第3話
「みくちゃん朝ですよー。早く起きないと入学式遅刻しちゃいますってー、起きろーあほ」
布団の中で熟睡する掻取の耳にソプラノ声が微かに届く。次いでカーテンを引き開ける音が続き、瞼の裏に光を感じる。だが少し身動ぎするだけ。
「その程度じゃ起きんじゃろうて。ここは儂に任せろ」
今度は嗄れた声が聞こえ、不穏さを察知し重い瞼を開ける。が、霞む視界の中で回避するのは不可能だった。とぅ! という掛け声を聞いた瞬間、
どん。
「ぐえぇ!」
突如として襲来した体重に潰され悶えながら目を覚ます。仰向けで寝ている掻取の腹部に重さと体温を感じる。宙に漂う埃が朝日の斜面で輝き、その只中で掻取に跨る神がいる。
毘沙門天、掻取みくりの守護神を務める武神である。英雄や鬼とも異なる、余剰次元(プランクブレーン)を行き来可能な超越者。不老で人智を越えた存在。
健康的な肌をした肢体を亜麻色の半襦袢と黒い腰巻きで包み、赤い帯をつける事でふくよかな腰を隠している。大きく豊かな胸が機能性を重視した素朴な生地一枚を押し上げ、惜しげもなく開いた広い襟ぐりから覗く胸元は暑いのか仄かに紅潮している。
「お主、寝坊とは良いご身分になったもんじゃな。儂はともかく、桜は大層おかんむりじゃ。絞殺されても知らんぞ」
物騒な事を言いながら毘沙は慣れた手つきで掻取の着るパジャマのボタンを外し、肌着をたくし上げ露わになる裸の上半身に指を這わせる。凄い雑に左胸付近を何度も擦り、その度に掻取の腰に跨る大ぶりな尻が小刻みに揺れる。
毎朝行われるこの作業、もとい尊厳破壊行為も慣れてしまえば欲情する道理など無くなる。もはや尻ではなく、でかい脂肪としか思えなくなる。実年齢は老人だし。
とはいえあくまで下界基準で見たらの話なので、上界では今まで数多の神達を骨の髄から虜にしてきたらしい。武を司り美まで手中に収める者だから今まで骨抜きにした神達は数知れず、でも比翼連理の相手がいるから玉砕した老若男女の神も数知れず。こんな奴と契りを交わすなんて酔狂な天女がいたものだ。
後頭部で結わえた濡れ羽色の黒髪から玉の簪を抜き去り、鋭利な先端を指先に刺し、滲み出た血が付着した簪の穂先を掻取の左胸――心臓部にあてがう。
「首を絞められた程度じゃ鬼は死なねえよ」
「おっと手が滑った」
「痛ってえ! 刺すな刺すな!」
「首と心臓を潰せば鬼は死ぬからのお」
悪びれもせずケタケタ笑いながら毘沙は作業を進める。洒落になってない軽口のせいで肝が冷える。
鬼は原理原則的に心臓と頚椎が弱点であり片方を損傷すれば行動不能となり、両方を負傷すると鬼特有の《殺戮器官》から成る能力が使用不可になり完全に無力化されてしまう。だが神の場合は話が別で、神がその手順を踏むと無力化どころではなく文字通り鬼を殺害できてしまえるのだ。
あくまで本来ならば、という枕詞が付くが。
どう足掻いても鬼を無力化させるに留まる英雄特有の救済器官、その完全上位機能こそが神特有の《救殺器官》である。生と死を司る故に神である、という理屈だ。そんな能力があるなら神が自分で鬼を駆逐すれば良いという話になるが、事はそう単純ではない。
この世界に鬼が誕生したのは紀元前1500年頃とされ、始祖の鬼は名を阿修羅と言う。人類は阿修羅に蹂躙され絶滅寸前にまで追い詰められたのだが、それを良しとしなかったのが上界に君臨していた神達だ。神達には太古の昔に制定された神間条約があり、そのせいで下界での救殺器官の使用は禁じられていた。神は掟を破れない。かと言って阿修羅の暴虐は見逃せない、なので対抗策として人間が潜在的に持つ救済器官を過剰活性化させて文字通り『英雄化』させる――その為に神達は下界に降臨した。
神は自己に似せて人間を造った、所詮は劣化コピーではあるが。
神達の加護を受けて英雄化した人間達は激戦の果てに阿修羅を撃退したものの、それ以降も人間達の中から鬼化する者が頻出した為、程なくして神達は下界に住み着いた。英雄は神を守護神として加護を享受し続けないと救済器官の活性化を維持できないからだ。
だが英雄では鬼の殺害――要するに絶対数の減少――が不可能なので神達は殺戮器官を持つ鬼に目をつけた。鬼化した者は英雄と殺戮の器官両方を保有し、鬼を殺傷可能な神達に近い性質を持つ。故に鬼は英雄とは違い、その身一つで敵性の鬼を抹殺できる。レベル差が大きい場合だと殺戮器官を使わずに鬼を殺せる。下界において鬼を殺せるのは同族の鬼だけ、それは神にも英雄にも通常の武器兵器でも不可能な芸当。つまり蛇の道は蛇、毒は毒を持って制するという訳だ。そういう意味では鬼こそが、人間よりも神に程近い生物と言える。
こうして英雄と鬼のイタチごっこを終焉に導く為に、神達は苦肉の策として鬼の守護神まで兼任するようになり現代に至る。
「それにしても、お主のステイタスは相変わらずシケた数値しか並んどらん。ちたぁ成長したらどうだ、このポンコツ」
「うるせえ。毎日見ても大して変わらんのは誰だってそうだろ」
「そう言い訳しながら十年経ってしまったがの」
うっ。
図星を突かれ押し黙る。そうこう言っている間に毘沙は血液を媒介にして掻取の仮想ウインドウを顕現させ、それぞれの項目に経験値を割り振っていく。救済器官と殺戮器官の維持だけではなく能力の向上まで行う、神達のみに許された御業だ。両器官は能力を行使する度に成長し、それを数値化できる情報に置き換え能力へ反映させる。アビリティアップ、能力向上。
「ほれ、お主の新しいステイタスじゃ」
掻取の腰からぴょんと降りた拍子に毘沙の豊満な胸が重量感たっぷりに揺れた。ベットから起き上がり真新しいスーツみたいな制服に着替えながら、仮想ウインドウを見やる。個人のステイタスを視認できるのは本人と加護を付与する神だけに限定される。
掻取みくり
陽Lv.1 救済器官:衝撃制御(ショックカノン)
陰Lv.1 殺戮器官:同化日食(ウルティマラティオ)
筋力:D621→D623 耐久:C701→C705 活性:C732→C733 敏捷:D613→D616 持久力:E528→E530
《スキル》
【 】
《鬼道》
【餓鬼:複製】
《裏コード》
【 】
ステイタスは基本アビリティの『筋力』『耐久』『活性』『敏捷』『持久力』の五つに分類され、更にA、B、C、D、E、F、G、H、I、Jの十段階で能力の高低を示す。
アルファベットに付随する数字は熟練度を意味し、999を上限値とする。それ以上の数値も存在するが、そこは神達の領域なので英雄や鬼が上限突破する事は不可能だ。
最も重要なのはLv.である。これが1上昇するだけで基本アビリティ補正以上の加護が付与される。Lv.1とLv.2の間には歴然たる差があり、レベルが一つ上の相手は格上とされる。つまりLv.1の英雄ではLv.2の鬼には絶対に勝てない。これを神達はレベル制の理不尽さと呼び、故にレベルアップした暁には赤飯だって炊く。基本アビリティのどれかが九段階目のBまで到達すればレベルアップ可能になるのだが、掻取は餓鬼となり毘沙門天を守護神としてから十年経過してもご覧の有様である。
「ありゃりゃ、何度見てもみくちゃんのステイタスはヘッポコですね。うららだったら恥ずかしくて暢気に寝坊なんかできませんよ、むしろ尊敬します」
「……みくちゃん言うな」
毎朝の恒例行事とはいえ痺れを切らした女の子が仮想ウインドウを覗き込んで失笑する。数値なんて見えやしないくせに断言しやがって。
「さっさと朝ご飯食べちゃって下さいよ、今日の皿洗い担当はうららなんですからね。うららまで遅刻の巻き添えは御免です」
枕元にある時計を見ると四月八日七時と表示されている。
藤原うらら、十年前からの同居人で義理の妹のような小学六年生の女児である。ウェーブのかかった桜色の髪を肩口に流し、後は片側だけのお団子に纏めている。実年齢より幼く見える童顔だが身長は163cmとギャップがあり、156cmの高校生で柔弱な相貌の掻取の方が下手すると年下に見えかねない。
