第3話月の光の下で
「ああ~っ……どうしよう……」
時刻は午後8時を過ぎ、空にはまんまるい月と冬の空特有の美しい星達が瞬いている。
そんな中、耕太はシチローから渡された推理小説の下巻を持って、詩織の自宅へ向かって独り歩いていた。
いや……本当は森永探偵事務所の4人が彼の後ろを少し離れて
ただ本を届ければ良いだけの話だが、昼間シチローが言った言葉が耕太に大きなプレッシャーとなってのしかかっていた。
『耕太君、子供の使いじゃ無いんだからな! これは君にとってまたとないチャンスだぞ。分かってるよね』
「そんな事言ったってなぁ……」
詩織に会えるというのに、耕太の足取りは重かった。
もし、詩織の父親あたりが応対して来たらどうしよう……
詩織さんが入浴中だったりしたら……
あれこれ考え出したらキリが無い。
そんな耕太とは対照的に、シチロー達はこの後どんなラブロマンスが見れるだろうかと、期待に胸を弾ませていた。
「頑張れよ、耕太君」
詩織の家の前に着いた耕太は、なおさらに憂鬱になってしまった。
詩織の自宅である『北条家』が、耕太の想像を遥かに越える大邸宅であったからだ。
詩織の父親はきっと、かなりの資産家か相当な地位の高い役職に就いている人物に違いない。
詩織の写真を初めて見た時の『良家のお嬢さん』というシチローの見立ては、まんざら間違いではなかったようだ。
(もっと良い服を着て来るんだった……)
ジーンズにタートルネックのセーター、そしてその上にオレンジ色のフリース……オールユ〇クロ製の今の服装に、少し後悔したがもう遅い。
耕太は大げさに咳払いをした後に、意を決してインターホンのボタンを押した。
☆☆☆
♪ピンポーン
その数秒後にインターホンのスピーカーから声が返ってきた。
『はい!』
「うわっ! 喋った!」
普通喋るだろ……
インターホンの声は年配の女性らしき声であった。おそらく身の回りの世話をするお手伝いさんか誰かだろう。
「あのぅ…僕……いや私は、〇〇図書館の山口という者ですが……」
高感度のインターホンに、思いっきり顔を近づけて話す耕太……屋敷の中の受話器のモニターには、近過ぎる耕太の顔がどアップで映し出されていた。
『そんなに近づかないでも、ちゃんと聞こえますよ! どのようなご用件でしょう?』
スピーカーからの声を聞いて、慌てて顔の距離を離す耕太。そして、詩織に頼まれていた推理小説を届けに来た旨を、顔の見えない屋敷の中の相手に伝えた。
“少しお待ち下さい”と短い返答があった後、1~2分の間隔が空いた。
おそらく詩織へ確認を取りに行ったのだろう。
やがて、ガラガラとこもった金属音と共に重そうな門の扉が自動的に開いた。
「夜分に失礼します。」
広い庭園を通り抜け、そう言って耕太は玄関のドアを開けた。
(よかった……)
最初に耕太がそう思ったのは、ドアを開けたその向こうにすでに笑顔の詩織が立っていたからだった。
「わざわざ来て戴いて、本当にありがとうございます!」
「いえ……」
詩織に“ありがとう”と言われた。
こんなに嬉しい気分になったのは、何か月ぶりだろうか……
ただ、ありがとうと言われただけなのに。
耕太の詩織に対する気持ちと詩織の耕太に対するそれとでは、こんなにも大きな開きがあるのだ。
あとは、この開きをどう埋めるかなのだが……
「それじゃこれ……お約束の小説です。」
耕太に渡された小説を手に取ると、詩織はより無邪気な顔で目を輝かせた。
「これです! これ。……すいません。私って我が儘ですよね」
「いえ…そんな事……喜んでいただいて何よりです。」
わざわざ本を届けて貰って、このまま帰すのも気の毒な話だ……詩織は“今、お茶を淹れますから上がって行って下さい”と腕を横に差し出して耕太を招いた。
耕太はその誘いに思わず“はい”と言いそうになったが、その後すぐに自分の今の状況に気が付いた。
目の前に見える、自分の年収程に高価そうな置物や美術品の数々…上品な詩織の洋服…それに比べ、自分はユ〇クロの上下に安物のスニーカー……
『住む世界が違う』とはこういう事を言うのだろうか。
僅か30センチ程高いだけのその床には、自分には踏み込む事の出来ない世界が存在しているように耕太には思えた。
そういえば、今日履いている靴下は爪先に穴が開いているんじゃなかったっけ……
「いえ…お構いなく……僕はこれで帰ります。」
俯いてそう言うと、詩織が何か話す前に耕太は深くお辞儀をしてから回れ右をして『北条家』を後にした。
☆☆☆
「耕太君、上手くやってるかな~?」
北条家の閉じた門を眺めながら、ひろきが呟いた。
北条家の敷地に入る事が出来ないシチロー達は、門が見える少し離れた場所から耕太が現れるのを待っていたのだ。
耕太は肩を落としてうなだれながら北条家の広い庭園を歩いていた。
「所詮、僕には無理な話だったんだ……」
現実を思いさらされたような気分になった耕太はこの時、いっそのこと詩織の事を諦めてしまおうかとも考えていた。
やがて、まるでその重苦しい雰囲気を象徴するかのように、門の開く鉄の軋む音が聞こえた。
「あっ、耕太君が出て来たわ」
「なんか、元気なさそうな感じねぇ……」
子豚とてぃーだが心配そうに耕太を見つめる。
「何かあったのかな? ちょっと声をかけてみようか。」
シチローが声を掛けようとしたその時、突然てぃーだがシチローを制止した。
「待ってシチロー! ……耕太君の後から誰か出て来たわ!」
北条の屋敷から、耕太の後を追いかけて走り寄る人影……
それはまさしく詩織の姿だった。
☆☆☆
「待って下さい!」
突然後ろから声を掛けられて、耕太はビクリと首をすくめて立ち止まった。
そしてそれが詩織だと判ると、尚更驚いた。
「どうしたんですか?」
不思議そうに尋ねる耕太に、息を切らせながら詩織が答えた。
「だって…せっかく…本を…持ってきて…下さったのに…お茶ぐらい…ハァ……」
(それでわざわざ追いかけて来てくれたのか……やっぱり詩織さんは優しい女性だ。)
耕太は少し考えた。そして眼鏡をずり上げながら詩織にこう言った。
「小銭持ってますか?」
「えっ、小銭ですか? …小銭なら……」
詩織は上着のポケットから財布を取り出し、五百円玉と百円玉を何枚か自分の掌に乗せた。
「だったら、僕はあれでいいです。」
そう言って耕太が指差したのは、すぐそばの夜の公園でひときわ明るく灯るジュースの自販機だった。
「わかりました、ご馳走します」
詩織は、にっこりと笑って耕太の申し出に同意した。
チャリン!チャリン!
