第4話

 四月八日二二時、十年ぶりに観測された鬼神による対鬼神戦から三時間経過していた。

 防災庁地下ブロックにある円形の部屋は壁が全面硝子張りで、差し込む光が一室をモノトーンに染め上げている。その逆光を背負う形で置かれた半円形の机の奥に並ぶ三脚の椅子に、男達がそれぞれ厳格な態度を崩さず腰掛けている。

 その内の一人、直属の上司にあたる防災庁長官が歯切れの悪い口調で問う。

「班長、この場には制服で来るよう伝えた筈だが」

「はい。ですから制服で来ました。まだ配属前なので」

 至極真面目に答えるのは鬼特対専従班班長の藤原うらら、その出で立ちは紺色の小学校の制服に赤いランドセルを背負うという場違い極めるものだ。その隣に立つ室長の藤原桜は黒のフォーマルな制服だから尚更ギャップがあり、うららの姿は場にそぐわない。身長差が約20センチもあるので、部外者が見れば授業参観としか思えない。

 二人は餓鬼の管理官として、件の戦闘についての質疑応答をする為に招集されていた。

 咳払いを一つ、それから口火を切ったのは統合幕僚長である。

「室長、今回の件は鬼特対の存在意義を問わねばならない。疑っている訳ではないが、報告書の記述に誤りはない……そう判断しても宜しいですか?」

「はい。疑問は承知していますが、想定外の事態はよくある事です」

「鬼神禍マニュアルはいつも役に立たねえですからね。ましてや相手は阿修羅です、餓鬼の眷属でも探知できないとなると私達ではお手上げですよ。今回は一杯食わされました」

 質問されてないのに勝手にあっけらかんと付け加えるうららに対し、防衛政策局長が血相を変えて立ち上がりかけたがギリギリで平静を保ち詰問する。

「終わった事は不問にするとして、ここからが本題だ。君達が推薦する餓鬼は、全世界で使用可能な熱核兵器の保有量に匹敵する程の核出力を持つ超反復発生巨大人型外来生物阿修羅に勝てるのかね?」

 荷電粒子砲による超遠距離射撃と体内放射による超広域絨毯爆破という一次災害、感染爆発的な鬼化現象による二次災害に鑑みて自我を持つCBRNE生物と言える。彼奴のヴィラニウム純粋鎧骨格の強度から逆算した結果、損傷を与えられる兵器はB-2戦略爆撃機に搭載可能なMOPⅡ大型地中貫通爆弾と、オハイオ級戦略原潜から発射可能な熱核弾道ミサイルだけとされている。

 しかし、阿修羅には常軌を逸した自己復元能力があるため死滅させる事は不可能だ。如何なる攻撃も休息を強いるだけで、損傷具合にもよるが暫くすれば活動を再開させるというのが有識者の見解である。阿修羅が不死身の完全生物と呼ばれる所以だ。

 だが、それでも生物である。同じ自然災害と区分しても地震や台風とは違う、ならば鬼神の力で駆除できる筈だ。

 桜は揺るぎない自信を込めて決然と返す。

「彼はダイダロスの歴史において史上初の餓鬼です。唯一無二の対鬼特化型殺戮器官、裏コードは最速の《蜻蛉》、鬼神化時におけるヴィラニウム187の超重元素で構成された純粋鎧骨格の硬度と靭性と融点は鬼界最高峰――偽物の神を封印できるのは、本物の神の化身だけです」

 続けてうららが熱っぽく確信に満ちた語気で補足する。

「みくちゃんは、たった十年で殺戮器官をレベル9まで上昇させた――鬼道5000年の中で、史上最年少世界最速記録を持つ鬼神です。これは断言できますけど、阿修羅なんかに負ける筈ありません、絶対にです」