赤いつぶらな瞳でジトッと掻取を見やり、桃色のエプロンを掛けた胸をぐっと逸して腰に手を当て盛大に見下ろす。紺色の制服の上から付けたエプロンを分かりやすく盛り上げる成熟途上の胸部を見て、「お義兄ちゃんは悪い男に目をつけられてないか」と慮る。まあ実際にやり合うとなればうららに敵う男など存在しないのだが、自分も含めて。
こんな容姿だから同級生にもモテると自慢された事はあるが、その割には彼氏はいない。いやまあ下手に男子と交際しようものならそいつを血祭りに上げるけどね、自分が。
うららもまた餓鬼たる掻取と同じ赤い目をしている。女だけが成る鬼、羅刹の証左である。因みに羅刹だけが角を物理的に隠せる唯一の鬼で、現に今もうららの頭頂部を見るが一本角は視認できない。むしろ掻取のように二本角で、しかも隠蔽できない鬼は珍しい。
「……お前、今日から鬼特対に出向じゃなかったっけ?」
「配属は明後日からなので、今はまだ小野府教育大学附属城北小学校六年A組の生徒です。残念でしたー」
べえーと舌を出し顰めっ面を見せつけ踵を返す。掻取も鞄を携え部屋から出て後を追い、階段を下りながら、
「俺が来ないからって不機嫌になるなよ」
「鬼特対の補充要員になれば高額のお給金とかセーフハウスだって貰えるのに、話を蹴る馬鹿が身近にいたら誰だって機嫌が悪くなるってもんです。何より世界一可愛い美少女と一緒に仕事ができるのに、です。自分の身の丈に合った仕事を選ばず、いつまでも阿呆みたいな夢を追いかけて人生を浪費する。六百年あるからって余裕ぶっこくとか性根がひん曲がっている証拠ですよ。うららが謙遜や卑下が嫌いだって知ってるくせに」
一階のリビングへ続く扉をうららが開け、掻取も後に続きながら口籠りつつ、
「だからそれは……うららの買い被りなんだよ。俺は、うららや桜さんみたいな天才とは違う。俺みたいな奴は凡夫っつーんだ」
「ほう。凡夫のくせにサボタージュとは良い度胸だな、馬鹿弟子」
反応できなかった。あっという間もなく飛んできた黒縄に拘束された掻取はリビングで腰縄を巻かれた被疑者の如く棒立ちになり、ソファに座る人物からの眼光を受けながら冷や汗を流しつつ言い淀む。
「入学式の日くらい……朝練はお休みしてもバチは当たらんでしょ。ほ、ほら、今日は鬼が史上初めて英雄養成機関に所属する記念すべき日ですよ」
「論点ずらし、低能の常套手段だな。お前はやれば出来る子だと思ってたんだがな……」
しみじみと潤んだ目で思いを馳せる妙齢の女性は言葉とは裏腹に黒縄を握る手を緩めず、黒いタイトスカートから伸びる、ストッキングに包まれたすらりとした脚を組んで諦観の表情を浮かべる。
藤原桜、うららの母親にして掻取の保護者たるその鬼は一転して紅く切れ長の瞳を鋭く細める。美人だから笑えば愛嬌があるのだが、むすっと押し黙るのが常なので初対面の人からすれば勿体ない美人である。掻取ほどの男ともなれば、美人を通り越して恐怖の権化だ。怖いチビりそう。
そんな事だから下心を持って近寄る異性は軒並み玉砕もとい粉砕される。
「お前はまだ若いんだから朝練を熟すくらい訳ないだろ。また弁明する気か?」
「なんか四十代の上司が言いそうな台詞っスね」
「歯を食い縛れ、スパークビームっ!」
張り上げた声とは裏腹に振り抜かれた拳はごすっと地味な音をを立て、掻取の腹にめり込んでいた。ちゃっかり黒縄の拘束を外してから下腹部に直撃させている。鬼の膂力は人間のそれを軽く凌駕する、今の拳打は全く見えなかった。
「……ぐふっ」
一瞬にして手放しかける意識を必死に手繰り寄せながら顔を上げると、桜はこめかみに青筋を立てながら凄んでみせる。
「ネオ超電導キックを喰らいたくなかったら、その口を閉じておけ」
「すみません、それだけは止めて下さい死んでしまいます。てか三十年前の必殺技を急に出すとかやはり年の差を感じ」
「私は今年で三十だ、まだ若いわっ!」
「六百年中の三十だから確かに若手っスね! 分かってますよ! お願いだから蹴らないで!」
うららに匹敵する羅刹に蹴撃されたらたまったもんじゃない。取り敢えず土下座して平謝りすると、桜は溜飲を下げるように黒い長髪を撫でつけカーキ色のソファに腰掛ける。手元の黒縄をくるくる巻き、本来は神達が上界と下界の移動用に使う余剰次元(プランクブレーン)を開いて黒縄をそこに放り込み格納する。黒縄は桜の救済器官の代名詞であり、あれに拘束されると神ですら為す術もない。まさに無敵の救済器官、そんなもんで愛弟子を縛るなよ。
実年齢より五歳は若く見える美貌を満足そうに破顔させ、しみじみと呟く。
「やはり電光超人は良いよなあ。まさに時代を象徴する作品だよ」
平日の朝から特撮ヒーロー番組ネタを披露する師弟の姿がそこにはあった。これが師弟愛ですか、絶対違う。
「いつまでコントやってんですか。全く世話の焼ける……さっさと食え」
顔を上げた掻取の口に苺ジャム塗れの食パンが突っ込まれる。
「ん、んもうっ」
「ほら、あーんして。良い子だから。ね? 餓鬼なら食ってみせろ」
膝立ちの高校生男児をあやしながら強引に朝食を嚥下させる小学生女児の姿がそこにはあった。これもう母娘によるDVだろ。
「お主、もはや犬畜生以下の扱いじゃな」
遅れて二階から下りてきた毘沙が185cmの長身を屈ませながらドア枠を通り抜け、憐憫の視線を注ぐ。呆れ気味に腕を組み、寄せた胸の双丘が谷間を作る。
「叶わない夢を見てるアンポンタンには躾が必要なんですよ」
「好きな事やれって、うららも言われてきただろ」
「それは……そうですけど、あくまで現実の範囲での話です」
あまりの頑固さに閉口したうららは自分の母親に水を向ける。
桜はソファの背もたれに180cmの身を預け両手を組んで上体を伸ばし、小気味良い骨の音がぱきぱきと聞こえる。カッターシャツを押し上げる果実はたたわに実り、滴るばかりの甘さに身を重くして今にもボタンを弾き飛ばしそうだ。とても経産婦には見えない。
「お前みたいな首輪付きでも英雄職に就く事は、不可能ではない。ただ本気で英雄になりたいのだったら進学すべきじゃない」
「その方法じゃ正体を隠しながら職務を遂行する事になる。それで英雄になったとは言えないっスよ」
資本主義社会の潮流に乗って尊称から職業へと変遷を遂げた英雄は、今や国内だけで285万人規模の一大職業となり、約15万体の鬼に対し飽和状態にあるのが現状だ。
鬼は英雄になれない、建前上はそういう社会通念になっている。だから秘密裏に政府から英雄許可証を交付された上で変装し、民間人に正体を隠しながらの英雄業務なら可能という暗黙の了解がある。その場合は事務所所属ではなくフリーの英雄となるので、社会的な信用度は低くなる。正体不明の覆面ヒーロー、十年前まで藤原桜はそうして英雄職に就き仕事をしていた過去を持つ。
でもそれは人間を騙しながら活動するという詐欺だ。もし正体がバレた場合の社会的な制裁は避けられない。そんな鬼は捕まってない詐欺師と同類だ。
「だから俺は鬼特対の即応予備防災官にはならない。そんなの英雄とは真逆の立場だからな。俺は、英雄になるんだ」
そう意気込んで言い切る。
防災庁の鬼神禍特設対策室専従執行班、通称は鬼特対専従班。構成員は鬼特対の双頭たる藤原親子を含めた九名で、羅刹のみで編成された対鬼神戦に特化した専従組織。鬼神に対処できるのは同じ力を持つ鬼神だけという常識を容易に覆す専門家集団、日本政府が擁する世界最強の対鬼執行班。何故に世界最強と謳われるか、それは単独で鬼神を殺傷できる事が参入条件と設定されているからだ。
そんな世界一有名な部署が特例として餓鬼である掻取を班に編入したいと申し出た。器官がLv.1の十代の鬼を青田買いしようとするなど異例の決断で無論、防災大臣のお墨付きである。
まさに青天の霹靂。霞が関の役人になり、女性だけの班に男一人でハーレム三昧。任務内容を加味しての超高給取り、聞けば最近になって掻取と同年代の女子も加入したそうだ。もはや一攫千金と一攫美少女も夢ではない――こんな幸運をみすみす手放す男は大馬鹿ものだろう。人生を棒に振る愚行だ。
だけど、それは掻取みくりの夢ではない。
――英雄に、俺はなる。誰に何と言われようとも。
誰かに尊敬される、そんな英雄に。
「それじゃ学校、行って来る」
