時間よ とまれ

@zawa-ryu

時間よ とまれ

 きっかけは覚えていない。

 いつからだったかと考えても思い出せない。

 私はいつも校舎の窓から、彼をただ見つめていた。


 放課後のグラウンドに立つ彼を見るのが好きだった。

 全力でゴールに向かって走り抜ける彼が好きだった。

 首にかけたタオルを使わずに、袖口で汗を拭う彼が好きだった。

 部室に仲間と引き上げる、彼の笑顔が好きだった。


 入学してから二年間、同じ学年の同じクラスにいて、話をしたことすらないけれど、私は彼に恋をしていた。


 四角い教室の真ん中に彼がいて、すぐ後ろに私がいる。

 目の前の背中が、どうしてこんなに遠いのだろう。たった数十センチ前に座っているはずなのに、私の手は今日も届かない。

 私の手が彼に触れることはこの先もきっと無い。

 見えない何かに阻まれて、私には手を伸ばすことすら出来ないから。


 二学期に入って、彼は学校に来なくなった。

 クラスメートの噂話で、両親に何かあったようだと聞いた。

 彼の父親は定職に就かず離れたところに住んでいて、時々戻ってきては母親と口論して帰っていく事を繰り返している。

 彼の母親の実家は裕福で、母親は駅前の煉瓦通りでおしゃれなブティックを経営している。

 彼はそのブティックの店舗兼自宅から通学している。


 私が彼について知っているのはそれだけ。

 それも全て噂話から仕入れたことだ。

 でも、それでいい。それだけで充分。私の人生には、彼の姿が私の目に映っていることが幸せだから。

 そして、一度でいいから彼の目にも、私と言う存在が映っていたらいいなと思う。  

 だけど今、彼の姿はそこに無い。

 私は教室にいる間中、誰もいない目の前の机にぼんやりと見える、彼の幻を眺めていた。


 彼が来なくなって一か月が過ぎた日曜日。

 このひと月、私は彼に会いたくてたまらなかった。

 私はだんだんと部屋にいるのが惨めになって、読み出したはいいが、頭に全く入ってこない小説を閉じて、どんよりとした雨雲がのさばる駅前を、ふわふわと歩いていた。 

 駅から数100メートルに渡って敷き詰められた赤茶色の煉瓦が、初秋のショッピングストリートによく馴染んで、通りを歩くカップルの靴音を楽しげに響かせている。ハロウィンの飾り付けが施されたきらびやかなお店が、幸せそうな人たちの目を楽しませ、街は活気に満ち溢れていた。


 この道を彼と歩けたらなんて大それたことは思わない。

 ただ、もしこの通りのどこかに、ちらとでも彼の姿が見えたなら、私はきっと満足して、部屋に帰って読みかけの小説を開くことが出来るだろう。


 だけど、駅から続くこの道が終点に差し掛かろうとしても彼の姿はどこにも見えなかった。


 やがて、立ち込めていた雨雲がいよいよ雨を降らし、私は慌ててシャッターの閉まった店の軒下に飛び込んだ。

 傘を持たずに来た自分を呪い、ますます気が滅入ってしまった私は、しばらく後ろから名前を呼ばれていることに気づかなかった。

 何度目かでようやく振り向いた先に、そこにいた彼を見た瞬間、私は、何が起こったのか分からずポカンと口をあけたまま固まって動けなくなった。


 振り返ると、そこに彼がいて、そして、彼が私の名前を呼んだのだ。

 彼が私の名前を知っている。知っているだけでなく私を見て声をかけてくれた。

 それは私の中で、あまりにも在り得ないことだった。


 彼はもう一度私の名を呼んでくれた。

 そして、

「久しぶりだね」

 そう言って微笑んでくれた。


 私はまだ、今起こっていることが信じられず、何も答えられなかった。

 出てくるはずの言葉が、何一つとして頭の中から降りてこなかった。

 降りてこない言葉を、どうにかして外に出そうとしても、ノドも口も、私の心と反してピクリと動く気配も無かった。


 彼は少し困ったような顔をして言った。

「ごめん、迷惑だったかな」

 私は、そこでようやくハッとした。

 違う、違うの!

