第2章ー12
俺は、数少ない仲間の力作を、スマホの画像に収めた。正門を後にし、図書館と3号館の間の道を西の方角に真っすぐ進むと、広場へと誘われる。フォトスポットともなっている、広場の銀杏の木々は七割が黄金色に発色し、残る三割の黄緑色の葉たちは、まるで大人になるのが待ちきれない少年少女たちのように、晴天の秋空の光をこぞって浴び、誰がいちばん早く発色できるかを競っているかのように見えた。きっと……大人になったって、いいことなんてありはしないのに……。
広場の中央には、慧都音楽大学の創立者である、
十五時十五分開場の、慧都クラシックコンサートまで、まだ二時間近くもあるというのに、広場はコンサートを待つ人々で溢れていた。正確に言うと、「谷村 泉のコンサート」を待つ人々で溢れていた。観客層は、老若男女問わずといったところだが、やはり、女性層が多い。泉のブロマイド写真やCDを愛おしそうに見つめる女性たちは皆一様にうっとりとし、完全に、泉に恋をしているようだった。多くの人々が色とりどりの花束や可愛らしいぬいぐるみを用意しているようだが、きっと八割くらいは、泉の手に渡るのだろうな、と思った。
恍惚として我を忘れた女性ファンたちとは対照的に、獲物を狙う鷹のような目をしたギラギラとした輩も多数紛れていた。名の知れたプロの演奏家やマスメディア、音楽評論家や大手クラシックレコード会社のスカウトマンたちに違いない。その中には、俺が忌み嫌うゴシップ好きで悪趣味な輩たちも平然とした顔で紛れ込んでいた。俺は、そいつらと鉢合わせしないようにニットキャップを深めに被り、極力、平静を装って、藤原記念講堂の裏手側にある関係者入り口へと向かった。俺の他にも新たなターゲットでも見つけたのだろうか? 幸い、俺は、ヤツらに発見されることなく、無事、藤原記念講堂の内部に足を踏み入れることに成功した。
顔馴染みの施設警備員のおじちゃんが、
「お兄ちゃんなら、少し前に来たよ」
と、優しそうに微笑んで言った。このおじちゃんは、森村さんといって、特にクラシック音楽が好きでここで働いているわけではなく、長年勤めた会社を定年退職した後、急にできた膨大な暇な時間を飼い慣らすことができずに、たまたま求人広告で見かけたこの仕事に応募したということだ。さすがに、泉と俺が有名人ということは知っているらしいが、クラシック音楽に関心が薄いがために、おじちゃんは、慧都音中の生徒皆を、まるで、孫を見守るかのような優しい目で平等に見てくれる。学内に味方が少ない俺にとって、おじちゃんの存在は、少なからず、俺の精神面を支えてくれていた。悪質なメディアから逃れるためこの場所に逃げ込んできた俺を匿ってくれたのも、おじちゃんだった。俺は、管理台帳に、
『十三時二十五分 谷村 舜 二-B 生徒』
と書き込んだ。おじちゃんは、俺の胸中に渦巻く不安など全てお見通しなのだろう。重い足取りで、演奏者控室へと向かう俺に、
「リラックス! リラックス!」
と、励ましの声を掛けてくれた。シンプルだけど慈しみに溢れたその言葉は、俺の心を少しだけ癒やしてくれた。
「ありがとう、おじちゃん!」
俺は、笑顔で応えた。おじちゃんは、目を細めながらゆっくりと頷いた。
事前に指示されていた第2演奏者控室のドアを開けると、そこには、泉の他に二名ピアノ科の生徒がいた。いずれも、名だたるコンクールで上位入賞の成績を収めているエリートだ。二人は、あたかも、
「谷村 泉? ああ、マスコミで騒がれているイケメンピアニスト様ね。俺は気にしていませんよ……」
という涼し気な素振りを演じながら、泉をガンガンに意識しているのが、視線や表情から見え見えだった。無理もない。神童 渋谷ニナ同様、彼らは、谷村泉が存在する限り、決してコンクールで一位を獲ることができないのだから……。そんな彼らの敵意に満ち溢れた視線に気付いていないのか、はたまた、気付いていても気にならないのか……。泉は、俺の姿を確認すると、嬉しそうに走り寄って来た。
「舜、良かったー。来なかったらどうしようって心配したよー」
「呉林のババアが、演奏しなかったら、三年に進級させないって脅迫するから、仕方なく来たんだ。できることなら、俺は人前でピアノなんて弾きたくないのに……」
泉の顔が一瞬曇った。きっと俺のことを憐れんでいるのだろう。その表情を俺に悟られまいと思ったのか、泉は瞬時に笑顔に戻り、
「そっか……。舜は、僕と二台ピアノなんか弾きたくないんだね……。こんなこと言ったら、舜、怒るかもしれないけど……僕、今日、舜とラフマニノフの曲で共演できるのすごく楽しみなんだ」
と、言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます