月のない漆黒の夜空

 銃撃戦の近接戦闘において、暗闇で優位性アドバンテージを発揮するには主に二通りのやり方がある。一つは、強力なフラッシュライトを銃につけて対象を視認しつつ、目眩ましの意味も込めて光を浴びせる方法。もう二つは、ナイトビジョンなどを装備して、こちら側が一方的に相手を視認する方法だ。


 一方的に相手を視認する方法はフラッシュライトを浴びせる方法と比べて、こちらの位置が知られない分、一見安全に見える。


 しかし相手を瞬時に無力化できなければ、逆にフラッシュライトを浴びせられてしまった場合、光を増幅するタイプのナイトビジョンなどは、フラッシュライトの光を増幅してしまう。


 ナイトビジョンでフラッシュライトの光を見た場合、目眩ましを喰らったのと同じ状態になるということだ。肉眼の状態よりもさらに何も見えなくなる。


 つまり、最初の攻撃で相手を無力化できるかどうかがポイントとなる。


 カゲトラは幸運にも、ナイトビジョンを特殊部隊の死体から手に入れて今回も持ってきていたが、一対一ならまだしも三十対一ともなると、さすがにいくらナイトビジョンの優位性アドバンテージがあるとは言え、かなり厳しかった。現実はハリウッド映画とは違う。




 しばらく歩くと施設が見えてきた。割と低い二階建てのようで、屋根はフラットで屋上がありそうだ。無機質な建物だった。本当にこんなところにこんな建物があるのかといったような施設で、そこそこの大きさの施設だったが、なんの施設なのかも皆目見当がつかなかった。


 一団は正面入り口らしきところで留まり始めた。カゲトラは裏手の方に回ってみることにした。


 今夜は月明かりもなく、かなり暗かった。その無機質な建物の全貌を確認できていたのはカゲトラだけだっただろう。真裏まで周ってみてわかったことは、建物はほぼ真四角、二階建て、出入り口は正面入口の1箇所のみのようだった。ただ、真裏から見ると二階の一部がバルコニーになっており、そこには窓もあった。


 カゲトラは万が一のことを考え、ここで撤退することにした。戦力差があまりにもありすぎる。三十人もいるとは思ってもみなかった。反面、やつらの現在寝泊まりしている場所や、新しく拠点にするかもしれないこの無機質な建物も把握できた。もしここに拠点を構えてくれたら、出入り口も二箇所しかない上に、周りが森で遮蔽が取りやすいから逆に攻めやすい。


 この拠点は、知られないことが強みになるタイプの拠点なのだ。それを知ることができただけでも大きい。奪われた物資は発見できなかったが、今回はこれで良い。やはり慎重に慎重を重ねるべきだ。


 帰りにやつらの出発地点に寄って、情報収集してみよう。なにか見つけることができるかもしれない。カゲトラはきびすを返そうとした。



 その時だった。

 二階のバルコニーの窓に女の子が見えた。

 小さな少女だ。間違いない。ナイトビジョンだからくっきりとわかる。

 こんなところで? こんな森の中の施設で生存者がいるのか?

 罠ではないのか? おびき寄せるための仕掛けじゃないのか?

 けれど……本当にただの善良な生存者だったら?

 もし奴らに見つかったらどうなるかわかったものではない。

 だがどうする。やつらが正面入口を突破してるのであれば二階まで上がってくるのは時間の問題だ。裏手にも人を寄こすかもしれない。もし登ってみて包囲されてしまったら、100%勝ち目はない。そんな危ない橋を渡る訳にはいかない。今までだってそうやって生き抜いてきたんだ。慎重に慎重を重ねるべきなのだ。

 ここはやはり--。





「お父さん!お父さーん!!」

 必死に掴んでいたはずの手。

 線路に降りるために離してしまった手。

 離さなければ、もっと未来があったはずのユウコの手。

 あの人混みの中で片時かたときも娘の手を離さずにいれば。

 どんな人混みだったとしても、もっとしっかり繋いで、抱きしめて、決して離さずにいれば--。







 実際は、決断までほんの数秒であった。

 カゲトラはバックパックに括り付けてある9m強のフック付きロープを取り出し、二階のバルコニーの手すりめがけてアンダースローで放った。

 アンダースローの後も上に向けて手を伸ばし続け、ホーム上の小さな手を掴みたかった余韻を、夜空に向かって広げた手のひらに感じていた。

 月のない漆黒の夜空にふわりと弧を描いた幾つものフックのうち、二つが手すりにがっちりと組み付いた。カゲトラは何も掴んでいなかった手のひらを握り締め、ロープをぐっと引いた。渾身の力だった。

 カラビナをハーネスとロープに手早く通し、壁に足を踏ん張りながら一歩一歩、着実に登っていく。ソーラーパネルの回収をしていたカゲトラには手慣れた作業だった。







 二階のバルコニーに上がると少女は窓越しにこちらを見つめていた。騒ぐ様子はない。だが他に人もいない。不思議だった。とりあえずカゲトラはバルコニーの床に耳を当てて、一階のフロアの様子を音で聞いてみた。

 バチバチバチバチという音がする。しめたと思った。やつらはまだ正面入口で手こずっているようだ。おそらく正面玄関のドアが開かなくて、バーナーか何かで焼き切っている音だろう。まだ時間に余裕がありそうだ。

 一応フック付きロープは、万が一この階で危険が迫ったときのため、すぐ脱出できるように、ロープだけを二階に手繰り寄せてそのままにしておく。



 カゲトラは警戒をしながらも、身振り手振りでドアを開けるように少女に訴えてみようとしたが、少女はこちらを見つめているだけだった。

 だが、改めて少女を見てみたカゲトラに、戦慄が走った。

「ユウコ…?」

 生きていたのか?こんなところに?誰かに保護されたのか?