 大半の鬼は六百年ほど闘争を求めレベル8で隠遁もしくは大往生する。掻取は、その六百年間を僅か十年で追い抜いたのだ。

 二人の静かなる熱意に気圧されたかのように黙る防衛政策局長に代わり、続きを防災庁長官が引き継ぐ。

「荒震神――殺戮と飢餓と血の化身、か。君達がそこまで言うなら、こちらも賭けてみよう。防災大臣と防衛大臣には私達から話を通しておく」

 そこで合成された投影映像がガシャンと途切れ、二人はグリーンバック一色のだだっ広い一室で肩の力を抜く。想定よりも詰問されなかったのは餓鬼が単独で夜叉を撃破できたからだろう。夜叉程度に敗北すれば阿修羅になど勝てっこないから。

 無礼な態度を取ったうららに釘を刺す。

「これからはあの人達と会話する機会も増える。子供だからと言って優しくされるのは最初の内だけだぞ」

「だって空爆なんてしてくるから」

 唇を尖らせるうららを窘める。

「だって、は大人の世界じゃ通用しない。いつまでも小学生気分でいられては困る。それに世間的には正体不明の鬼神が出現したんだ、自衛隊が見過ごす訳にはいくまい」

 鬼神が日本にしか出現しないから国連の多国籍軍は結成されず、島国たる日本から海外へ襲来する鬼神がいないからこそ諸外国は日本だけに被害と駆除責任を押しつけたい国際情勢がある。

 日本における鬼神対策限定とはいえ核使用許諾国際条約に政府は批准しており、十年前も与党幹事長が防災大臣を巻き込んで我が国での核保有に導く為の方便を弄した。それ故に鬼特対が最後の砦だ。

 が、阿修羅に関しては人類滅亡の危険性があるので米国も干渉して来る。大陸も口を挟む。危急存亡な状況において、政府としては核武装より効率が良い鬼神を『世界で唯一』戦力として秘密裏に保有している事実を他国に知られるのは不味い。バレると諸外国による鬼神争奪戦になり得る。

 人類救済の為、下手すると餓鬼を国連の共同管理下に置かれてしまう危険性がある。

 そうなれば非常任理事国たる日本は為す術もない。阿修羅は日本に潜伏しているにも関わらず、手を拱くしかない。

 だからと言って熱核兵器と同等の鬼神を軍事利用可能な疑似核保有国にはなりたくない、それが政府の本音だ。

 故に『素性不明の鬼神が勝手に阿修羅を駆逐しました』という風にするのが、日本政府にとって波風を立てず、穏便に世界を救う最善のシナリオなのだ。

「……まあ今回の事案はあいつの実力に疑念を持たれたから、食って掛かりたくなる気持ちは分からんでもないが」

「別にみくちゃんの事はどうでも良いんですよ。うららはただ……みぞ姉まで悪く言われるのが嫌なだけです。みぞ姉は……今までずっとひたむきに頑張ってきたんですから、その努力は報われるべき」

 柊の十年間を想い、遠い目をするうらら。二人は掻取と柊の十年を知ればこそ安易に疑念を呈されるとつい感情的になってしまう。

 鬼の関係において主と眷属は二人で一つの運命共同体だから。

 主の歯が眷属の首に触れる、その逆もまた然り。それは引き合う孤独の力、ならば誰がどうして奪えるものか。

「それにしても、みぞれもうららも昔から首ったけだな。あいつは女を駄目にする男だと思うがね」

「そ、そんなんじゃないですよ! みくちゃんは駄目な奴だから目をかけてやってるだけで、うららは別に……」

 狼狽するうららは頬を染めて肩を窄めるように俯くが、思慕の念に蓋をするように表情を吹き消す。

「みぞ姉は、管理者との対面が終わった後にみくちゃんと会うんですよね」

 MSウルトラ計画。

「上界の最重要機密プロジェクトだから情報漏洩を避ける為に眷属と言えども概要くらいしか知り得ないがな。内情を知るのは計画に加担する一部の神だけだ、我々も政府も核心については全く分からない。面談はあいつの為に用意されているようなものだ」