 心がそう叫ぶ。

 冷蔵庫で忘れ去られていたジャムの蓋のようにカチコチに固まってしまった身体を、めいっぱい力をこめて解き放って、どうにか可動させる。


「…こんにちは」

 きっと消え入りそうな声だったと思う。

 だけど、そんな私の声を彼はちゃんと拾ってくれた。

 この煉瓦通りにそっと吹いた微風にさえ、連れ去られてしまいそうな私の言葉を受け止めて、「聞こえているよ」そう囁くように、優しく見つめてくれた。


「こんにちは。今日は買い物?」

 彼が私に話しかけてくれている。早く、早く答えないと。

 何か、何でもいい。どんな言葉でもいいから、彼をつなぎとめていたい。

「あの」

「えっ?」

「あの、会いたかった」

 私は何を口走っているのだろう。

 恥ずかしさのあまり、思わず目をそらして俯く。

 彼は驚いて、一瞬目を見開いたが、すぐにまた柔和な笑顔を取り戻した。

「ありがとう。僕も会いたかったよ」


 ああ、神様、お願いします。

 この時間がずっと続きますように。

 願わくば時計よ、永遠にとまっていて下さい。

 私にはもう何がなんだか分からなかった。

 何がなんだかわからない私の気持ちは、天国にまで登っていくようだった。


「会いたかったの、本当に。ねえ、良かったら、もし良かったらなんだけど」

 もう私に怖い物なんてなかった。自分でもわかるぐらい早口にはなっていたけど、今言わないときっと後悔する。

 いったん動き出した頭たちは自分の能力以上に滑らかに機能した。


「私と、友達になって」

 彼はますます驚いた顔をして、言葉を探しているようだった。

「後ろの席なのに、ほとんど話したことが無かったけど、そうだね。もっと早く友達になれてたらな。いや、もっと早かったらダメだったな。ああ、ごめん。はは、何言ってんだろ。頭回ってないや」

 照れて頭を掻く彼の仕草が愛おしくて、私は抱きしめたくなった。

「うん。だけど、もうすぐきっとお別れをしなくちゃならない。遠くへ、僕は遠くへ行くことになるんだ」


 彼の言葉はある程度の衝撃だった。

 でもその時の私には物理的な距離なんてどうでもよかった。

 あれほど恋い焦がれた彼と、今日私は友達になる。

 今までの二人とはもう違うの。


「そうなんだ、残念ね。でも、私たち友達でしょ。友達なら、あなたがどこに行こうと繋がっていられるわ。たとえそれがどんなに遠い場所でも。ねえ、そう思わない?」

 指を顎に当てて、しばらく逡巡していた彼だったが、やがて思い直したように答えた。

「そう、だね。うん、きっとそうだ。運命っていうのは、そういうモノなのかもな」

「そうよ。私だって信じられないけど、今日こうして友達になれたのもきっと運命よ」

 彼は何度も頷くようなそぶりを見せた。

「ありがとう。良かったらもっと話をしていかないか。君さえ良かったらだけど」

 彼はポケットから鍵を取り出すと、私たちがいるシャッターが閉まったお店の横にあるドアを開いた。

「え?ここって?」

「ついこの間まで僕が住んでいた家だよ。今はあと片付けの真っ最中で散らかってるけど。さあどうぞ」

 本当だ。気づいていなかったけど、開いたドアの上には彼の名前が書かれた表札が架かっていた。まさか彼の家の前で雨宿りをしてたなんて。本当に運命かもしれない。


「今日はご両親はいらっしゃらないの?」

「両親は、ほんの数日前に一足先に行ってしまったんだ。二人そろってね。喧嘩ばかりしていた二人だけど、大人って何考えているかわからないよ。もう高二だからって一人息子をおいていくなんてね。おかげで後片付けでてんてこ舞いさ」