有無を言わせぬ勢いで立ち上がり鞄を拾い、リビングを通り抜け隣の和室に入る。仏壇の前に敷かれた座布団に正座し、ライターで蝋燭に火を点け線香をあげ、撥で鈴をちーんと鳴らす。金属の残響を聞きながら瞑目し合掌する。蝋燭の火を消し、立て掛けられた両親の写真を見る。
哀切を帯びた声を落とす。
「父さん、母さん、俺……高校生になったよ。ごめんな、仇を討てなくて。でも、だからこそ英雄になって鬼の手から人間を護ってみせるからさ。見守っててくれよ」
当時の記憶は酷く曖昧で、阿修羅を目撃したまでは覚えている。それ以降は覚えがなく、気付いた時には病院のベッドの上だった。阿修羅は鬼災の中で誕生した謎の鬼神によって撃退された。関東大鬼災の折に復讐を果たせぬまま何故か自分だけが生き残り、一時的に鬼災孤児院へ入所していた。
そして十年前のあの日、孤児院に再び現れた阿修羅は鬼特対の全戦力を持って駆除されたと聞いている。これは教科書には載らない裏の歴史だ。掻取はその間気絶していた為に鬼特対による世紀の激戦を見届ける事も出来ず、仇討ちの機会を永遠に失くした。
別の写真立てに飾られたもう一人に目線を移す。純白の幼気な美貌に皮肉げな微笑を湛えた少女が映っている。
十年前のあの日、掻取を庇い眼前で死んだ少女、柊みぞれ。
「俺、あの時よりは強くなれた気がするからさ。もう同じ過ちは繰り返さない」
決意を新たに立ち上がった掻取は鞄を引っ提げ、玄関で靴を履き家を出る。
何か言いたげなうららの複雑そうな表情だけが、脳裏に貼り付いて離れなかった。
⑨
「だから言っただろう、今更説得しても意味はないと」
「でもっ……納得できません。せっかく一緒になれると思ったのに……じゃなくて、ようやく正当に評価される場所が用意されたのに、あのおたんこなすときたら。みくちゃんはうららよりも遥かに強いのに、弱い英雄予備軍扱いに甘んじるなんて。青柳高校の人間如きじゃみくちゃんの実力なんて理解できる訳がない。鬼を見る目がない連中ですよ。たかがLv.5の英雄を辛うじて輩出するしか能のない学校程度では、みくちゃんは規格外すぎます」
「儂が今更言うのもなんじゃが、ちと過保護じゃねえかや」
「あの自己否定マンには、これくらいの扱いが妥当なんですよ」
「いくら何でも肩を持ち過ぎな気がするがのお。まあお嬢は昔から『みくちゃんのお嫁さんになってあげる』と告白して憚らんから、さもありなん」
「なっ、それは昔の話です! 誰があんなのと……っ、今は違いますからね!」
不意打ちに頬を赤らめるうららは、動揺のあまり偽装が解けて桜色の髪を掻き分ける赤い一本角が露わになってしまう。卓越した技量を持つ羅刹の偽装が解除される状況なんて滅多にないのだが。
ともあれ小野府ヤナギ市スズリ町青柳高等学校は全国有数の英雄養成機関であり、国内において唯一レベル5以上の英雄を輩出した実績を持つ。うららからすれば、たかがレベル5ではあるが。
「奴が六人目の救世主として阿修羅を斃しさえすれば、高校生だろうが問題はない。あくまでも使命を全うさせるのが最優先だ。万が一に備えて護衛も手配している。想定外の事態が起きても杞憂に終わるさ」
現代において英雄の六割は未だLv.1で燻り、残りの三割はLv.2から壁を越えられず、後の一割だけがLv.3以上の救済器官を有している。そしてここからが本題だが、大半の鬼はLv.5以上の殺戮器官を用い食人の限りを尽くしている。
たがか数字が増えるだけで覆せない程の絶対的な差がつく、それがレベル制の残酷さ。しかも鬼は両器官、単純に二つの能力を使えるので端から単一能力しか持たない英雄は不利な戦況にある。
英雄と鬼が到達し得る上限レベルは12、前人未到の領域である。かくいう藤原親子ですらLv.11であり、故に二人は鬼特対の最終防衛ラインと目されている。歴史上類を見ない程に極まった対鬼戦力の世界最高峰。
二人の会話に茶々を入れつつ毘沙は嘆息し、仮想ウインドウを呼び出して掻取のステイタスを閲覧する。表示するだけなら当人の肉体は必要ない。
鬼は全てを隠す、それはステイタスも例外ではない。
偽装を解く。掻取にとって真のステイタスが露わになる。
掻取みくり
陽Lv.1 救済器官:衝撃制御(ショックカノン)
陰Lv.9 殺戮器官:同化日食(ウルティマラティオ)
筋力:SSS1344 耐久:SSSS2222 活性:SSSS3025 敏捷:SSSS2206 持久力:S1067
《スキル》
【輪廻転生(ルフラン)】
・歴代同化者の殺戮器官を併用可能。
・絆(おもい)を対話させる事で能力発動。
・絆(おもい)を同調させる事で効果向上。
《鬼道》
【餓鬼:複製】→全権委任コード発動時【餓鬼:始祖】
《裏コード》
【禍神虫:蜻蛉】
規格外である。
通常ならば基本アビリティの数値は上限突破せず、獲得しているスキルも唯一無二の所謂レアスキルとはならず、阿修羅は例外として普通の鬼は絶対に始祖には変わらず、形態変化の裏コード持ちの鬼なんて阿修羅だけの筈である。それらは神の領域にあるステイタス概要に他ならない。
もし一つだけ例外があるとすれば、それは神と融合した鬼が存在した場合に限る。
人間と融合し鬼と成る、それが神間条約の抜け道。レベル13以上がデフォである救殺器官を使えぬ神が、下界で救世の刃となる唯一の方法。
掻取の救済器官とは融合した神の特性から漏れ出たお零れの産物であり、神の傑物した才覚を凝縮した救殺器官から絞り出された力の残滓なのだ。要するに出涸らしの才能である。
英雄としての適性は著しく低い。低能と言わざるを得ない。
鬼としての適性は著しく高い。鬼才と言わざるを得ない。
「意地でも英雄になる気はないか、スサノオ」
そう零し、毘沙門天は掻取の能力に対し感慨に耽る。
余り物とはいえ神の化身である以上、その救済器官は他とは一線を画す尋常ならざる代物だ。Lv.1という表記は嘘ではないが真実には程遠い。十年ぶりに再び鬼神化し餓鬼として覚醒できれば、擬似的にLv.9相当の威力を発揮できる筈だ。だがそれでも、掻取の救済器官が付属品である事実は変わらない。
「救世の刃になる為とはいえ、人間も鬼も有象無象の区別なく虐殺できる天賦の才を授かった……そう教えたところであやつは喜ばんわな」
⑨
「諦めが悪い男は嫌われるぞ、クソ童貞野郎」
頬を殴られ硬く冷たい路面に転がるのも五度目だった。通学に使うバス停で待っていたのが運の尽きで、無理やり細い路地に連れ込まれた矢先に顔面を殴打された。口腔が切れて血の味がする。腫れた頬を片手で擦りながら室外機に掴まって立ち上がり、相手を見上げる。
爽やかなツーブロックに黒いブレザーの上からでも分かる大柄の筋肉質な体で威圧してくる男、近松中学校の同級生である遠藤だ。着ている制服は掻取と同じ物で、青柳高校の入学生である事を示す。身長差も相まって絵に描いたようないじめの構図である。
「まだ歯向かうのかよ。お前、そんなに殴られるのが好きなのか? 本当に諦めが悪いな」
「それが取り柄なんでね」
五度も無様に地面を舐めたくせに性懲りもなく立ち向かう掻取が気に食わなかったのだろう、遠藤は眉間に皺を寄せる。
「補欠合格者のお前が俺に敵うと思ってんのか。万年Fランクの雑魚がよ。鬼の分際で英雄になろうなんざ調子こいてんじゃねえぞ」
当てずっぽうで罵っただけだろうが、見事に図星を突いている。掻取は入試の実技時にやらかしたせいで不合格になっている筈だった。だが入試後に入学辞退を申し出た受験生がいたからギリギリ滑り込みで入学が決まった。
遠藤にボコられるのは中学時代の頃からの日常で、でもまさか入学初日のバス停で出くわすとは思わなかった。こんな奴でも一応英雄志望で、しかもEランク帯レベル3の実力者だ。全体の一割に属する秀才。
明日から別のバス停で待とう、そう思いつつ切れた唇を舐める。
別に負傷は鬼の自己復元能力ですぐ治るし、痛覚も鈍麻しているから見た目ほどではない。羅刹の鉄拳に比べれば人間の拳など些事に過ぎず、その程度で済ませるのが掻取の救済器官の特性だから。だからなのか昔から掻取の戦術プランには耐久の二文字しかなく、回避がない。そろそろ耐久でレベルアップしても良いくらいフルボッコにされた中学三年間がある。
