第2話 仕事

 MMエムツーという古い機種の話になりますが、その頃はそれが主流でした。あたしを含めたメイドたちは、歯車のように働く合間にそうやってチャールズを観察したり、陰でくすくす笑っておりました。


 私は……チャールズがどちらなのかはさっぱりでしたが、正直なところ、と考えておりました。


 今は、が主流でございますでしょう。そう思えば……、


 話が脱線致しましたね。元に戻しましょう。



 今でも覚えています。体に刻み込まれたように。……朝6時に起床。晩餐室の暖炉を清掃し薪を運び入れ火をおこす。カーペットを掃き掃除。図書室の暖炉を清掃。火をおこす。掃き掃除。ビリヤードルームの暖炉を清掃。火をおこす。掃き掃除。階段を磨く。応接室の暖炉を……


 これらの仕事ルーチン・ワークは、2年も経てば暗唱できるほど私の頭にも身体にもしみこんできて抜けなくなりました。頭の中では別のことを考えていても身体が勝手に動くし、今から眠ってしまおうというときも頭の中では明日の仕事のことを考えています。

 

 お姉様達は「貴女も立派な『歯車』ね、姉妹シスター」と私を褒めました。


 私は立派な「歯車」になったのです。

 

 「歯車」としての心得を覚えてからは、まるで油を充分に差した機械みたいになめらかに日常が進んでいきました。昼も夜も文字通りの瞬く間、瞼を開けたら朝で、閉じたら夜だった、カレンダーの数字もいつの間にか塗り変わり、気づけば1年が過ぎています。

 

 そんな調子で、2年、3年……私は18になっていました。ミルチントン伯爵邸に勤めて5年が経過しようとしていました。


 機械のように働いた日々のことをこうして思い返せるのは、私がそこで一度でも動くのをやめ、思考することを始めたからでしょう。いいえ、思考することをと言った方が正しいでしょうか。


 私は内側の窓を磨いておりました。階段上アップステア、つまり旦那様や奥様の住むフロアの窓です。

 窓が汚れていると奥様が仰ったので、その仕事がメイドに振られたまでのことでした。窓を磨いた後は、いつものように奥様の部屋に清掃に入り、ベッドメイクをし、床を磨いて暖炉の清掃を行う予定でした。

 ルーチンが乱れたのは、確かにあの日でした。

 窓を磨いていた私のところへ、ノア坊ちゃまがいらしたのです。


 坊ちゃまは、まるで急に身長が伸びたような、顔つきが変わったような、雰囲気までになったような、いいえ、全て私の錯覚と片付けられてもおかしくないような、本当に些細な違いであったのですが――ただひたすら、私の人間としての感覚が、これはと感じたのです、

 昨日さくじつ偶々たまたまお会いしたときとは何かが違うと、ジェニーが言いました。あたしは「歯車」でいることを、ほんの一時中断してしまったのでございます。


「何をしているの?」


 昨日まで無邪気であどけなかった声は、一段低くなって、すでに少年のものではありません。私は驚き、持っていた雑巾を取り落としそうになりました。

「窓を磨いておりました」

 私は精一杯声を張ってお答えしました。坊ちゃまは私の答えに満足なさったのか、緩慢に頷きなさって、それからこう続けました。

「僕もやってみたい」

 私は言葉を尽くして、このような仕事は下々しもじものものにまかせ、坊ちゃまのような高貴でいらっしゃる方は、高貴な方にしか出来ぬ、成すべきことを成してくださればよろしいのです、といった風なことを早口でお伝えしました。それも、足りない頭を回して、懸命にひねり出した言葉であったのですが、坊ちゃまはすぐにこう切り返してきます。

「チャールズのようなことを言うんだね、君、名前は何というの」

「ジェ、」舌がもつれました。その頃の私は自分の名すら忘れかけておりました。

「ジェニーでございます、坊ちゃま」

「じゃあ、ジェニー。君は掃除や洗濯や僕らの世話ばかりしているけれどそれで満足なの? 例えば、自由になりたいとは思わないの? 君たちに労働をいて、世話させている僕らが恨めしいとは思わない?」

 坊ちゃまの問いは全て私にとって難しいものでした。私はしばらく雑巾を握りしめて考え込み、坊ちゃまと目を合わせることが出来ずに俯きました。

「……申し訳ございません。あたし、考えたこともありません」

「考えたこともない、か。それも一つのかいだろうね」


 坊ちゃまはまだ磨き上げていない窓に触れなさり、その向こう側に見える時計台の高楼こうろうをご覧になりました。つるりときめ細やかな肌が、私の目にまぶしく映りました――。


「チャールズは言うんだ。『外に出てはいけない』と。貴方様のような貴種きしゅは、外に出ては生きてゆけないと。でもそんなことはないだろう。君も僕も同じなんだから、僕は外へ出られるはずだし、君はそんな風に汚れて働く必要がないんじゃないか」

 私は思ってもみない言葉に目をみはり、そして大きくかぶりを振りました。

「いいえ、いいえ、坊ちゃま。坊ちゃまはご存じないのです、人が、雑踏がどれほど恐ろしいか。詐欺、強盗、恐喝、暴力……人は怖いものです、群れれば尚のこと怖いものでございます、坊ちゃまのような高貴な方が、外でなんか……」

「でも、海も空も花も木々も、外にあるんだよ、ジェニー」

 そして坊ちゃまは、ひんやりと冷たい手を私の首の後ろ、ちょうどうなじのあたりに押し当てました。私はその手があんまり冷たくて、驚いて肩をそびやかしました。しかし坊ちゃまはしばらく、何か私のうなじを確かめなさって、それからようやく合点がてんなさり、

「ああ、間違えた。君はなのだった」と呟かれました。


 

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