記憶の中の鈍色の空

「結構物資はあると思うぜ。へへ」

 改造された双方向無線機越しでもわかるほどの下卑た声を聞きながら、カゲトラは元は他人の家だった自分の家で一人、MRE(軍用非常食)のクラッカーを頬張っていた。このクラッカーは、見つけた時すでに開封済みだったため、早く食べてしまう必要がある。

「人の形跡はなかったんだな?」

 別の人物の声が聞こえた。こっちの男は低くドスの利いた声だ。リーダー格だろうか、声に凄みを感じる。カゲトラはクラッカーをペストソースにつけて口に放り込んだ。なかなかイケる。ペストソースとはバジルのソースだ。パスタがあれば完璧だったが、調達に行ったボロアパートにはこのソースしかなかった。ミートソースでも良かったが、ミートソースは2人分で1パックだ。別に一緒に食べる人もいないし、多めに作り置きをして冷凍が出来ない状況なら、できれば開封したくない。

「ああ、なかったぜ。キレイなもんだ」

「死体どもは?」

「いない」

「拠点に使えそうだな。よぉし、じゃあその施設は今夜行くぞ。お前ら準備しとけ」

 今夜か。隠蔽された森の中の施設だなんて、思わぬ情報を手に入れられたな——。

 カゲトラは盗聴器として使えるように改造した双方向無線機を、よくやったと言わんばかりに撫でた。


 男たちの車列を見かけたのは二日前。彼らは無人のアパートの前に車を止めており、今はもう誰もいないアパートの中を漁っている最中だった。カゲトラは隣家の茂みから接近し、ポケットに盗聴器の入った衣服を、彼らの車両に積んであった戦利品の山に放り込んでおいた。それで情報収集をするつもりだった。


 結果、この二日間で輸送隊を襲ったのはこの男たちだったこと、彼らが近くにある刑務所から脱出してきたことなど、全部盗聴器を通して知ることが出来た。そして今、隠蔽された森の中の施設を発見したと、下っ端からリーダーに報告が入ったのだ。


 双方向無線機のスイッチを切り、なくなったクラッカーの袋を放り投げ、乾パンをペストソースに付けながら地図を確認する。彼らが現在寝泊まりしている場所はすでに把握している。ここからそれほど遠くはない赤い三角屋根の一軒家だ。今夜男たちはその隠蔽された施設に出向くだろう。


 明け方に男たちが帰ってきてから眠るのを待って襲撃してもいいが、今から出発地点の近くまで行って出発まで待ち、彼らの跡をつけ、その新しい隠蔽施設とやらの場所を確認してからでも遅くはない。

 バンでは目立ちすぎる。この前、駆動ベルトを修理した電動スクーターで行くことにした。これならエンジン音もしないし、いざという時に草むらに隠したりもできる。



 電動スクーターの点検を済ませ装備一式を整えたカゲトラは、略奪者たちの寝泊まりしている家の近くまで行き、出発の時間だと言っていた時刻まで待機することにした。






 * * *






 地下鉄の駅は人でごった返していた。カゲトラは娘のユウコの手を引き、改札の方へ戻ろうとしていた。

「現在、スーパーメトロ新湾岸線は、全線、運行を休止しております。復旧の目処は、立っておりません。現在、スーパーメトロ新湾岸線は--。」

 AIボイスの完璧な抑揚のアナウンスが、構内に響き渡っている。駅員の姿はすでに見えない。

 移動のために駅まで来たのだが、乗れないどころか地下鉄が完全に止まっており、地下のホームから改札へ戻ろうとしても改札の方から人がどんどん押し寄せてくる。ものすごい人の波だった。

「離れるなよ!」

 叫んだカゲトラだったが、次の瞬間ホームの電気が消え、何も見えなくなった群衆がパニックになり人の流れが一気に変わった。

 ものすごい力が加わり、あちこちから悲鳴が上がった。

「お父さん!」

 人の流れが強すぎて危険だと判断したカゲトラは慎重を期し、線路に降り立つことを決意する。一旦ユウコの手を離し、自分だけ先に線路に降りることにした。

「いいか、線路に降りるからこのホームの縁にうずくまっているんだ」

 ユウコにそう言い聞かせ、カゲトラは自分だけが線路に降り立った。

 カゲトラは振り向いてユウコに手を上に上げて差し伸べた。ユウコも立ち上がり手を伸ばしたが、その時に別の人に押された人が、ユウコを人のパニックの流れの渦に押し込んでしまった。

