第2話

 そして預言者は言った"見よ。野獣は美女の顔を見上げたが、その首を絞めようと伸びた手は留まり、その血塗れた首筋に歯を立て、その日を境に野獣は抜け殻のようになった"

                            古代アラビアの諺


「あんたなんか産むんじゃなかった」

 関東大鬼災と呼称されるようになった2014年2月3日から二ヶ月ほど経過した頃、鬼災孤児として施設に入所させられた際に柊みぞれが母親から吐き捨てられた言葉である。

 あの夜、柊一家も阿修羅が引き起こした鬼災に被災した。二次災害にも遭った。鬼災における二次災害とは、被災した人間が鬼化現象を起こしてしまう事だ。なぜ人が鬼になるのか、それには様々な理由があるが鬼による人間への輸血が主因であり、他には一つの要因として心因性によるケースがある。つまり被災した精神的なショック或いはサバイバーズ・ギルトによって鬼化してしまう場合だ。

 柊の父は、被災した直後の生死を彷徨う極限状態の中で鬼化した。しかもただの鬼化ではない、鬼神化したのだ。あの鬼災で誕生してしまった鬼神は二体、その内の一体が柊の父だった。たった一度の鬼災を引き金に複数の鬼神が誕生したのは、ダイダロスの歴史数千万年において史上初の出来事である。

 柊家もまた阿修羅の『光』に焼かれ、一家はそのまま焼死する筈だった。だがそこで父が体高40メートルの鬼神と化した。鬼神は制御できない熱量を冷却させる為に海中へ逃げた。それで局所的な津波が発生し、海沿いに居を構えていた為に母とみぞれは潰れた家屋ごと波に呑まれ、奇跡的に山間の丘に流れついて生き延びた。

 鬼神となった父は日付を跨ぎ空が白む頃、日光に焼かれ死んだ。

 そして災厄の化身たる阿修羅は、もう一体の鬼神によって撃退されたと聞いている。

 それからの二ヶ月は酷いものだった。まだ七才の柊から見ても母は深刻な錯乱状態にあり、とても育児ができる様相ではなかった。そんな母が最後に言った言葉が、あの言葉だった。

 母の言葉は八つ当たりではあったけど言い掛かりではない、それは子供の柊でもよく分かった。

 施設に入所してから一週間経ち、自由時間はいつも部屋の隅っこで塞ぎ込んでいる柊はふと自分の髪を指に絡める。漂白剤を溶かした水に浸したみたいな真っ白い髪が、さらさらと指の隙間から溢れ落ちていく。

 柊は先天性白皮症を持つ子供だった。髪も肌も病的な程に白く、虹彩は水色みたいな淡青色。それに加え同年代の子と比べ手足は細長く、ひょろりとした長身痩躯なので保育園児の頃から誂われる事がよくあった。

 それに自分で言うのもなんだが、母親似で黙っていれば美人だと思う。だから同年代の同性から毛嫌いされたりもした。自分からすれば男子の間で密かに囃し立てられても嬉しくないのだけれど。所詮客寄せパンダと変わらない。

 ――私はいつだって、のけもの……。

 そんな自分を産み、夫を亡くし、一人での育児を余儀なくされた母の心労を思えば自分の不遇な現状など受け入れるしかなかった。これまでも自分の体質の為に相応の苦労をかけた筈だから。

 偏見や差別にも慣れた。自分は異質という意味で鬼と同格なのだから、孤立しても仕方ない。

 今だって部屋の壁際で膝を抱え俯く柊に、声を掛ける子供は皆無だ。他の子供達は一人残らず日向の庭で遊んでいる。頭の天辺から爪先まで純白の少女は、病院のような施設内でも異質な存在だった。他の子供達だって孤児な訳だから、如何にも近寄り難い雰囲気を醸し出す柊とわざわざ仲良くしようとは思えなかったのだろう。今はまだそれだけの精神的な余裕を持つ子はいなかった筈である。

「なあ、なんでずっと隅っこにいるんだ? 庭に出て皆と遊べばいいのに」

 空気も読めずに話しかけてきた子供が、一人。

 体育座りで膝に埋めた顔を少し上げると、長い前髪に縁取られた視界に男の子の足が映る。

「…………が」

「ん? なに? 聞こえない」

 不躾な声である。

「……日陰じゃないと駄目って、お母さんが。なに? 文句でもあるの」

 相手の事など見向きもせず、ぶっきらぼうに答えた。

 保育園児の頃、一度だけ日焼け止めを塗るのを面倒くさがってそのまま外で過ごした事がある。そして、その晩の頃には腕が火傷したみたいに真っ赤になって酷く痛い思いをした。母からこっ酷く叱られたのではっきり覚えている。

