第2章ー13

 今日、俺たちが演奏する曲は、セルゲイ=ラフマニノフ作曲の『前奏曲 嬰ハ短調 作品3-2』だ。『鐘』や『Cシャープ』と呼ばれ、大変人気の高い楽曲で、フィギアスケーターの人気選手が、オリンピックのフリープログラムでこの曲を使用したことで、クラシック音楽に馴染みがない人々の間にも知られるところとなった曲だ。この曲をリクエストしてきたのは、学長の藤原響太郎ふじわら きょうたろう氏。「慧都音楽大学」の創始者である、藤原響透氏の実子だ。ピアニストでもある響太郎氏が、熱狂的なラフマニノフファンということは有名な話だった。ラフマニノフが手掛けた多くの楽曲は、技術的にも音楽的にも、難曲の部類にカテゴライズされる。ラフマニノフ自身が身長約二メートルという体躯に、巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができた(小指で「ド」の音を押しながら、親指で1オクターブ半上の「ソ」の音を押さえることができた)ため、彼が作曲したピアノ曲には、物理的に一人の奏者では同時に押さえることが不可能な箇所も少なくない。そのため、成長期の真っ只中にある中学生にラフマニノフを弾かせるピアノ講師はあまりいないのだが、俺たちは、ラフマニノフほどではないにしろ、大きく、厚みのある、ピアノを弾くのに恵まれた手を持っていた。


「あまり、俺に期待するなよ、泉。俺は、せいぜい、オマエの演奏を邪魔しないように弾く。それだけで、精一杯だ」

 泉は、何かを言いかけた後、口を噤み、そして、心底残念そうに、

「わかった……」

 と言った。これ以上、余計なことを口走ったら、俺が機嫌を損ねるであろうことを察知したのだろう。

 昔からそうだった。二人の間で険悪な空気が漂ったとき、身を引くのは、必ず兄だった。だから、俺たち双子の兄弟は、これまで、ただの一度もケンカらしいケンカをしたことがなかった。そんな俺たちのことを、周りの人々は「ケンカもしないほど仲の良い兄弟」と思い込んでいたようだが、実際のところは、ケンカすらできない、仲の良い悪い云々以前の話だったのだ。俺は、お互いの本当の気持ちをぶつけ合って思いっきりケンカをしなかったことを、兄がいなくなってから、ただひたすらに後悔することとなる。

「万が一、俺が、本番でやらかしたら、オマエは演奏を止めずに続けてくれ、頼む」

 俺がそう言うと、泉は、悲しそうに頷いた。

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