第2章ー9
俺が、前期の実技試験で、フレグランス婦人の命令で弾いた曲は、ブラームスの『ラプソディ ト短調 op.79-2』とショパンの『革命のエチュードop.10-12 ハ短調』だった。ブラームスはともかく、『革命』は絶対弾きたくないと拒絶したが、フレグランス婦人は、俺の主張など微塵も聞き入れてくれなかった。実技試験当日、俺は『革命』が弾けなかった。厳密に言えば、俺の両手は勝手に『革命』を弾いていた。六歳の頃から弾いていた曲だ。目を瞑ってでも弾ける。
「どうして、そこで、アルペッジョが遅れるの? 勢いを途絶えさせないで! もう一回!」
「ダメ!全然ダメ!」
「今の演奏はとっても素敵だったわよ! とっても上手に弾けたわね、舜くん!」
もう決して、俺に向けられることのない母の叱咤する言葉と褒め言葉と笑顔が、演奏中終始ちらついて、俺は全くもって、演奏に集中することができなかった。当然、ショパンがこの曲に込めた激しい怒りの感情などを曲に乗せることなどできる筈もなく、俺は『革命』を超高速のピアニッシモで弾いた。
激怒の表情のフレグランス婦人、ひそひそ話をする講師たち……
フレグランス婦人の無慈悲な言葉が引き鉄となって、忘れたくても忘れられない光景が、俺の中でフラッシュバックされた。呆然とする俺に対して、フレグランス婦人は、容赦なく追い打ちをかけてきた。
「あんなにやる気の感じられない『革命』、私、生まれて始めて聴かされたわよ。今回は他の先生方の恩情のおかげ「3」の評価を付けて貰えたことに、あなたは感謝するべきよ! 本来なら、あんな心無い演奏をしたら「2」の評価になるところよ! 次にあんなふざけた演奏をしたら、進級の保証はないわよ! 私にこれ以上恥をかかせないでちょうだい!」
だから、あんなに弾きたくないって言ったじゃないか……
「今回の『音響祭』の二台ピアノの件、あなたには拒否権がないと思いなさい! せいぜい、泉くんの足を引っ張らないように練習に励みなさい!」
もうどうでもいい……好きにしたらいい……
音中なんて受験しなければ良かった……
「慧都音中」なんて、落ちれば良かった……
佐渡と泉が、可哀想な俺に、何やら一生懸命、慰めやら励ましの言葉を掛けているようだったが、その、温かい筈の言葉を、俺は、何ひとつ聴き取ることができなかった。
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