 笑いながら通されたお店の奥にあるリビングは、生活感がなくガランとしていた。

「ごめんな、こんなとこで」

 彼はどこからか、丸椅子とミルクティーを運んで来てくれた。

「ううん。充分よ。だってあなたと私は友達になったんだもの」

 心からそう思っていた。

 私たちはそこで今までの穴埋めをするように、話を弾ませて笑い合った。


 時間よ、とまれ。

 彼と見つめ合って笑い合う間、私は何度もそう願った。

「ねえ、電話番号を交換しておかない?」

 友達なら当然そうするのよ。そう言葉に含めて、催促するようにスマートフォンを取り出す私を見て、彼はまた、指を顎に当てて少しの間考えてから、スマートフォンを取り出し私の番号を入力した。


「今日は楽しかったよ。さて、そろそろ準備しなくちゃ」

 立ち上がると彼は握手を求めた。私は本当はハグして欲しかったけれど、差し出された、ひんやりとして柔らかい手を両手でぎゅっと握りしめた。


「また、会えるよね」

 玄関まで見送ってくれた彼にそう伝えなかったのは、これからも彼と繋がっていれる幸福感に満ち足りた私の、怠惰な感情からだった。


 駅に向かう途中、鞄の中のスマートフォンが震え、彼からメールが届いた。

 もうメールをくれるなんて。私は嬉しくって、うきうきしながらメールを開いた。


「今日はありがとう。旅立つ前にこんなに幸せな時間を過ごせるなんて、今朝までは想像もしなかった。今日君と出会えたのは本当に運命だったんだろうと、僕はそう思っている。神様の気まぐれは、この世界に何を起こすかわからないね。楽しいことも、悲しいことも、僕たちの意見なんてお構いなしだ。でも君に会って、僕は今日旅立つことに決めた。自分の意志で、両親の後をついていく事に決めたんだ。僕の時計は、数日前に止まったままだった。数日前から、ほんの一秒も進んでいないんだ。あの日、リビングで父と母、二人がいなくなってしまったあの光景を見てからね。だけど今日君と会えて、僕の時計はまた進みだした。身勝手だと思うだろうけど、ごめん。きっと許してくれないだろうけど、謝るよ。

最後に、本当にありがとう。僕の過ごした人生の、最後の何分間かは確かに幸せだった。心から、君の幸せを願っているよ。さようなら」


 スマートフォンが手から滑り落ち、乾いた音を立てて画面が割れた。

 私はそれを拾い上げることもせず、彼の家まで走り出した。


 息が切れても、整えるのを待つことはしなかった。

 彼の家、玄関の扉は開いたままだった。

 靴を脱ぐこともせず、私は彼を探した。

 彼の名前を何度も呼んだ。

 叫ぶように何度も、何度も。

 だけど、がらんどうの家のどこからも、彼が返事をしてくれることはなかった。

 私は泣いていた。泣きながら一つ一つ彼の家の部屋を開けて回った。

 そして、二階の奥の最後の扉を、

「違うと言って」

 そう呟きながら震える手で開いた。


 ああ、なんてことだろう。きっと彼も見たのだ、この光景を。

 数日前のその日。 

 両親が彼に残した無限の世界。

 彼と同じように私も、世の中の時計の針が今、全て止まったのだ。


 神様、どうか。どうか余りにも浅はかな私の祈りを、いえ、どうしようもないこの私自身を、どうか今すぐ粉々に打ち砕いてください。


 そうでないと私は、私はもう、壊れてしまいそうです。


 大好きだった彼の匂いが残る部屋。

 その机の上に、天井からぶら下がった、醜く変わり果てた彼の体が、

 壊れた時計の秒針のように、ぶらぶらと揺れていた。


 時間よ、とまれ。


 私の願い、

 それは、あまりにも残酷に

 

 叶った。

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