第1章ー2
この世界に、ピアノ弾きは、ピンからキリまで掃いて捨てるほどいる。その中で、プロのピアニストになることができるのは、ほんのひと握りの人間。その中でも「一流」と呼ばれるピアニストになれる人間は、もっともっと少ない。宝くじで一等を引き当てるよりも難しいことなのかも知れない。”才能”と”運”と”環境”。それら全てに恵まれた、音楽の神に愛された選ばれし者のみが足を踏み入れることができる”高み”。母が、どれだけ強く願い、努力しても手に入れることができなかった”高み”。母は、自分が音楽の神に選ばれなかった者であるということを、とうの昔に気付いていながらも、ずっと気付かないない振りをしていたのだ。だからこそ、二人の愛しい息子たちにはピアノの世界に関わらせたくなかったのだと思う。
俺たちは、母のそんな想いを、無意識にのうちに肌で感じとっていたのかもしれない。俺たちは、外で遊ぶことが大好きだった。ピアノには全く興味がなかった。母は、自宅のマンションでピアノ教室を開いていたため、マンションには防音設備が整っており、一般家庭ではなかなかお目にかかれない「スタインウェイ」のグランドピアノが三台あった。二台はレッスン室に、一台は母の部屋にあった。最高の環境が用意されていたにもかかわらず、俺たちは、不思議と、ピアノに興味を示さなかったのだ。マリカお姉さんのひと言がなければ、俺たちは一生、ピアノに縁のない人生を歩んでいたのかもしれないし、その方が、俺たちにとっては、幸せな人生だったのかもしれない。
兎にも角にも、
『ねえ、泉くんと舜くんは、ピアノを弾かないの?』
マリカお姉さんのこのひと言で、俺たちのピアノ人生は、幕を開けてしまったのだ。
突然、ピアノに目覚めた息子たちを、始めは戸惑いながら距離を置いて見守っていた母だったが、やがて、意を決したかのように、俺たちにピアノを教え始めた。普段は優しい母だが、レッスンになると、まるで別人のように厳しかった。
「どうして、そこで、アルペッジョが遅れるの? 勢いを途絶えさせないで! もう一回!」
「ダメ! 全然ダメ!」
弾けるようになるまで、何回も何回も何回も、繰り返し弾かされ、レッスン室から出してもらえなかった。俺は、何度もピアノを辞めようと思ったし、ピアノが嫌になったら辞めるのも自由、というのが、母の指導方針だったのにも関わらず、俺がピアノを辞めなかったのは、上手く弾けた時に見せる母の優しい笑顔が見たかったからだ。俺は、ただ、それだけのためにピアノを弾いていた。特に、母が褒めてくれた曲は、ショパンの『革命』のエチュードだった。俺は、この曲がいちばん好きだった。 この曲が弾けるようになったのは、俺が六歳の時だった。天性の耳の良さと音感の良さで、俺のピアノの技術力は平均的な子供たちのそれを大きく上回り、齢六歳にして、ショパンのエチュードの『10-4』や『木枯らし』といった難曲も難なく弾けるようになっていた。
それに対して、泉は、ショパンの『ワルツ OP.64-2』に悪戦苦闘していた。何度弾いても上手く弾けない泉に対し、母は、おもむろに深いため息を吐き、
「舜くんは、すぐに弾けたのに……」
と、呟いた。
泉の瞳から、涙が滴り落ちた。
母が、匙を投げてレッスン室を去った後も、泉は、泣きながら、何時間も、繰り返し、繰り返し、繰り返し……下手くそなワルツを弾き続けた。そんな、泉の痛ましい姿を見ながら、俺は、双子の兄弟なのに、どうして、俺と同じように弾けないんだろう……と、心の中で思っていた。
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