「ねえ、もう行こうよ。入学式に遅れちゃう」
遠藤の背後で外壁に凭れ掛かり慣れたようにスマホを操作する女子が黒々とアイラインを入れた目で掻取を見て、大粒のラメが光る唇に冷笑を形作りながらシャッターを切る。黒いセーラー服の丈の短いスカートを揺らしながら嬉々と写真を加工する。中学時代から遠藤の彼女である新条だ。遠藤がボコり新条が撮る、その惨めな写真を拡散して標的を孤立させる事で更にいじめやすい環境を作る。掻取に対し中学時代の再演を高校でもやる魂胆だろう。
こんな二人でも人々を鬼から護るという高邁な精神がある筈、さしずめ掻取への凌辱は予行練習か。悲しいかな、大多数の人間は鬼を絶対悪だと確信しているし鬼に対する如何なる暴挙も正義執行だと黙認している節がある。それが鬼道3500年の歴史だ。
別に孤立するのは鬼だから慣れているし、雑魚なのは承知しているからこの際それはいい。問題なのはバスに乗り遅れて入学式に遅刻する事だ。こればっかりは後々の内申点に響きかねない。
どう切り抜けたものか。
「分かってるよ。それじゃ最後にもう一発」
不服そうに掻取の胸倉を掴み拳を振り上げる。別に躱せる動作だったがこれで終いならあと一発くらいは我慢しようと諦めた。負け犬根性極まれり。
拳が掻取の左頬を抉った。頬の内側に歯が食い込み、唇が引き攣る感覚を味わう。背中から路面に落ちた掻取は一瞬息が詰まり、空気を求め喘ぎながら大通りへ立ち去っていく二人を眺めていた。
「じゃあな、首輪付き。愉しい学校生活にしようぜ」
哄笑と含み笑いの声が朝の喧騒に紛れてから、汚れた服を手で払いつつ立ち上がる。
首輪とは、人口密集地で暮らす鬼に装着が義務付けられたSSSチョーカーである。殺戮抑制首枷には動体検知機能、人感センサーやボディカメラ等が内蔵されており、装着者たる鬼の行動を常に監視している。本来は脳波を解析し鬼による殺戮器官の行使を抑止する物だがエアバック的な加速度センサーも含んでいるので、人間に対する過剰防衛を検知すれば首輪型爆弾と化す事で鬼の首を吹き飛ばして即時無力化させる機能も併せ持つ。要するに鬼をサンドバッグにする代物だ。これが嫌なら人里離れた山奥で生活するしかない。因みに鬼特対の面々は任務の性質を考慮し特例で首枷の装着義務を免除されている。
「同じバスに乗りたくねえな……」
仕方ない。
頭上を見て、細い路地を挟む両側の壁を確認してから首を廻らし他人の目がないか再確認。十二メートルくらい、よし。
「よっと」
両側の壁に向かって三角跳びの要領で跳び上がり、木の葉のように屋上へ。この程度の高さならば救済器官を使うまでもなく鬼の膂力で跳べる。屋上から遠間に見える駅の位置を再確認、鬼は目も良い。
助走をつけて屋上の端から跳ぶ。風を切り、耳元で空気が唸る。心臓が縮み上がるような浮遊感を伴い鼻先に空気の壁を感じ、真下に路地が見えたのも一瞬で次の瞬間には先の建物の屋上すら跳び越えて、もう一つ次の屋上にある給水塔の天辺に着地した。
そこで足を撓め跳躍力を溜める。足元を踏み砕かんばかりの勢いでぐっと踏み込む。転瞬、綺麗な放物線を描いて空中に身を躍らせ風圧に包まれる。跳び過ぎたかもしれない。
⑨
「それでは新入生代表の挨拶とさせて頂きます。代表者は登壇して下さい」
あの後、電車に乗ってぎりぎり遅刻を免れた掻取は今や青柳高校の広々とした体育館で執り行われる入学式に出席していた。掻取は前めの方に着席しながら心ここにあらずといった風情で鬱屈とした溜息を漏らす。
――分かっていた事とはいえ、また屈辱の日々を過ごす羽目になるか。
中学三年間でプライドがずたずたに引き裂かれたと言っても、不平不満が消える訳ではない。ちっぽけだが矜持はあるのだから。
どうしたものか。どう足掻いても鬼たる自分の方から手は出せない。脳内で検討を重ねていると、視界の端で映る色があった。
白。とても見覚えのある純白だった。
「嘘だろ……!?」
周りの反応も気にせず立ち上がる。ただでさえ鬼という身分で悪目立ちしているのに、四方八方から刺してくる視線は眼中になかった。ただ一点、壇上に登り今まさに新入生首席としての挨拶を始めようとしている人物にだけ目が釘付けになる。遠目からでも仔細に見える、いや仔細に覚えている。
髪も肌も睫毛も白く映え、雪化粧したような顔貌も当時のまま。あの頃よりも大人びて、可憐さが凄絶な雰囲気へと昇華されている。身に纏う漆黒のセーラー服と相まって、赤いリボンを除けば完全に純色の白と黒だけ。陰陽太極図と同じ色。誰もが目を奪われる美人へと成長していた。
が、致命的に相違する部分が二箇所。
絹糸のような白い長髪を掻き分けてそそり立つ、一対の赤い角。
澄んだ青空じみた淡青色の吊り上がった瞳は、酸素を含む血液のような鮮紅色に変貌していた。
餓鬼である掻取と全く同じ要素を姿形に反映させている。世界で唯一無二の存在だと教えられていた餓鬼の、二体目の個体がそこにいた。
死人が生き返った、そうとしか思えなかった。
死んだ筈の亡霊を見る目つきで、あまりの驚愕に打ちのめされて掻取は立ち尽くす。
新入生総勢五百名の複雑な視線を物ともせず、気丈な面持ちのまま鬼の目で体育館を見渡しながら、まるで故人のような色の薄い唇を開け、あの頃と同じ鈴のように澄んだ声を響かせた。
「新入生代表、柊みぞれです」
⑨
同時刻、青柳高校と同じスズリ町に存在する、とある廃墟の吹き抜けとなった一室で密談が行われていた。
そこは関東大鬼災の跡地、つまりグラウンドゼロである。
この世界ダイダロスは上界に君臨し管理者と呼ばれる神、天照大神が持つ《世界修復機構・御来光》によって如何なる現象も修繕される。それは有機物と無機物問わず、要するに人間だけはいくら死滅しても日の出のタイミングで蘇生される。ただ一種の生物たる鬼だけを除き。人間だけが神を信じるから。
災害や事故や事件によって死亡した人間ならば無条件で蘇生されるが、鬼の手で殺害された者は生き返らない。例えば建物の崩落に巻き込まれた人間は蘇生されるが、鬼の火炎放射によって死んだ人間は蘇生不可能になる。
鬼が人間から忌避される理由の一つがこれだ。普通に生活していれば死んでも大丈夫なのに鬼が絡むと不死性を喪失してしまう。
即ち鬼とは世界を侵食するウイルスであり、さしづめ英雄はセキュリティソフトなのだ。
本来ならばこの廃墟だって十年前の時点で修繕されているのだが、阿修羅の血液が付着した為今でも当時のまま崩落寸前になっている。世の理に反する鬼神の始祖、それが阿修羅。
超レアスキルの不老不死(アムリタ)とレベル99の救殺器官:三面六臂(シャチー)、禍神虫:蠅の裏コードを併せ持つ偽りの神。
そんな阿修羅が今、身長200cmの非戦闘形態で煤けた床に立ち、傍らに女を侍らせながら取引を行っている。縁なし眼鏡を掛けてエリート社員じみた阿修羅に対し、取引相手は薄汚れたフード付きの外套を羽織って穴だらけの壁や天井から差し込む日光を避けるように立つ。
夜叉が枯れ木みたいな手で掴み頬張っているのは人間の腕だった。無理やり引き千切ったような断面から骨が露出し、まだ新鮮な血液を床に滴らせながらフライドチキンの如く平らげる。
「んぐ……、はぁ。餓鬼、か。そいつを殺せば俺の願いを叶えてくれんのか?」
「無論だ。神に誓って嘘はつかない。鬼に二言はないさ」
「わざわざ俺に頼むなんざ、その餓鬼って奴はそんなに強えのか?」
「まさか。路傍の石にも満たない矮小で愚鈍な小物だよ。ただ鬼神化されると、君にとっても厄介な存在にはなるだろう」
「なるほどな、そんな手合いならば相手にとって不足なしだ」
取引成立、血で汚れた口を拭いもせず夜叉は忽然と姿を消した。闇に紛れ影に潜み夜に生きる鬼、それが夜叉。
隙間風の音だけが聞こえる寂れた室内で、阿修羅にしなだれる女が蠱惑的に囁く。天女、鈴鹿御前。
「良いの? あんな粗製じゃあ餓鬼を始末できないんじゃない?」
「もちろん期待なんかしてないさ。奴は捨て石、夜叉をけしかけられた餓鬼の眷属がどんなリアクションをするか見物したい。あれは面白い女だからね」