「みぞ姉もみくちゃんも背負うものが余りにも……大き過ぎる。どうせならロマンチックに再会させてあげたかったですよ、十年ぶりなのに」

 口惜しそうにぽつりと零すうららを窺う。無表情を覗き込んで、伏せた目蓋の裏にある大事なものを垣間見ようとする。

「……本当にそれで良いのか? あいつとは戸籍上では何ら問題はない。障害があるとすれば年齢だが、それは時間が解決する。後は気持ちが一方通行なくらいだろう」

 真意を探る母をちらっと上目遣いで見返し、それから逃げるように目を逸して大袈裟にこくりと頷く。

「うららよりも幸せになってくれる方が、遥かにずっと嬉しいですからね。みぞ姉が含羞みながら惚気話をしてくれるのが、待ち遠しいくらい」

 湿っぽい吐息混じりに語尾が震えた。伏せた瞼の端に浮かぶ雫が溢れ落ちないよう堪える。両手で胸を押さえる。一本角の偽装が解けてしまう。鬼は全てを隠す、だが心の揺らぎは秘めたままではいられなかった。

 まだ暫くはこの熱が残り続ける。割れ落ちた恋慕の欠片がいつ冷えて心の奥底に沈むかは分からないけれど、それでいい。今はまだ。

 たった十年、されど十年なのだから。

 娘のそれを見兼ねた母は、小さく丸い頭と角を労るように撫で続けた。


                  ⑨


「もしもーし、聞こえますか~。そろそろ空蝉をお救いするお話をさせて欲しいのですが~、おーい」

 何やら後頭部に柔い感触を覚え、次に微睡むような囁き声が耳に流れ込む。目蓋に風を感じ、人の呼気だと気付く。同時にほんのりと甘い赤ん坊のような匂いが鼻孔を擽る。心地よい睡眠を妨げられ、億劫げに目を開けた。

 鏡。

 垂れた目尻を縁取る睫毛も、絢爛に煌めく瞳も純銀を鋳溶かしたかのようだ。まるで鏡のような虹彩を、淡い七色の輝きが、水面のように揺蕩いながら静謐に彩る。鏡面のように全ての光を反射し、自らが放つ虹色の燐光に縁取られた瞳には瞳孔がなく、それ故に心の奥を一切覗かせない。

 まさしく神の眼。人ならざる目つき。

 ここに至り、どうやら自分はこの神に膝枕されているようだと気付く。

 が、豊満な膨らみが陰となって視界を遮り、天井がろくに見えない。

 ふくよかな双丘の向こう側で目が合ったのか、柳眉を持ち上げた。視線が交錯したのか判別もつかない。ぞっとするほど白い頬が綻ぶ。

「やっと起きました~。眷属ちゃんも大将軍も安静にしておけば問題ないと言っていたのに、ちっとも目覚めないから気付けに一杯やった方が良いのかな~なんて」

「えっと……すみません、これはどういう状況で?」

「全てご説明しますから、どうぞ御緩りとなさって」

 ひとまず起き上がり、居住まいを正す。そして部屋を見渡し絶句する。

 四方は壁に囲まれているが、壁と言っても板張りや石造りではない。瀟洒な木彫りの柱が等間隔に並び、それらの間に巨大な板硝子が嵌め込まれている。総硝子張りの窓の向こうには、月光を受けて青く輝く雲がぽっかりと浮かぶ。雲よりも高く存在するこの部屋は、もしや上界に住む神の私室なのだろうか。

 視線を上向けると、夜空の一角に浮かぶ青白い満月が冴え冴えとした光を降り注ぐ。その周囲を彩るのは静かに瞬く満天の星々。濃密な星空から視線を滑らせれば、部屋の反対側が視界に飛び込み唖然とする。

 和室の奥で竹製の樋を蕎麦が流れ、水流のせせらぎが聞こえる。かなり広い部屋の中で流し素麺ならぬ流し蕎麦をする頓狂さに驚く掻取を見て何を勘違いしたのか、神はすっと立ち上がり樋に歩み寄る。ここで初めて頭を梁にぶつけそうな程の長身である事に気付く。およそ190cm程か。

 嫋やかに箸で蕎麦を掴み、麺汁の注がれた器につけてしおらしく差し出してきた。身動ぎする度に腰まで届く艷やかな黒髪が風もないのにふわりと棚引いてから一筋に纏まって背中に流れる。

 ――何で蕎麦なんだ?