「お父さん!お父さーん!!」

 叫ぶユウコの手を必死に掴もうと身を乗り出したが遅かった。パニックの人混みの流れは、ユウコとカゲトラの距離を難なく引き離していった。


「ユウコーッ!」


 カゲトラはすぐにホームに飛び乗り、ユウコを追いかけた。何人もの人を押しのけ、跳ね飛ばし、ユウコの名を必死に叫んで探し回ったが、停電のためか照明がなく暗すぎるのと、パニック状態の人の数が多すぎた。


 何時間も娘の姿を探したが、ユウコとはそれきり再会することは出来なかった。


 一週間後、地下鉄駅から少し離れたところの、線路が地表に出ている部分から駅に行こうとしてみたが、地下へ続く線路は、地下水の排水装置が機能しなくなってしまっていたため水没していた。その日は朝から雨で、地下へ続く線路を飲み込んでいる溜まった地下水にさらに雨が降り注いでいた。

 絶望の水溜まりには、たくさんの死者が浮いているという地獄の光景だった。こんな状況では地下鉄の駅は完全水没である。ユウコの安否は絶望的だった。

「ユウコ……」

 カゲトラは地表へ出ている線路上に溜まった雨水に腰まで浸かって、水に浮かぶ死者たちに呼びかけた。だが彼らが返事することはない。

「ユウコ!」

 カゲトラは少女を見つけた。ざぶざぶと必死に駆け寄り、顔を確認する。鈍色にびいろの昼の空が淡く少女の顔を照らし出す。

 遂に見つけたのだ。空と同じで顔色は悪いが、大丈夫だ。今すぐ父さんが人工呼吸CPRで蘇生してやるからな。大丈夫だ。任せておけ。

 少女が目を見開き、こちらを見つめた。

 唇が動いた。

「ぴぴぴぴぴぴ…」




 * * *





「……ピピピピピピピッ」

 セットしておいたアラームが時間を告げていた。いつの間にか眠り込んでしまっていたようだ。

「……くそっ」

 あまり眠りたくはなかった。眠ると悪夢を見るからだ。何度もユウコは夢に出てくる。だが今回は喋らないだけましだった。いや、ましだったのだろうか。


 思考が混乱するのは、きっと腹が減っているせいだ。頭を振ってスクーターの姿勢を立て直し、プロテインバーをかじって時機を待つ。そろそろやつらが出発する時間だ。もう少しカゲトラは待つことにした。


 時間になると彼らはぞろぞろと出てきて、それぞれ車に乗り込んだ。

 が、思ったより人数が多い。三十人はいる。


「拠点には誰も残しておかないのかな…」

 盗聴している限りでは赤い三角屋根の一軒家の拠点に、誰か残っているということはなさそうだった。ということはここが本拠点ではないか、あるいは車両を拠点代わりにしているか……。もしかしたら車両を拠点代わりにしているからこそ、隠蔽された施設のような、誰にも知られていない定着可能な拠点を探しているのかもしれなかった。


 彼らの装備は主に軍や警察が使っていたような現代の小火器だった。フルオートの銃器も少ないが確認できた。カゲトラも一応フルオートの軍用アサルトライフルを入手していたが、まともにやりあったらまず勝てない戦力差だった。

「これはセンターの依頼もこなせるかどうかわからんな。戦力と隠し拠点だけの報告になるかもしれん。まあそれでよしとするか----」

 尾行対象を見失ったとしても発見されかねない無理な尾行はしない。尾行のチャンスは何度もあるが、見つかってしまったらそれ以降は警戒されるようになってしまい、尾行できなくなってしまう。つまり事実上それで終わりだ。


 盗聴器入りの服は誰かが着ているらしく、クリアに音声を拾っている。武装集団を尾行するカゲトラは、無灯火でスクーターを発進させた。



 森の中に入ってまもなく、一団は車を止め徒歩で森の中に入っていった。カゲトラも草むらの陰にスクーターを隠し、距離を置いて跡をつけて行くつもりだった。


 その時、暗闇の中でなにかにつまづいた。

「いてっ」

 太い木の杭だった。

「これは……」

 よく見ると向こうで杭が重なり合っている。

「そうか…このルートに通じてたのか」

 動く死体共も近くにいるということだ。事は慎重に運ばなければならない。

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