「ふーん。あの娘の話をしてる時の貴方って、私とのお喋りよりも楽しそうにしてる」
「そうかい? 鈴鹿とは親密な仲だから、つい気怠けに話してしまうんだ。楽しいではなく、癒やされる」
そう宥めつつ片手で鈴鹿の肩を抱きながら手の甲を撫で、廃墟には場違いな十二単で着飾る腕を辿り、ほっそりとしたうなじをなぞると擽ったそうに身動ぎする。そのまま首から鎖骨へと指を滑らせ、素肌を撫で回しながら狭い襟ぐりへ掌を這わせていく。思わず「んぅ」と鳴く鈴鹿の反応に気を良くしつつ、単衣に包まれる胸元をまさぐり、目当ての圧倒的質量を誇る果実の流美な輪郭を確かめながら弾力を堪能すべく揉みしだく。168cmの肢体は流麗な凹凸で阿修羅を魅了し続けている。
「や、だめ」
「もう270年も一緒にいるのに、鈴鹿はずっと初心だね」
そして果実の頂点周りを撫で擦り焦らし、弾む吐息の間隙を突くように摘む。
「ぁ……んっ」
優美に踏みしだく緋袴越しに焦れったく擦り合わせていた脚をきゅっと閉じ、へたり込みそうになる体を支えられる。
「鈴鹿はここ、好きだよね」
「こんなに何度も触られてたら、多少は敏感になるわよ……っ」
喘ぎ声を堪える鈴鹿は話を戻す。
「あの娘の出方によっては、スサノオが出張る危険性が浮上してくるわ」
「そうなったとしても今度は確実に潰すだけさ。どうせ誰であろうと僕の救殺器官を攻略するなんて絶対に不可能だから」
我が物顔で下界に君臨する偽りの神たる阿修羅の不敵な忍び笑いだけが、打ち捨てられた廃墟に響いた。
⑨
「愉しい学校生活にしようぜ、とは言ったが……お前はいつも俺の期待に応えてくれるよ、なっ!」
落日直前の空が茜色と紫色に染まる頃、高校の中庭を彩る円形噴水のヘリに向かって背中を強かに打ちつけた掻取は悶えて蹲る。腹を蹴飛ばした遠藤が満足そうに脚を下ろし、その隣でスマホを構えた新条が醜態を撮影するシャッター音が響く。
――何やってんだろ、俺。
衝撃の入学式が終わり次第すぐに柊の元へ急行したかったが、掻取とは別クラスだった。青柳高校は一学年十クラスありレベルによって分かれ、掻取のようなFランク帯は当然J組だ。それで柊はと言うと特別棟に行く姿までは目撃したからA組、つまりレベル4以上の才女である。若干十代でそんな鬼ともなれば鬼特対にスカウトされても不思議ではない傑物っぷりだ。
そんな彼女が何故わざわざ英雄養成機関に入学するのか。そもそも何故生きているのか、何故鬼になってしまったのか、質問したい事は山程あった。なのにHR終了直後にダッシュで特別棟にあるA組の教室まで赴いた時には柊の姿はなかった。まるで逃げるように下校したと思う程の入れ違い。
困惑を引き摺ったまま学校中を当てもなく探し回り、気付けば夕刻を過ぎていた。
ずっと胸中で疑心が募っていた。疑心、それは桜やうららや毘沙に対してだ。あの三人が柊の近況を知らぬ訳があるまい。餓鬼の傍にいた少女なのだから。だとすると死亡届すら欺瞞という理屈になる。何で柊の生存を隠す必要があるのか、自分にバレるとマズイ事情でもあるのか。身内相手に疑心暗鬼になるのは御免だ。
そんな事情などお構いなしに中庭で掻取を嬲る遠藤と新条を止める生徒などおらず、中庭に面した渡り廊下を疎らに行き交う生徒どころか教師ですら見て見ぬ振りで足早に通り過ぎていく。これが人間同士の揉め事だったら黙殺される事などあり得なかったのに。
英雄養成機関において鬼は聖域を侵す闖入者でしかない。
「おい、鬼のくせに痛がってンじゃねぇぞ。雑魚がクセえ芝居なんかしやがって。お? 役者志望かテメエは」
「ちょ、やめなって。こんな奴と一緒にされる他の人が可哀想。まあ精々ヤラレ役には向いてるんじゃない、もちろん最後は派手に爆殺されるやつね」
遠藤がしらっとした目つきで見下ろし、一方で新条は自分の言葉でウケて腹を抱え爆笑している。
――こんな姿、柊には見せられないな。
十年前に偉そうな態度を取っていた自分を思い出し、今と比較して自嘲しながら呼吸を整えた。
夕日が残照を放ち、名残り惜しそうに地平線へ沈み、その時だった。
閃光と響音が、世界を激変させた。
背後で弾けた閃光を浴びて、地面に投げ掛けられた自分の影を見下しながら、それの正体を知る掻取の背筋に凍るような怖気が走る。
あまりにも距離が近すぎる。音からして数百メートル先に、そいつがいる。
意を決して振り返った。
果たして、奴は夜が来るのを待っていたのだ。
高校の敷地内を囲む防風林の先に聳えるビル群の狭間から、そいつは姿を現した。両脇に立つ二棟のビルを両手で引っ掛け、破砕した外壁と窓硝子を気にも留めず時速13キロ程度の緩慢かつ重量感のある歩調で進み出た。
丸みが一切ない直線的かつ無機的でありながら有機的でもある体躯が、そこにいる。
白亜の結晶質石灰岩じみた外観が、宵闇迫る街中で存在感を放つ。一際目を引くのは頭部で、三日月のような孤を描く巨大な刃の下で比して小さい口を開き野蛮な歯並びを晒している。当然、目も耳もない。その長大で分厚い頭(やいば)を支える胴体と四本の後肢は細長く、鋭角的なシルエットながら体格のあべこべさを象徴する。全高で見れば80メートルはある。剥き出しの脊椎じみた背中の先に伸びる長い尻尾はそれ自体が刃物の如き形状で、ビル風に冷える刀身を宙で遊ばせ決して地に下ろさない。全長は120メートルを優に超える。
全体的に蟷螂に似た細身のシルエットだが、一対の前肢は刃とは真逆だ。右は大鎚、左は小槌そっくりの形状で柄を腕代わりにして胴体からそのまま生えている。
刀鍛冶が使う道具を携えた刃の鬼神――夜叉。
記録上では阿修羅以外で唯一鬼神化が確認された鬼。
そいつが重心を下げ、高校の方へ頭の切っ先を向けた。
視られている。
理由は分からない。それでも眼球のない顔で、夜叉は確かに掻取を視ている。
そして夜叉が徐ろに左の小槌を持ち上げ、頭(やいば)の横っ面を軽く叩いた。緩い動作に比して大きい金属音を伴う突風が防風林を吹き抜け芝生を走り、中庭で立ち竦む人々は咄嗟に両腕で顔を庇う――掻取以外は。
あれは攻撃の予備動作だ。
弾かれたように振り返り、喉を裂かんばかりに叫ぶ。
「左右に逃げろ!! 今すぐ!!」
絶叫するそばから遠藤と新条の胸倉を掴み、思い切り投げ飛ばした。鬼の膂力で嘘みたいに吹っ飛ぶ二人を見届ける余裕もなく、全力で踏み切り横に跳んだ。脚の腱を切る勢いの爆発的な跳躍で逃げる。だが、あの攻撃を回避できる程の跳躍力を持つ者なんて鬼だけだ。結果、二人と掻取以外の全員が逃げ遅れた。
空気が、裂けた。
不可視の太刀筋は衝撃波で全てを吹き飛ばしながら直進し、噴水の一滴に至るまで掻き消し敷地内の端から端まで切断せしめた。一息に十メートル先の中庭左端の校舎まで跳んだ掻取の視界一杯を土煙が埋め尽くし、芝と土の匂いと血の臭いが鼻につく。傍に立つ支柱に人間の上半身が打ちつけられ、生気のない目で掻取を見ている。目を凝らせば、有害な粉塵に覆われた地面に幾つもの死体が無惨に転がっているのが見て取れた。
「じょ、冗談じゃ……!?」
「に、逃げ……っ」
グラスウールとセメントと硝子の粉塵を巻き起こしながら校舎数棟が崩落していく中、遠藤と新条が泡を食って駆け出す。掻取の脇を抜け、夜叉とは反対方向へ遁走していく。賢明な判断だ。
対して、掻取は。
頭に血が上った。既に進行を再開して接近してくる夜叉を睨み上げる。直線距離は目測で四百メートルにまで詰まっていた。まだ遠い、分が悪い、戦略的撤退をすべきだ。分かっているのに。
それは私怨なのか、或いは義憤なのか。
右手を突き出し、左手を添える。右を小銃に見立て左で支え照準を合わせる。
弾丸は実弾ではない。弾丸は、桜と遠藤から食らった分だ。
受けた運動エネルギーを精妙に蓄積・増幅・操作する、それこそが掻取の救済器官。
防御や回避など汎用性が高く、攻撃においても極めて高度な投射力を発揮する。もはや人型の大砲である。それも対鬼神戦で使える威力の、
直接射撃。
「吹っ飛べ……ッ!」