「さぁ、お好きな物をどうぞ」
詩織は自販機に小銭を入れると、おどけたように両手を広げてそう言った。
耕太はそれに合わせ大げさに考えるフリをした後、ホットカフェオレのボタンを押した。
すると……
“ピィーー”と自販機の電子音が鳴り、もう一本当たりを示すランプが明るく光った。
「スゴイ! 当たった!」
二人はお互いに顔を見合わせ、クスクスと笑い出した。
「どうやら、オイラ達はオジャマなようだな」
二人の様子を隠れて見ていたシチローは、そう言って笑うと後の3人を促してその場を去る事にした。
夜の公園のベンチには、月あかりに照らされた二人の姿があった。
「あの…確か、山口さん……」
「耕太です! 山口耕太。」
ぎこちないお互いの自己紹介が済んだあと、二人は小説の話でしばし盛り上がった。
読んだ事のある推理小説の話……
好きな作家の話……
目の前の詩織と共通の話題が持てる事……好きな物が一緒な事。
寒い冬の夜であったが、たった130円のカフェオレであったが……今のこの時の耕太の心は最高に幸せで、最高に暖かかった。
「あ……今日は満月だったんだね。」
ふと、空を見上げた耕太が今更ながらに呟いた。
「そうですよ、今気が付いたんですか?」
詩織が笑って答えた。
「そうか……じゃあ僕は今日一日、下ばかり向いていたんだな……」
感慨深そうに目を細めて、耕太は少しの間まんまるな月を眺めていた。
急にベンチの後ろに植えてある背の低い椿の木が、ガサガサと音をたてた。
耕太と詩織が驚いて振り返る。
ミャア~~
「なんだ……猫か、びっくりした」
耕太はフリースのポケットを漁ると、ビスケットの袋を破って猫の方に小さく投げた。
猫はビスケットに飛び付くと、それを一口でたいらげ、今度は耕太の足の周りにまとわりついて“もっとくれ”と催促し始めた。
「ごめんよ…ビスケットはもうおしまいだよ……」
背中を撫でようと差し出した指先を、ザラリとした舌で舐める猫。
耕太はそんな猫を少し可哀想に思った。
「最近じゃ、ゴミの管理もキチッとしていてあんまり餌にもありつけないんだろうな……」
「けど……」
猫を撫でながら、詩織が呟いた。
「私は猫が羨ましいわ……自由で気ままで…何事にも縛られない猫が……」
そう言って、寂しそうに遠くの一点を見つめる詩織。
その気になれば、本など幾らでも買える身分の詩織が何故わざわざ図書館で時間を潰すのか?……耕太はあえてその理由を訊かずにいた。
かわりに、“そうだね”と言って優しく微笑んだ。
やがて、もう貰えるビスケットが無いと分かると猫はクルリと向きを変えて公園の外へと歩いていった。
「ゲンキンな奴ですね。」
「自由なのよ」
耕太は、今夜の会話で詩織との距離がずいぶん近付いた事を確信していた。
(今日、本を届けて本当に良かったなぁ~。もっと小説の話をして話題を盛り上げなきゃ)
「恋愛小説なんかは、好きですか?」
耕太は恋愛小説の話を通じて、詩織と愛について語り合いたかった。
「恋愛小説って言えば、図書館で読もうと思ってるのにいつも貸出中の本があるんですよね……」
「えっ? 何ていう小説ですか?」
詩織は、その“大人気”でなかなか読む事の出来ない小説のタイトルを答えた。
「ああ、その本なら僕持ってますよ」
「本当ですか! もしよかったら、今度貸して下さい」
詩織は、嬉しそうに瞳を輝かせて耕太の方を見つめた。
「それじゃあ、今度ぜひ」
元々、他人とのコミュニケーションがあまりとくいでない耕太。それから一旦途切れた会話は続かず、詩織は“そろそろ行かないと”と、ベンチから腰を上げ家へ帰って行った。
独り残された耕太の寂しそうな背中を、月あかりがいつまでも照らしていた。
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