「鬼神化してエネルギーが不足しているでしょう。眷属ちゃんが摂食させれば良かったのだけれども、君がうんともすんとも言わないからぁ。さあ、ずずっと」

 ――俺が鬼神化できると知ってるのか。

 得も言われぬ圧を感じ、言われるがまま一杯啜って嚥下した。歯応えのある麺で、まあ美味い。傍にある卓袱台に器を置き一息つく。

 って、そうじゃなくて。

 膝まで晒し出す緋色の腰巻きに包まれた細い両脚を揃えて右に折り、凹凸に富む肢体の重心が傾くと左手を畳について支える姿は艶めかしく、右手を口許に持ち上げ小さな欠伸をする様は幼子のようでギャップが激しい。畳に流れる黒髪は薄闇の蒼と月光の白を映して冷たく煌めく。

 純銀の瞳に小ぶりな鼻で整った目鼻立ちは清らかな無垢さを漂わせるが、桜色のふっくらとした唇が形作る蕩けるような微笑は触れなば落ちん色気を醸す。

 少し開けた白い肌襦袢から覗くしっとりとした白い膨らみは目に毒で、危うく気を違えそうになる。そもそも薄物一枚というのは謂わば下着に近い服装なわけで、普通は肌襦袢の上に長襦袢を、腰巻きの上に裾除けを重ねて着るものだ。少なくとも恋仲でもない男に見せる服装ではない。

 ――毘沙もそうだけど、これが神の普段着なのか? 

 毘沙はともかく、水晶のように清純で蜂蜜のような色香を併せ持つ眼前の神では目のやりばに困る。

 にわかに騒ぎ出す心拍を悟らせぬよう、努めて冷静を装ったつもりだったが出た声は上擦り、口調もしどろもどろだった。

「俺は確か夜叉を倒して、その後……というか貴方は誰、なんですか? 何の用があって俺を介抱して、それで俺に何をやらせようとしてるんです?」

 神がわざわざ上界の私室に下界の者を入れるなんて余程の理由がある筈だ。例えば可及的速やかに解決せねばならない問題が神間条約に邪魔されて、仕方なく下界の者に頼らざるを得ないとか。

 それこそ鬼神の撃滅とか。毘沙から自分の事を聞き及んでいても不思議ではない。

 早口で問われても神は表情を変えず、お淑やかに答える。

「あらあら、いきなり核心を突きますね~。話が早く済む男は好きですよ。んーと、妾の名は天照大神。数少ない鬼神化できる鬼である君との対談をかねてより心待ちにしてまして、夜叉を撃破した腕前を見込んで是非とも阿修羅を封印して頂きたく――」

「え、ちょ、ちょっと待って下さい! は? 阿修羅が生きている……!?」

 あり得ない事実を聞いて頭が真っ白になる。ダイダロスの管理者たる天照大神と相見えているのも驚愕に値するが、それよりも聞き捨てならない名前が出てきた。

 あの阿修羅が今でも生きている、そんな筈はない。

 奴は十年前に鬼特対が殺害した筈――それすら欺瞞なのか。もはや何が正しい真実なのか分からない。何でそんな重大な、親の仇たる奴の存在を皆が自分に隠し続けてきたのか。もう復讐なんて叶わないと思っていたのに。

 あいつが、生きている。

 燃え盛る街の照り返しを一身に受ける巨体は、今も脳裏に焼きついている。

 途端にフラッシュバック。

 焼き尽くされた夜街に響く緊急避難警報、焼けた髪の臭い、火達磨になった女の爛れた口から迸る金切り声、水飲み場で力尽き譫言で助けを求める少女に火の手が迫り、

「――くん、餓鬼くん。お気を確かに」

 すっと血の気が引く。呼吸が浅くなり、胸が苦しい。気持ち悪い。視界に黒い靄が掛かり、急速に意識が遠のく。指先まで冷たく感じ、神経が凍りついたみたい。いつの間にか一気に体の力が抜け、無抵抗なまま重心が傾く。