《衝撃制御》が圧を噴く。発射された衝撃波は濛々と立ち込める土煙の幕に風穴を開け、夕闇の空を貫き、音を振り切り一直線に夜叉の口元へ命中した。直撃の瞬間に拡散した波が周辺の建物群の窓硝子を震わせた。
一瞬遅れて音波(ソニックブーム)が甲高く鳴るのと、夜叉の獰猛な乱杭歯が粉々に砕け散ったのはほぼ同時だった。重低音の悲鳴を喚き散らしながら猛烈な衝撃に押し飛ばされて派手に仰け反る。二対の後肢で踏ん張れる筈もなく、そのまま後方へひっくり返り轟音と共に盛大な土煙が立ち上った。
「今の内に――」
生き延びている人達を助けに――そう踵を返し駆け出そうとして、暗い空に鋭い影を見た。
それがひっくり返った拍子に宙へ振り上げた尻尾だと気付いた時にはもう、鋭利な刃先が地面ごと掻取を両断していた。
衝突音が響き渡り、弾ける土塊と砕けた校舎外壁と散る無数の礫が宙を舞い、細長い腸を振り回しながら吹き飛んだ上半身が放物線を描く。呆気なく落ちた上体から滔々と溢れる血液が捲れ上がった地面を濡らし、衝撃で千切れたSSSチョーカーが赤く染まった芝生に埋もれる。
餓鬼の紅い目に、光はない。
袈裟に撫で切った尻尾は、心臓と首を綺麗に裂いていた。
即死だった。
⑨
『手こずらせやがって。でもまあ、口ほどにもなかったな。如何なる状況でも即応して鬼神化するのが一流なんだが、判断が遅すぎる。鬼神相手に時間稼ぎなんざ意味ねぇのに。三流もいいところだ全く、所詮この程度か。大袈裟過ぎたな、阿修羅』
後肢で割れた道路を踏み締め体勢を立て直した夜叉は、既に復元された口の噛み合わせを確かめながら手持ち無沙汰に前肢の槌を打ち鳴らす。残念ながら槌は斬撃射出用の引き金であり、それ以外では接近戦で打撃に使える程度だ。とはいえ、とてもじゃないが鬼神の純粋鎧骨格を破砕できる代物ではない。
ここに至り、ようやく緊急避難警報が鳴り響き始めた。鬼神化から僅か二十秒足らずでの決着だった。見れば近場の道路は渋滞で車列がひしめき合い、車を乗り捨てた群衆が我先にと押し合いへし合いながら出鱈目に逃走している真っ最中だ。地下壕(シェルター)に隠れるつもりか。
ついでに食い荒らしたい欲に駆られたが、ここは潔く退散するとしよう。長居すれば空自の航空攻撃を浴びるし、何より鬼特対が来れば目も当てられない。たかが羅刹と侮り屠られた鬼神の噂はまことしやかに囁かれている。女郎達は鎧骨格でも防げない器官を使う手練、役目を果たした以上ここにはもう用はない。
これでようやく……俺の願いが。
期待で高鳴る心拍数を抑えつつ、いざ鬼神化を解除しようとして、
切れた。
鬼神化ではない。夜叉の前肢と尻尾が寸分違わず全く同じ瞬間に切れた。三箇所でずしんと地を打ち鳴らし道路を砕く落下音を聞き、切断面から血液が間欠泉の如く噴出し足元の交差点を浸食していく様を認めてから、自分が何者かの攻撃を受けたのだと気付いた。遅まきながら激痛が脊椎じみた背中を突き抜ける。
『ぐ……あああああああああッ!!』
ぱきりと大気が音を立て、白い冷気を纏う巨大な氷の板が夜叉を前後から挟むように形作られていた。それは傷一つなくぴかぴかに磨かれたようで、鏡の如く反射し夜叉を映す。
あり得ない。確かに白亜の鎧骨格にはほんの僅かな数百センチ単位の隙間があるが、そこを正確に狙ったのか。だが攻撃した所で鬼神の躰を切断するのは至難の業だ。とても通常兵器では不可能な筈。
ならばこれは、異常な能力による奇襲。
後肢を折り地面をのたうち回る寸前、視界の端に色を捉えた。未だ土煙が烟る中庭の只中に転がる餓鬼の死体、その傍に佇む人影の色は白。
あいつが鬼特対か!?
⑨
「この距離で嗅ぎ分けられないなんて、阿修羅の手引ね。陽動に加えて姑息な手を」
ひとまず夜叉の攻撃手段を一時的に封じた柊は、眼前で横たわる死体の隣に跪く。血塗れの内臓を零して砕けた骨を覗かせた上体を抱き起こし、日陰用戦闘服が汚れるのも厭わず亡骸の髪を愛おしそうに撫でた。下半身挫滅だけで済んだのは運が良いのか悪いのか。
「相変わらず無茶をするわね。もはや世紀の大馬鹿者かしら。今の貴方が敵う筈ないって分かっていたくせに……人の死は見過ごせない、か。あの時と同じね」
一瞬だけ声音を和らげ、だがすぐに表情を引き締める。
「でも、あの時とは立場が真逆。やっぱり奥の手を使うしかない。一度しか使えないカードを、こんなタイミングで切りたくはなかったけれど」
即決しなければ。迷えば、すぐにでも夜叉が復元を終えて反撃してくる。別に自分だけで夜叉を処理できるけど、MSウルトラ計画の完遂を目指すとなると今このタイミングで餓鬼を鬼神化させるのも悪くない。頃合いではある。本人に対鬼神の戦闘経験を積ませる良い機会にもなる。今の彼にとってはぶっつけ本番にはなるけれども。
でも、それくらいの無茶振りをしないと阿修羅は斃せない。
よし。
血の気が失せた骸の肉肉しく裂けた首元へ顔を埋め、唇を近づける。
鬼にとって第二の心臓、頚椎。
自分の首筋に残る眷属の印が疼くのを感じながら万感の思いを込めて囁く。
「起きて、みーくん」
そして、心臓マッサージをするように思い切り首に咬みついた。
瞬間、餓鬼の眼窩から白光が噴き出し全身が閃光を放った。
夜の帳が降りた街並みは濃い陰影を刻み、遅れて轟く甲高い響音が世界を震わせた。
覚醒。
⑨
虚空に突如として生まれた閃光は街々を眩く照らし、白光が収束した直後にそれは降下し交差点に着地した。
身長60メートル、体重2900トンの巨体が道路を踏み抜いて破砕したアスファルトの欠片が盛大に空高く舞い上がった。
その大小様々な礫の奥で、腰を落とした鬼神の灼眼が炯々と光る。
闇を塗り固めたかの如き光沢のない漆黒を全身に鎧い、フレームを彷彿とさせるガンメタルの背筋は脊椎じみた意匠で月光を氷のように照り返す。溶岩もかくやな凸凹の表面には出鱈目に亀裂が走り、その隙間から蒼い光が仄かな輝きを漏らす。胸部に穿孔された大穴は酷い火傷じみて深淵を覗かせる。
そして何よりも際立つのは満月に似て白く丸い、髑髏。
本来ならば眼球がある筈の眼窩は、ぼんやりと浮かぶような強く妖しい深紅の鬼火を燈している。胎児の頭蓋骨を模したような造形の額には円形の穴が穿たれ、そこから頭頂部にかけて後頭部までがぱっくり裂けている。生気など初めから無い真っ白な目元から涙痕のような筋が伸び、血液じみた深い赫きを夜闇に滲ませる。
須らく肉も皮も無いが口は頬までざっくり裂け、剥き出しの不揃いな乱杭歯の奥にある口腔は真っ暗な空洞である。
赤い一対の角が雄々しく天を衝く。
救世主第一形態・原始の
漆黒と真紅と蒼色と白色、四色を纏う鬼神・餓鬼が戦域に出現した。
『どうなってんだ、こりゃ……』
足元でひしゃげて転がる車や折れた信号機と電柱を唖然と見下ろし、首を廻らせると周囲の数十や数百メートルある建物全てが間近に見通せてしまい恰もミニチュア特撮の世界に迷い込んだ気分だ。
――俺は確か公園で夜叉の尻尾にやられて、それで。
死んだ筈だ。なのに生き返ったのか。何故だ、餓鬼にそんな機能はない筈。
ここで自分の両手を持ち上げ、開いた口が塞がらない。冷えた溶岩みたいな塊で覆われ、そのくせ重量を感じない。
いや待て、そもそも何もかもが小さすぎるし自分の目線が高すぎる。当て嵌まる状況なんて一つしか思いつかない。
『俺……鬼神化したのか。嘘、だろ……。餓鬼が鬼神化できるなんて一言も』
「言ってないわ。だって貴方が誰にも質問しなかったから」
餓鬼の傍に聳える20階建てマンションの屋上に立つ人影を認め、愕然と固まる。
柊みぞれが毅然とした面持ちで立っている。だが装いが特殊である。
純白のホルターネックを着こなし、同色でフリル状のミニスカートの裾からパニエの紅いレースを覗かせる。ノースリーブの露出したほっそりと白い肩を淡い朱のシースルーで透かし、赤い長手袋で肘まで覆っている。肩口と脇下でひらひらと透けた四枚の赤いレースが恰も妖精の翅のようで、夜風を受け優雅に靡く。胸元から覗く深い谷間の下にある大きな紅いリボンがアクセントになっている。長い脚を黒いニーハイソックスで包み、絶対領域で太腿が窮屈そうに肉を余らせる。首に巻かれた真紅のマフラーがはためく。