 信じられない思いでナイトビジョンを外し、少女を間近で見てみた。

 ああ----。別人だ----。

 ユウコに似てはいるが、別人だった。


 ナイトビジョンを外したカゲトラに人間味を感じたのか、少女は唇を動かした。何かを言っている。我に返ったカゲトラは、開けるように身振り手振りで伝える。

「とにかく開けてくれ。ここに危険が迫っているんだ」



 ガチャッ。

 ドアの鍵が解除され、大きなガラスのスライドドアが開いた。

「よかった。君一人か?他に生存者は?」

「いない。私一人」

「そうなのか?ちょっと中を見せてくれ」

 そのまま中に入り、素早くあたりを調べてみる。確かに少女一人だ。

「ここは、一体何なんだ」

 オフィスらしき部屋もあり、資料室もある。防護服の装備や、武装、工具も、簡単なジム、レジャー用品まである。一階との階段が完全に封鎖できるようになっており、鉄のシャッターで封鎖されていた。こちらからでないと開けられないらしい。これなら奴らが二階に上がってくるのも時間がかかるだろう。

「お父さんの会社の一部って言ってた。」

 寝泊まりができそうな部屋もあり、食糧も豊富にあった。

「一階には行っちゃいけないって。だからずっと行ってないの」

 水回りの施設も完備されており、どういう仕組みか分からないが稼働する水洗トイレもあるようだった。

「ここは…シェルターとしても機能するようになっているのか……」

 パンデミックを完全に想定した施設のように感じた。一体何の施設なんだろう。

「いいか。よく聞いてくれ。今一階の入り口のところに悪い人たちがたくさん来ている。ここに入ってくるつもりだ。入ってきたら殺される。だから急いでここから逃げなきゃならない。俺は君を安全な場所まで連れて行こうと思っている。一緒に来れるか」

「うん」


 ものすごく物分りが良くて助かるな。カゲトラはそう思った。


「よし、じゃあ上着だけ着てきてくれ。すぐに出る。」



 上着を着てきた少女をバルコニーまで連れていき、カゲトラはロープを下ろした。

 少女にハーネスをつけ終わろうとした時だった。

「おい!なんだこのロープはよぉ!」

 下卑た声が階下から聞こえた。

 垂らしたロープを発見されたようだ。間に合わなかったか。

「誰か先にここへ来たのか?」

 さっき大きな声を出した奴とは別の男が訝しげに話している。

 バルコニーのフェンスは大人の胸ほどの高さがあり、コンクリートで出来ている。一番上の部分に手すりがあって、そこにフックが引っかかっている。カゲトラは手だけを出し、ロープを掴んで上に引き上げようとしたが、すでに下の奴がロープを持っているようで、引っ張りに抵抗感を感じた。

「おい!誰かいんのかよ!?」

 こいつはいちいち思ったことをすぐ口に出してくれるタイプのようだ。こちらとしては助かるが、この9mフック付きロープはできれば回収しておきたい。二階からさらに屋上に登ることができれば、9mあれば屋上から降りるチャンスも伺える。

 数発撃ち込んでみてロープから引き離すか。だめだ。手製のペットボトルサプレッサーでは、銃声で正面の本隊に気づかれてしまう。

 いちかばちかハッタリをかましてみることにした。

「先に登ってみたんだが、ここに大きな自爆装置があって起動しちまってる!正面のドアにちょっかい出したからだ!俺も降りるから離れてくれ!」

「へへっ。そうかよ。今行くぜ」

 だめだ。こいつ話が通じない。ロープを切るしかないのか。

 ロープがぐいっぐいっと引っ張られる。撃たれる危険があるので下を覗き込むことは出来ないが、おそらく登ってきている。


 仕方がない。登ってこられると厄介だ。

 カゲトラは小型の鞘から折り畳みナイフを素早く取り出すと、テンションのかかったロープを、フックの根元の部分で切り落とした。

「おい!うわぁーっ」


 ドサッ

 そこまで大げさな声をだすほどの高さじゃないだろうに、地面に落ちた男は、うーんと唸って悶絶している。

 だがなんであれ、これで脱出は容易ではなくなった。訝しげに様子をうかがっていた男が手下に命じた。

「おい!お前ら向こうに知らせてこい!別の客がいる!」

 何人かが正面の本隊の方へ駆けて行く足音が聞こえた。

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