第2章ー10
――十一月十八日 日曜日。快晴。
水色の水彩絵の具を、真っ白なキャンバス一面に着彩したかのような澄み切った空に、綿菓子みたいなうろこ雲がふわふわと浮いている。絶好の「音響祭」日和。胡散臭いほど爽やかな秋晴れの空に反して、俺の心は、暗灰色で重々しく沈んでいた。雨気を多く含んだ心は、ほんの少し触れられただけで、雷を伴った激しい雨を降らせるかのような得体の知れない不安感に支配されていた。九月に、フレグランス婦人から、「音響祭」のメインイベントでもある「慧都クラシックコンサート」に、泉と二人で二台ピアノを演奏するようにという拒否権ゼロの絶対命令を一方的に叩きつけられてから約二カ月の間、俺は、一度も泉と弾き合わせをしないまま、この日を迎えてしまった。テレビ出演やら、コンクールの準備やらで何かと多忙な「若手ピアニスト期待の星 谷村泉 様」は、ご多忙な合間を縫って、何度も、俺に二台ピアノの弾き合わせをやろう、と提案してきたが、俺は、徹底的に逃げた。
泉が九歳の時、「ショパン国際ピアノコンクール in ASIA」でGold Prizeを獲得し、世間の注目を集めることとなったあの日から約六年……泉と俺の間にできてしまった、もう決して埋めることのできない実力の差を現実に認めることが怖かったのだ。
あの時までは、俺の方が優れていたんだ。ジュニアのコンクールで何度も一位を獲ったし、”神童”と言われて持て囃されていた……。取るに足らない俺のちっぽけな自尊心が、現実を受け入れることを拒絶した。自分の実力の限界をとうの昔に知りつつも「ピアニスト・谷村 樹」としての幻想に縋らなければ正気を保てない母、過去のコンクールの結果に縋らなければ自信を保てない、フレグランス婦人……。散々、心の中で見下してきたけれども、結局のところ、俺も同じ類の人間で、これが、同族嫌悪っていうやつか、と、しみじみと考えながら、俺は、慧都音楽大学附属中学校に足を踏み入れた。
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