第2章ー7

「呉林先生がクールダウンされている間に、私の方から詳しいことをお話しいたしましょう」


 佐渡に主導権を奪われたフレグランス婦人は、思いのほか素直に佐渡の命令に従った。気のせいか、佐渡を見て、一瞬顔を赤らめたようにも見えた。自分より権力を持つ者には歯向かえないのか? はたまた、佐渡に密かに恋心を抱いているのか? 佐渡とフレグランス婦人が抱擁を交わしているシーンを想像して、俺は、思わず吹き出しそうになってしまった。フレグランス婦人を引っ込めた佐渡は、ご自慢のテノールヴォイスで話し始めた。


 「実はね……『クラシックTV』で、泉くんの特番が放送されることになってね、今年の音響祭にテレビ局のスタッフが、彼に密着取材をすることになっているんだ。慧都クラシックコンサートでの彼の演奏を、ぜひ撮影したいってことでね。クラシック音楽業界の人間や、クラシック音楽愛好家で、我が校のことを知らない人はいないかと思うけど、一般の人々の間では、わりと知られていないからね。一人でも多くの人々に今回の特番を観ていただくことで、一人でも多くの人たちにクラシック音楽に興味を持ってもらいたい、というのが、学長のご意向なのさ。音響祭の目玉イベントでもある慧都クラシックコンサートでの演奏が放送されることに、学長も大賛成ってことになったわけなのさ」


 佐渡の説明は、フレグランス婦人の話の百倍はわかりやすく親切だったが、

「はい、そうですかー。わかりました!」

 と、納得できる話ではなかった。

「それなら、泉が、ソロで演奏すれば済む話じゃないですか? なぜ、俺が、泉と共演する必要があるんですか? 納得できません!」

「うん、うん。舜くん、君の言うことももっともだ」

 佐渡は、さも、自分は話がわかる人格者であるとでもいうような表情を浮かべながら頷いた。

「本当のことを話すと……君の気持ちを害してしまうかと思ったから、敢えて話さずに承諾してもらえれば幸いだったんだけど……その様子だと、本当の事情を話さないと、君、納得してくれそうもないから……話すしかないか……」

 佐渡は、重いため息を吐いた。

「俺なら大丈夫です。本当の大人の事情を話してください!」

 俺の中で、大人の事情の大方の予想はついていた。

「実は、舜くん……君、一部のメディアで、大変な人気者なんだよ」

「面白がってるだけでしょう?」

 俺は、卑屈な笑みを浮かべて言った。


 当時の俺は、一部のゴシップ好きな趣味の悪いマスメディアに付きまとわれていた。クラシック業界期待の若きイケメンピアニスト「谷村泉」の出来の悪い双子の弟の存在は、彼らの大好物のネタだったようで、彼らは面白がって騒ぎ立てていたのだ。忌々しい記憶が頭を過った。


***

「谷村舜さんですよね?」


 学校の裏門で待ち伏せしていた、ゴシップ好きのマスコミ記者たちのカメラのフラッシュが、容赦なく俺に向かって浴びせられた。


「双子のお兄さんである、泉さんの才能に対して嫉妬する気持ちはありますか?」


 ヤツラは、自分が発した言葉が他人の心を痛めることなどお構いなしというような良心のカケラもない質問を平然と叩き付けてきやがった。


「そんな感情、俺は生憎持ち合わせていませんよ。俺と泉は双子の兄弟ですが、別個の人間です。泉にはピアノがマッチした。俺にはマッチしなかった。俺は、ピアノが好きではありません。むしろ、大嫌いです。大嫌いなピアノで兄と比べられること自体ナンセンスなことだし、こんなくだらない質問を投げかけてくるあなたたちメディアにも辟易しているんですよ。もう、俺のことは放っておいてもらえませんかね?」


 俺は、奴らに突っ慳貪な対応をした。そうすると、奴らは、濁った目をギラギラと輝かせ喜んだ。品行方正で才能に満ち溢れる双子の兄に対して、やたらと反抗的で生意気な発言を繰り返す双子の弟のことを、メディアはことのほか面白がり記事にした。たった十五歳にして人妻と付き合っているとか、夜の繁華街を練り歩いているとか、学校での素行の悪さとか……学校での素行の悪さに関しては否むことができないが……それ以外に関しては、ヤツらが面白おかしくでっち上げた、身に覚えのないフィクションだった。



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