「ふーん、大変なんだな」

 あっけらかんと答えた男子はそのまま立ち去るかと思ったのに、あろうことか隣に座る。他の子だったら無愛想な態度を取れば離れていくのに、彼ときたら。故に虚を突かれた。

「っほっといてくれる、邪魔だから」

「邪魔? どう見ても暇そうにしてんじゃん。先に言っとくけど、別に取って食ったりしねえからな」

 一体なんの話をしているのか。意味が分からず横目で彼を盗み見て、思わず悲鳴を上げそうになった。そこで初めて彼の顔を見た。

 彼の頭から黒髪を掻き分けそそり立つ物、それは一対の角だった。血のように赤く刃物の如く鋭い角。人ならざる者の証。

 その角を見て父の最期を思い出し、今すぐ逃げ出したかったのに怯んで全く動けなかった。目を離せず青褪める柊の事などお構いなしに、彼は暢気に欠伸をする。恐らく自分より少し年下であろう彼は線の細い柔和な印象を抱かせる顔立ちのまま、庭で遊ぶ子供達をぼけーっと眺める。昼行灯な雰囲気を漂わせる少年である。

 間、

「俺、昨日ここに来たばっかりだから驚かせちまったな。挨拶する時間なくてさ。他の奴らまでビビらせるのもアレだから、少し距離を取る事にしたんだ。お分かり?」

 とぼけた様子で説明する彼と目が合う。柊とは対照的で尚且つ鬼の角と同じ真紅の瞳が、窺うように見つめる。人間とは違う爬虫類じみた垂直のスリット状の瞳孔は、まるで心を見透かすような気がして反射的に目を逸した。

「……なんで角を隠さないの?」

 胸中で渦巻く恐怖を打ち消したくて、つい口を突いて出た。

「そうしたいのはやまやまなんだけど、俺は角を隠せない鬼なんだ。というか、角を隠蔽できるのは女の羅刹だけで、霖鬼なんてそもそも角生えてないし」

「……なんで昼間なのに大丈夫なのよ」

「直射日光が駄目なのは夜叉だけだ。俺は鬼神化できないよ」

「詳しいのね」

「まあ……保護者に色々と勉強を強要されてな。それでここに入るのも遅くなっちまったわけだ」

「だったらなんでこんな場所にいるの?」

 言葉を濁す彼に、率直な疑問をぶつけた。ここは鬼災孤児のいる施設な訳で、親代わりになる大人がいるのならば話は別だ。そんな子供はそもそも入所する必要などない筈。

 疑問を整理する様に姿勢を変え、胡座をかく彼は少し考え、

「分からん」

「は?」

「今はまだ忙しいから、落ち着くまではここで面倒を見てもらえ。そういうお達しでね。そう言う君は?」

 はぐらかすように話題を変えられ、今度は柊が答えに窮する。口を噤み、淡青色の瞳が翳る。母は生きている、生きてはいるけれども。

 別に黙秘しても良かった。それなのに、気付けば口を開いていた。

「お母さんは、私とは一緒にいたくないの。私なんか産むんじゃなかった、って…………」

 母の蔑むような視線と凍てついた声を想起し、きゅっと膝を抱える腕に力が籠もる。ふっと目を伏せ、途端に込み上げる寂寞の思いを押し殺したくて唇を噛み締めた。

 どうして他人に明かしてしまったのか、自分でも分からない。彼が人間じゃなくて鬼だから、他人とは違う反応を返してくれるかもしれないと謎の期待を抱いたのかもしれない。鬼に何かを強請るなんて愚か者のする事なのに。

 暫しの間、沈黙が降りた。柊は自分の膝小僧を凝視し続け応えをじっと待つ。庭で上がる子供達の声が酷く大きく聞こえる。窓から斜めに差し込む日差しの斜面、茫漠と広がる青空が日陰の薄暗さを際立たせる。春の陽気は未だ訪れず、直射日光を浴びなければ肌寒い季節だ。