 倒れる。

 何も分からない。

 一瞬だけ意識が飛ぶ。

 悲鳴を上げる余力さえなく黙って全身を炙られる少女を、ただ見ているしかなくて。

 敵意だけは一丁前で、無力に地獄を彷徨う亡者でしかなかった自分。

 本人ですら忘れていたPTSDで倒れる体を、天照が優しく受け止めた。薄布越しに蕩けるような柔らかさで掻取の頭を包み込むように抱いた。赤い角がぶつかるのも厭わず抱き止め、包容力の塊が柔らかく潰れて形を変えていく。否応なく花のような匂いを吸い込み、暖かい暗闇が視界を覆う。

 まさに花――甘い芳香と滴る蜜で虫や小鳥を惑わし花粉を運ばせる、魔性の大輪。

 耳許で、甘い吐息混じりの声が囁く。

「心中お察し致しますわ。ですが、これは君にしか出来ない、君が為すべき事なのです。君ならば【陽の胎動】に到達できるかもしれない」

 辛うじて強張った口を動かす。

「陽の、胎動……?」

「下界では鬼道3500年というのが通説ですが、実は5000年の歴史があります。英雄は、救世主の後追いでしかない。初めて阿修羅を撃退したのは救世主です。全ては英雄の沽券を守る為に英雄達が流したカバーストーリー。それは救世主に選定された鬼神が阿修羅と死闘を繰り広げてきた歴史であり、これまで五人の救世主が空蝉を護る為に命を賭して戦いましたが、誰も阿修羅を封印できませんでした。何故ならば歴代の救世主達の誰もが、第四の形態である【陽の胎動】に移行できなかったからです。しかし六人目の救世主ならば、餓鬼ならば、その前人未到の形態変化を遂げられるかもしれません」

 徐々に感覚が戻ってきたが、まだ起き上がれる程の力が出せない。

 そんな状態でも天照の言葉を脳内で反芻する。

 阿修羅、と、救世主。

「でも、今までの救世主達は皆、俺より強かった筈ですよね?」

「ええ、レベル11や12の者ばかりでしたわ」

 天照の胸に顔を埋めながら自嘲の笑みを零す。

 あり得ない。自分みたいな出来損ないが救世主だなんて、たまたま鬼神化できたに過ぎない。それも夜叉相手に苦戦していたのに、どうやって阿修羅を斃すと言うのか。絵空事の域を出ない。親の仇討ちなんて到底できそうにない。

 投げやり気味に言葉を放る。

「だったら俺みたいな低能じゃ無理ですよ。レベル1程度の俺如きが、他の救世主達が実現できなかった事を成し遂げるなんて……」

「君は鬼道5000年の歴史の中で、間違いなく最強無敵の鬼神です。これ程完璧な鬼神は他にいない。君は他の救世主達とは違う、荒魂と和魂が綺麗に融合した美しい色をしている。妾、こんな美麗で透き通った色は生まれて初めて見ました。君は泥の中で咲く蓮の花よ。私が保証します」

 変若水の中に一垂らしの甘露を滴らせたような誘惑的で艶めかしく熱を孕んだ声が、芳醇な酒の如く掻取の耳に流れ込んだ。それでも、と反駁しようとする掻取を労るようにゆっくりと抱き起こす。抱き止めた拍子にくしゃくしゃとなり、開けた広い襟ぐりから半ば以上露わになった膨らみが誘うように揺れた。

 ようやく意識がクリアになって、自分がどれほどの醜態を晒したか痛感した。バツが悪くなり慌てて胸から目を逸らすと、今度は七色を散りばめた銀の双眸と視線が絡む。超然とした微笑を浮かべながら得意げに言う。

「よろしい。では君が如何ほどの可能性を秘めているか、ご覧にいれましょう。どうぞこちらへ」

 真上から糸で引かれたようにすくっと立ち上がった天照が踵を返し、訳も分からず後を追う。

 窓枠とは打って変わり日本家屋さながらで天井が低く、長身の天照が生活するには窮屈そうである。それに二人が連なると身長差30cmで大人と子供のように見える。緋色の腰巻きに浮き上がる大ぶりな尻が歩む度に揺れ、その誘引力に抗おうと自制心を働かせる。すると邪な視線に気付いたのか、天照が窺うように振り返る。