が、そんな衣装も今や赤く塗り潰されている。自分の流血のせいだと悟る。
ツインテールに纏めた長い白髪を宙で遊ばせ、建物と大差ない図体の餓鬼に物怖じせず続ける。
「説明は後回し。そろそろ夜叉の復元が完了する。これ以上死人を出したくないなら、さっさとM.Tフィールドを展開して備えなさい」
『は? なんちゃらフィールドとか言われても、やった事ねえのに出来ると思ってんのか!?』
「御託はいいから早く……、来るわよ!」
破砕音を立てながら両手の槌を建物に引っ掛け、重そうな所作で起き上がった夜叉が数ブロック先の幹線道路上で唸り声を上げた。
満月を抱く夜空の下、何十棟も林立する建築物を隔てビル街に紛れる二体の鬼神が対峙する。
『どんな鬼術を使ったかは知らねえが、無駄な足掻きだ』
先手は、夜叉。
小槌で何度も刃(あたま)を連続で叩く。数発射出し、飛ぶ斬撃が軌道上のありとあらゆる物体を縦一文字に切り裂き、細切れになったそれらを衝撃波でもみくちゃに吹き飛ばしながら彼我の距離を一瞬で駆け抜け餓鬼に迫る。
直撃。
『ぬっ……おわぁぁ!!』
回避の叶わぬ透明な袈裟斬りを前に、咄嗟に両腕を翳し首を守る。が、鎧骨格を纏う両腕が硬質な衝突音を響かせた瞬間に物凄い勢いで吹っ飛ばされた。道路標識も電柱も信号機も豪快に巻き込みながら、放置された夥しい車両を容赦なく轢いてしっちゃかめっちゃかに軽々と空中へ舞い上がらせ、数百メートルに渡り何本もの歩道橋を小枝の如く圧壊し続け全てコンクリートの瓦礫に変えてからようやく止まる。
為す術なく仰臥した餓鬼の傍で千切れた電線がスパークを撒き散らしながらのたうち回る。たった一度の攻勢で被災地へと変貌した場において、無惨に割れた公衆電話ボックスの傍に停車したスーパーカブだけが餓鬼の起こした震動を受けてなお横転せず直立不動のままそこにいる。
『クソっ、出鱈目な攻撃しやがって』
悪態をつきながら徐ろに起き上がり、建物屋上の角に掴まりながら立ち上がる。すかさず命中箇所を見たが擦過痕を残すばかりで損傷はない。さすが鬼神の鎧、頑強さは折り紙付きだ。
「まだ住民避難が完了してないのよ! このまま敵に好き放題させたらどうなるか、貴方になら分かるでしょ!」
いつの間にか手近の屋上に到着している柊が緊急避難警報に負けじと大声を張り上げた。
その言葉を受けて餓鬼の脳裏に関東大鬼災の惨劇がフラッシュバックした。
無意識だった。
左に引き付けながら左肘を接地点とし両腕で十字を組み、そこから今度は右へ孤を描くように両腕を薙ぎ払い、円弧の軌跡に光芒を振り撒く。腰に溜めるように両腕をたたみ、光を纏う右拳を突き上げた。
すると拳で瞬く光は一条の線となって夜空を貫き、中空で弾けた。花火の如き微細な光芒がシャワーじみた様相を呈しながら金色の帳を降ろす。餓鬼を中心として半径一キロの空間を半球状に光の幕で覆い隠した次の瞬間、数え切れぬ光の雨滴がぱっと消失した。
嘘みたいに戦域の光景は何も変わらない、M.Tフィールド圏内の地上から湧き上がる水泡を除けば。
『苦し紛れに手品を披露して、満足か? 小手調べは済んだ、次は真っ二つにしてやる』
続々と湧く水泡を尻目に、夜叉が大鎚で刃(あたま)を強打した。小槌とは比べ物にもならない大音響が空気を鳴動させ、伝播した音の波は放射状に広がり周辺一帯の窓硝子を粉々に砕いた。
来る。
最大斬力の一撃が。
だが、餓鬼の思考は先程とは打って変わり冴え渡っていた。
水泡伴うフィールドが、そうさせている。
攻勢の起点から終点まで瞬時に組み立てた。
跳躍。
餓鬼の巨体が冗談のように中空を舞う。夜叉のそれは触れるそばから全てを粉微塵に切り刻み、何十棟もの建築物は障害物にもならず、さしたる抵抗も見せずあっさり両断されていく。刃渡り数十メートルにも及ぶ幅広の斬撃は縦方向で彼我の距離を刹那に消し飛ばす。
そして地面を深く切りつけ抉りながら轟然と突き進む斬撃をすんでのところで回避した。
標的を逃してなお直進する太刀筋は、とある地点で透明な壁にぶち当たり風圧を残し消失した。呆気なく受け止めた、あらゆる建造物を豆腐のように裂いて鏡面の如き切断面を残す斬撃を。
しかも軌道上で逃げ遅れていた群衆を瞬間的に壁の外へ一人残らず転送していた。衝撃によって空間が海流の如く揺蕩う。
M.Tフィールド、いかなる戦域も彼方と此方に分かち隔絶する攻防勢領域。領域内に存在する全ての人間を外部へ転送し、また他の武装勢力から横槍を入れさせない。対鬼神戦用の空間を構築する絶技。
またの名を、
『逃がすかァ!』
夜叉が素早く小槌で刃(あたま)を連打する。複数の斬撃が対空武装として飛翔し餓鬼を狙う。転瞬、餓鬼が曲芸めいた捻りの宙返りを見せた。巨躯を限界まで捩じり回避に専念する。夜叉は鎧の継ぎ目にある頚椎を狙い、それは余りにも正確無比だった。
掠めた。無慮数十の斬撃は漆黒の肢体や純白の頭部表面を擦過し、ぢりんと火花を散らし、行き掛けの駄賃とばかりに赤い角の片方を半ばから切断して彼方へ飛んでいった。
降下する。
だが夜叉はそれを読んで、敢えて囮として「刃」幕を張った。次の一手へ誘い込む為の罠、大本命の致命的な一撃を放たんと三日月の刃(あたま)をぎらつかせる。
『取った! 着地際ァ!』
夜叉が、打った。
大鎚の打撃音が響くよりも早く、防御不能の斬撃が疾走る。着地狩りで獲物を仕留めんと高層ビル群すらついでに切断せしめ、両断された建物が傾ぐのを待たずに首と心臓目掛けて襲い掛かる。
無論、餓鬼もその致命打を先読みしていた。体躯を大の字に広げた降下体勢のまま落下地点を見極め、胸部の穴で照準する。《衝撃制御》撃つ、
着地地点の五階建て雑居ビルが甚大なる衝撃波をまともに食らい、上から下までぺしゃんこに叩き潰された。たった一撃で完全に原型を失くして瓦礫の山と化し、煙に覆われたそこを一顧だにせず今度こそ攻勢に出る。
激甚な衝撃波の反動を利用し、寄る辺のない空中で弾かれたように吹っ飛んでいく。迫撃砲さながらの放物線軌道へと転じ、夜叉との距離を詰める。
結果、縦薙ぎされた致命の極太斬撃は鎧骨格の荒れた表面を真っ二つに切り飛ばした。側面とはいえ命中の衝撃をいなし切れず高速回転する独楽の如く強烈にスピンする。だが、その程度で餓鬼の直線軌道を変える事はできない。
『おっ……りゃあ!』
回転の遠心力を乗せた蹴撃が暴風を伴いながら放たれた。なにせ的は大きい、果たして夜叉の偏執的に分厚く巨大な刃(あたま)を狙い違わず捉えた。硬質な手応えを感じ、そのまま全力で振り抜く。悲鳴じみた甲高い破砕音を伴って刃(あたま)が横っ腹から木っ端微塵に砕かれ、飛散する無数の破片が周辺の屋上や道路に突き刺さる。
『おぉああぁぁ! 図に乗るな!』
着地寸前の餓鬼が大鎚の正拳突きを食らう。ろくに防御もできず火花を置き去りにしながら吹っ飛び、激突したマンションを派手にぶち抜きながら高速道路方面に落下してから止まる。
突如として餓鬼の鎧骨格の隙間から漏れる電飾じみた光が点滅を始めた。しかも色が蒼から赤へと変わる。聴覚に規則的な鼓動がくぐもって伝わる。まるで時を刻むかのように。
「活動限界よ! 今すぐ決着(ケリ)をつけて!」
餓鬼が押し潰し崩壊させた高架道路の跡地に降り立ち、白い髑髏を見上げながら柊が警告する。
『は!? まだ五分も経ってないだろ!』
「貴方は出来損ないだから三分間しか戦えないの! 戦闘継続を最優先にするから、もうフィールドの維持ができなくなる! 人間を護りながら戦うつもり?」
そこで夜叉の雄叫びが木霊する。
『俺の刃をよくもっ! 手前はもうガス欠かぁ? なら木っ端の人間共に代償を払わせてやる!』
まずい。
跡形もないマンションの残骸を蹴飛ばしながら跳ね起きる。気付けば周囲から立ち上る水泡は影も形もない。柊の言う通りフィールドが消失している。
餓鬼の半ば断ち切られた赤き角が復元する最中、刃(あたま)をぼろぼろに粉砕された夜叉が血反吐を撒き散らしながら吼えた。裂帛の気合そのままに超重戦車の如き突撃を敢行。進行方向には、つい先程フィールド外部へ転送されたばかりの人々。
――皆は、俺が護る!
