東日本大震災から時間が経ち、風化しかけた国民総出で力を合わせるということを思い出し、もう一度団結する時ではないのか。そう思った私は私に何ができるかを考え、多くの人に今の現状を知ってもらおうと書いている。


 被害がなかった地域には実感が湧かないかもしれない。それでも正月に地震で家族を失った人がいるのだ。私たちはそう言った人たちを忘れてはならない。

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