「まだご気分が優れませんか?」

「いや、別に大丈夫……あ、前」

「へ?」

 慣れた手つきで障子襖を開けたが、そのまま直進して見事に頭を梁へ激突させた。ごつ、と鈍い音がした。

「あゔっ」

 衝撃でびくんと長身を跳ねさせたのも束の間、うぅと呻きながら跪く。子犬のようにぴくぴく震えている。ダイダロスを管理する神の姿か、これが。

「だ、大丈夫ですか?」

「ぐすん、まあ、これくらい何ともありません。妾、神様だから」

 そう言う割には涙目である。ぶつけた箇所を擦りながら隣室に足を踏み入れ、後に続く掻取の目前に押入れが立ち塞がる。

「本来ならばこれは神以外には見せてはいけない、そう神間条約に明記されていますが管理者である妾だけは例外なのです。無論、他言無用でお願いしますね」

 そう念押しして、押入れを開ける。

 天照の脇から内部を覗き込んだ掻取は固まる。

 押入れには寝具一式が仕舞われているだけで、他には何も置かれていない手狭な空間である。その奥で鯨が泳いでいた。

「え、と…………」

 何だこれは。

 二段に分かれた押入れには壁がなく、代わりに別次元へと繋がっている。

 神々が使う真っ赤な余剰次元(プランクブレーン)とも違う、生命のスープじみた青い空間が茫漠と広がっている。酷く透明度の高い海がどこまでも果てしなく満ち満ちて、太陽光が柔い光の柱となって空間全体が海底とは思えぬ程に明るい。遠近感が完全に狂っている海中で、もはや巨大に見えない二体の鬼神が死闘を演じている。強烈な光源を浴びているのか、逆光で真っ黒いシルエットにしか見えないが、それでも三面六臂の姿は見間違える筈もない。片方が阿修羅、ならもう一体は誰なのか。何で天照が見せたのか、その理由がよく分かった。あれは餓鬼だ、つまり掻取自身。その二体の激闘を回遊しながら見つめる白鯨は、大きな口から大量の泡を吐き出し続ける。要するにあの泡こそが、

「M.Tフィールド……」

「この虚数空間はアカシアの記録。天地開闢から現代に至るまで、ありとあらゆる世界の情報が収納されています。泡沫の一つ一つが掛け替えのない無限の記録……生命のスープが生み出した気泡は外界由来の鬼には作用しない。故に人間だけを領域外に転送する。…………始祖、夜叉、四鬼、光鬼、天狗――始祖を除く全ての救世主が今この場所で君と同じようにこの景色を見つめ、自己の初戦を客観視する事で救世主としての覚悟を決めました」

 六畳間の闇。押入れの奥に広がる虚数空間は、二人を海の底のような色に沈めている。互いの吐息すら聞こえる至近距離で見つめ合い、目を伏せたのは掻取の方だった。

 唐突に羅列される救世を賭けた歴史を前に、自信など持てる筈がない。覇気のない声で呟く。

「…………どうして俺なんですか?」

「そうね……、十年前の関東大鬼災では二次災害としての鬼化現象で二体もの鬼神が誕生しました。同時に複数の鬼神が生まれた史上初めての出来事……。ね、面白いとは思わない?」

 直後に憤激が脊髄を貫き、脳を焼き尽くす。激情のままに天照の胸倉を掴み、不躾に歯を剥いて怒鳴る。相手が管理者だろうが関係ない。

「何が面白いんだ? 人が死んでるんだぞッ!!」

 照らし出された二人の影絵じみたシルエットが重なる。急に激しい剣幕で詰め寄られても、天照は凄絶な微笑を崩さない。

「それが、君の可能性です」

「あ?」

「面識がなくても人の死を嘆き、たとえ敵であろうが鬼の顛末を憂う。それを実践できる者こそが救世主に相応しい。餓鬼くん、君だけが阿修羅を二度に渡り撃退してのけた唯一の個体なのですよ」