『早く何とかしないと! こっちにも必殺技とかねえのかよ?』
「熱焔を放射して!」
『!? やり方は?』
「既に知っている筈よ!」
『は? 何を言って』
瞬間、餓鬼の脳内に段取りのイメージが閃く。
『よし、やってやる!』
跳ぶ。驚異的な前方宙返りで中空を通過し、いち早く先回りして突進の軌道上へ着地した。着地の震動で阿鼻叫喚に逃げる人達がたたらを踏む。彼等は降り立つ餓鬼に畏怖の眼差しを向ける。傍から見れば鬼神が今にも人間を引っ掴み捕食するかのような絵面である。
餓鬼は自身に刺さる視線を気にせず、敢然と振り返る。
人々は固唾を呑んで餓鬼の背中を見上げる。
『死に晒せぇぇぇぇ!』
道路上に存在する全ての物体を蹴散らしながら突っ込む夜叉は闘牛さながら。荒れ狂う尻尾が触れた瞬間に幾つもの看板を斜めに切断していく。微かに残るなけなしの刃(あたま)と傷なしの両槌を突き出し、衝角として餓鬼の心臓を貫かんと前傾姿勢で鋒を向ける。四本の後肢が絶えず蠢き全長120メートルの長大な躰に信じ難い速度を与えている。数百メートルあった間合いがゼロになるまで、あと数秒。
『ぐぅ……ぉぉおおああ……!』
餓鬼の赤い角が帯電し、電磁が爆ぜる。黒い躰を中心に空気がスパークし、その放電現象は周囲に幾重もの耳障りな音を刻む。凄まじい電圧に両脇の建物の窓硝子が一斉に割れ、避難の際に点けっぱなしだった室内電灯がショートした。後方でその光景を眺める人々の髪が逆立ち、その見開かれた瞳孔が蒼い電光を全身に纏う餓鬼を映す。
ぐっ、と上体を前方へ撓め俯く。一対の角が正面から迫る夜叉に向く。
髑髏の眼窩に浮かぶ鬼火がより一層光度を強めた。
同化制御術式第壱号、
ぐぅぅと前へ躰を起こしながら放ち続ける。口から噴き出した紫色の火焔は地を舐め街路樹を焼き尽くし、建物の外壁はおろか構造材すら融解させながら夜叉を呑み込んだ。大通りが一直線に燃え盛り、スクランブル交差点から十字方向へと拡散しミニチュア模型の如く放置車両を滅茶苦茶に吹き飛ばしながら火の点く物全てを燃焼させていく。
『ぎ、ぎあぁぁぁぁッ!!』
想像を絶する高温に喚く夜叉はそれでも止まらず、刃(あたま)と両槌を溶解させ赤熱した鉄の雫として飛散させながら肉薄せんとする。火達磨の巨体を正面に見据え、餓鬼の鬼幻術が第二形態に移行する。
ぎゅるッ、と火焔を絞る。更に熱量が上昇、もはや超高温超高圧へと達した火焔が大気もろともプラズマ化する。途方もないギガジュールの熱量でイオン濃度が高まる。
轟と燃え盛る焔は、きぃぃんと甲高い発射音を響かせる一条の熱線へと変貌した。
この世の物とは思えぬ熱量を発する紫の線は忽ち刃(あたま)を貫き、悲鳴が途切れ、悶えるように蠢く尻尾も一息に焼き切り、そのまま遥か彼方に林立する超高層ビル郡さえ千枚通しで突かれた紙のように次々と貫通してから夜闇に掻き消えた。
放射時間は僅か数秒だったが、その間に齎した破壊は山火事に匹敵する。単独で災害並みの惨状を作り出す、故に鬼災。
丸焦げの胴体を支える二対の後肢が崩折れた。融解し、頭も前肢も尻尾もなく殆ど原型を失った夜叉がどしんと力尽きて沈黙する。延焼で燃える道路に伏す姿は遠目には巨大な石炭に見えるだろう。もはや白亜の鎧骨格は溶け落ち、内部の赤筋と白筋の筋繊維がぷすぷすと焼け焦げ白煙を燻らせる。煤けた骨が部分的に露出している。滲み出る血液が近場を流れる川を赤々と染め上げる。
つい先程まで超高熱放射性粒子帯焔を放射していたとは思えぬ風情で構えを解いた餓鬼は、重い足取りで歩み寄る。餓鬼の鎧骨格には程遠い、焼け焦げた黒を晒す夜叉の千切れかけた口が喀血しながら動く。
『…………俺も、人間に……戻…………』
そこで事切れた。永遠に微動だにしない鬼神を見下ろし、徐ろに両手を持ち上げる。鎧骨格に包まれた表面を擦り合わせ、合掌。後方で成り行きを見守っていた人間達は異様な光景を目の当たりにして立ち尽くす。
局所的とはいえ街を立ち所に瓦礫塗れへと被災させた鬼神が、同じ鬼神の死を悼む。未だめらめらと延焼が続く街の一角、炎上の光に照らされながら直立不動のまま哀悼の意を示す鬼神を撮影した定点カメラが史上初の一台となるのは後の話。
「そうしたところで鬼は地獄に堕ちるだけよ。浄土になんて行けないわ」
いつの間にか屋上のヘリに立っていた柊が、赤いマフラーで口元を隠しながら二体の鬼神を冷ややかに一瞥する。紫の火災を映す紅の瞳には冷淡な色がある。見慣れた光景を見る目つき。
『俺もいつか同じ場所に逝く、これはせめてもの情けだ。多分こいつを唆した奴はこれまで他の鬼も甘言で誑かし、いつも通りに今もどこかで観戦してんだろ。鬼神戦は派手で目立つからな』
勝利の感慨もなく、まだ見ぬ首謀者への憤慨で合わせた両手が震える。
夜叉は日の下を歩めぬ代わりに鬼神化能力を獲得した個体だ。そしてこれは全ての鬼に対し言える事だが、大多数の者達は望んで鬼化した訳ではない。やむにやまれぬ事情がある。永久に直射日光の暖かさを味わえなくなった寂寥に伴う死への恐怖は夜叉にしか理解できない絶望である。たとえ鬼だろうがそこに貴賤はない。
鎧骨格の隙間から漏れる赤い光の点滅速度が刻一刻と速まる。さすがに時間切れだ。
『なあ、鬼神化の解除ってどうやる――』
頭から冷水をぶちまけられたかのような悪寒が背筋を駆け抜けた。
勘で動く。
立ち幅跳びの要領で踏み切る。高々と夜叉の死体を越え、たった一歩で数百メートル先の延焼する交差点に着地した。着地の風圧で紫の炎が流される。
たとえ人間が御来光によって蘇生されると分かっていても傷つけば痛むし、死への恐怖は拭いきれない。だから巻き込みたくなかった。鬼である柊なんて尚の事だ。
餓鬼が殺気ではなく悪寒を感じたのは、偏に相手が鬼ではなかったから。それは無機物が発するレーザー照射を浴びたせい。INSとGPS誘導に加えレーザー誘導を併用し移動目標への攻撃も可能とする空対地兵器。
ほんの数分前に百里基地からスクランブルした第3飛行隊所属のF-2戦闘機二機が高度五千メートル上空に到達していた。
夜空から降り注いだ二本のLJDAMが、針の穴を通すような精妙さで餓鬼を捉えた。2000ポンドの衝撃が生み出される。
丸みを帯びた肩と髑髏に弾着し爆炎の花を咲かせた。爆発音と共に衝撃波が裏路地に至るまで駆け抜け、延焼の炎と電線が揺れる。膨張する黒煙の只中で堪らず餓鬼が傾ぎ倒れる。2900トンの体重が道路を割り砕き、立ち込める土煙に巨躯が紛れる。炎上の照り返しを受けて立体的に立ち込む煙が周囲を覆い尽くす。
その夜、髑髏の鬼神――餓鬼を発見できずF-2戦闘機の編隊は帰投した。
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