 試された事を悟り、毒気を抜かれたように手を放す。その拍子に二つの膨らみが熟れた果実のように柔らかく弾んだ。

「二度って……、そもそも俺は阿修羅と戦った覚えなんて……」

「一度目は関東大鬼災が起きた日、二度目は君が眷属を造った日、少し特殊な状況だったせいで前後の記憶を喪失してしまったようですね」

 点と点が線で繋がる。十年前に阿修羅が二度出現し、一度目は謎の鬼神が、二度目は鬼特対が対処した。そう聞き及んでいた事実が嘘で、真相は餓鬼が二度も阿修羅を撃退してのけた。あの最強の鬼神たる阿修羅を。

 そして眷属とは誰なのか、あの赤い角と目を思い出す。薄々そんな気はしていた。唯一無二とされる餓鬼に酷似した特徴を持つ鬼が新たに誕生するとは思えない。ならば誰かの眷属と捉えるのが妥当だ。

 大抵の鬼は六百年で生涯を終え、それまでは自己の為の生を全うする。故にわざわざ眷属を造る鬼は珍しい。だから掻取も眷属絡みの特性は伝聞でしか知らない。

 それは死した人間の蘇生、《世界修復機構・御来光》に依らない鬼だけが行使できる、鬼の手で殺害された人間相手でも効力を発揮する様は御業の如く。

 導き出した答えを力なく呟く。

「柊みぞれが、俺の眷属…………」

「……本来ならば関東大鬼災の折に推定157万6488人が虐殺されていた筈なのです。それを君が58万9288人に留めた。阿修羅を前に、他ならぬ君が踏ん張った結果です。眷属ちゃんにしても、君がいなければ今も生を享受できていません」

 教科書には載らない裏の歴史を明かされ、未知の可能性というやつを提示されても掻取は顔を逸らし悄然と吐き捨てる。

「それでも人を死なせてる……。柊だって、俺なんかが傍にいたから犠牲になった……。奴は、俺に報復する為に孤児院に現れた訳だ。千載一遇のチャンスだったのに、結局は阿修羅を仕留め損ねた。そもそも俺が救世主なら、何で父さんと母さんは死んだんだよ…………」

 悔恨の滲む声を拾い上げ、天照はふっと瞑目してから目蓋を持ち上げ、ひたと見据える。諭すような微笑へと変わる。

「この三千世界で生きとし生けるもの全てが、瞬間の中で息づいています。君が餓鬼として鬼神化した瞬間は、ご両親が死した後なのです。一生とは、瞬間の連続……さしもの妾ですら鬼に殺生された人間を生き返らせる事は叶いません。眷属ちゃんにしても同じ末路を辿る筈でした……、ですが君は妾にでさえ実現不可能な奇跡を起こしたのですよ」

「あくまで眷属の特性であって、他の鬼でもそれは可能ですよ。俺なんかが阿修羅を斃すなんて……無理だ。二度の戦闘中の間で見た事も聞いた事も一切覚えてないのに、出来る訳がない」

 懺悔するように食い縛った歯の間から声を絞り出した。

 自分が阿修羅を斃す姿なんて全く想像できない。むしろ過去の二戦で撃退した事の方が奇跡に等しい。信じ難い戦果だ。

 す、と天照の手が伸びた。白い掌がおとがいを持ち上げ、両手で掻取の顔を包み込んだ。穏やかな微笑を湛えた顔が間近に寄る。

「妾の目に狂いはありません」

 芯の通った声で囁くように告げる。無力感で硬直した全身からふっと力が抜けた。

「阿修羅は不死身の鬼神です、殺生はできません。故に封印の一手しか策はありません。それが出来るのは【陽の胎動】への形態変化の可能性と、捕食に適した特性を併せ持つ餓鬼だけです。決戦の際は妾も全力で援護致しますが、それでも君の闘争が決め手になる。その為の布石も既に打っています。この手は過去の救世主達では使えなかった一手、他の誰にも適用できない君の為に考案した作戦。この時代で阿修羅との決着をつけたいのです、世界の終焉を防ぐ為に。君にしか頼れない。どうかダイダロスを救って頂けませんか?」

 ここで初めて天照の甘い声が、ある種の感情を滲ませて微かに揺れた。

 それは懇願か、若しくは決意表明か。

 蠱惑的な語り口が蜜をたっぷりと含んだ果実から漂う芳香の如く、掻取の耳にとろりと流れ込んだ。

 天照の鏡面じみた瞳に、陶然とした表情の掻取が映り込む。

 まだ迷いはある。自分の能力に確信はない。それでも彼女の言葉だけは信じてみようと思う。少なくとも運命から逃げる気は毛頭ない。

 世界を救う為に、阿修羅に復讐を果たす為に。

 端から英雄になるつもりなんだ。救世主にもなれないで、英雄になんて成れる訳がない。

 彼女の声を聞くと、不思議と腹の底から力が湧いてきた気がする。

 やってやる。

 掻取は眦鋭く啖呵を切る。 

「やります。俺が、阿修羅を封印してみせます」

「その意義や良し。ですが、聞きなさい」

 掻取の頬を包む手が強張る。超然とした微笑みを残し、毅然と言い放つ。

「憎悪も大義も敵意も闘志も、それのみは何の力でもない。脆く崩れやすい、敵にとって与し易い感情に過ぎない。当惑は判断を鈍らせる。思想や力への過信が心に付け入る隙間を生む。意思のもとに行動する自身こそを信じなさい」

 ――意思のもとに。

 腹を括った掻取は頭の中で、その言葉を染み込ませるように反芻していた。


                  ⑨


 掻取を下界に返した後、天界の和室で独り蕎麦を啜る天照がいる。

 すとん、と襖を開けて部屋に入って来たのは毘沙門天である。

「負け犬気取りの小童では、神輿を担ぐのも一苦労かや?」

「そうね、アメノウズメの気持ちが少しだけ分かった気がするわ」

「お主の引き篭もり癖に比べりゃ、あやつのは可愛げがあるがの」

「まだ当て擦るのね。その節はどうも、妾が悪うございました」

 蕎麦を含んで膨れた頬をぷいっと背ける天照。あざとい仕草を見て意地悪くケラケラ笑う毘沙は隣で胡座を掻き、器を手にして蕎麦にありつく。暫しの間、二人の蕎麦を啜る音と水流のせせらぎだけが広すぎる和室に響く。

「で、お眼鏡に叶ったのか?」

「見込み通りね。救世主としては粗製だけど…………似ているわ。5000年前に一度だけ現れた始祖の救世主に」

「始まりの救世主じゃな。阿修羅が初めてダイダロスへの侵入を試みた時代に、たった一条の光波熱線で阿修羅を爆散せしめた。たった一度の戦闘で救世主の時代を切り拓いた巨人のプラズマ生命体」

 毘沙を顎を擦り、不服そうに首を捻る。

「しかしじゃのお……あやつは、歴代の救世主の中でも最弱じゃ。類を見ない程のな。活動制限時間は三分だけじゃし、他の奴等は五分は鬼神化できたと言うのに。絶命した訳でもないのにMTフィールドを自壊させてしまう体たらく、確かにあんな救世主は初めてじゃよ」

「人間というのは不思議なもので、最強で無敵の個人は応援してくれないのよ」

 天照は鏡の目で真理を見通すように夜空を漂う雲を眺める。

 意味を把握し、にやりと笑む毘沙。

「強きを貶し、弱きを嗤うか。人間の良くない所業を利用するのじゃな。それならあやつにも勝ち目はあるか」

「少しくらい弱点があった方が、可愛げがあって良いわ。人間も、餓鬼くんも」

 それに、と区切る。

「時代を切り拓いてきたのは英雄ではない。その期待が何百回裏切られようとも最後まで諦めず戦い続ける、その素質があれば十分よ」

「お主の趣味嗜好は知らん」

「大丈夫よ。万が一の時は私の弟が助けてくれるわ」

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直掩鬼神ヱールマン @kyugenshukyu9

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