 果たして返ってきた声は、相変わらず呆けた調子だった。

「四苦って言葉、知ってるか?」

「それくらい知ってる。馬鹿にしないでくれる」

「言葉じゃなくて、意味の方は?」

 うっ。

 癪に障るが、ここは素直に頭を振る。その拍子に額の両側で結わえた白髪の房が揺れる。

「生きる事、老いる事、病む事、死ぬ事。これらを合わせて四苦、お釈迦様が説いた言葉だ。その苦しみを抱える事が人間の必然的な姿なんだと。だから、」

 彼は柊の瞳を真っ直ぐに見つめる。ナイーブそうな目に柔い光を湛え、まるで慈しむような視線を受けた柊は思わず息を呑む。鬼神となった父のそれとは全く違う、鬼の目。

「君は、生きていて良いんだよ。辛い事を我慢する必要はないし、苦しんで悲しむ事は誰にとっても当たり前なんだ。気が晴れるなら泣いたって良い。それらは決して悪事じゃない。……つー事で、もうちっと肩の力抜いた方が幸せになれるぞ」

 そう言って腑抜けた笑みを漏らし、肩を竦めてみせる。

 不意に紡がれた言の葉に困惑して目を瞬かせたのも束の間、少し遅れて一言ずつ意味を咀嚼していくと、呆気ないくらいにすとんと腑に落ちた。単純な言葉だった。ある意味で月並みな言葉でしかなかった。なのに、

 柊の瞳がきらりと潤む。感づかれたくなくて急いで視線を切る。鼻の奥がつんとする。なんで母の言葉を口走ってしまったのか、今なら自分でも理解できる。

 自分はただ肯定されたかった。生き残ってしまった事、母に見放された事、何よりこんな体質でこの世に生まれてしまった事その全てに自信が持てなかった。自分は本当に生まれてきてよかったのか、親の重荷になっているだけじゃないのか、今までずっと気負い続けてきた。母に見限られて、「ああ、やっぱり私は迷惑な存在なんだ」と悲嘆に暮れた。悲しくて辛くて傷ついた。でもそれが当然の報いだと思って、思い込んで、誰にも弱みを見せなかった。見せる事は、罪悪感から逃れる卑怯者のする事だと思ったから。

 ――私は、ここにいても良いんだ。

 唐突に彼が手を伸ばし、柊の目元を指先でなぞる。びくっとたじろぐ間もなかった。彼が滲む涙を拭ったのだと気付いた瞬間、恥ずかしいやら情けないやらで一気に頬が朱に染まる。耳まで真っ赤になった。

 こんな事をする男子とは初めて会った。

「っ触らないで、変態」

「悪い、泣かせるつもりじゃなかった」

 咄嗟に彼の手を振り払うものの、赤面したままでは照れ隠しにしか見えない。途端に速まる鼓動を抑えたくて、縮こまるような体育座りのまま彼を睨む。

「鬼の貴方に言われたところで説得力に欠けるわ。鬼は六百年も生きるから失態を犯しても挽回するチャンスはあるでしょうけど、人間の私にはない。幸せになる権利なんて……」

「そもそも失態じゃないけどな。それに百年だろうが千年だろうが、一年だろうが生きていれば幸せになれる機会は訪れるさ」

「そんな機会は訪れないわよ、どうせその前に死ぬから」

 しまった。 

 ムキになり口走ってしまった。後悔しても遅い。苦々しく口の端を歪めるのとは対照的に、彼は真顔で訊いた。

「……本気で言ってるのか」

 嘘をついてもよかった。けれど彼の真摯な目つきに射抜かれて、咄嗟に誤魔化す事もできず。気圧されたみたいに神妙な顔で頷く。

「生まれつき心臓が弱いの。大人になれるかも分からない。いつ死ぬかも分からないのだったら、いっそ自殺した方が楽になれると思った事もある。……鬼災で死ねたら、それで良かったのかも」

 でも生き延びてしまった。だから幸福になる権利なんて考えた事もなかった。

 訥々と本音を喋るのは初めてだった。わざわざ他言する事でもないと思っていたのに。

 先程以上に長い沈黙が二人の間に流れる。急にこんな事を吐露されても困るだろうに。もしかしたら自分は彼を困らせたいのかもしれない。

 重すぎる静寂が続き、永久とも思える程の間を置いて、

「桜」

「え?」

「ここの庭には桜の木が生えてる。寝坊助だから四月なのにまだ満開じゃない。でも今月一杯には咲き誇る筈だ」

「だから、なに?」

「長生きの秘訣は、人生の目標だ。だから、取り敢えず今年の桜を見るまでは生きてみないか? 今年だけじゃない。十年後も二十年後も一緒に見よう。な? それで良いだろう」

 何が良いのだろうか。気の持ちようで病気が治る訳でもないのに。嘲笑し罵倒してやろう、そう企んだのに。嘲笑う筈の頬は震え、罵声を飛ばす筈の口からは湿った吐息が漏れ、冷淡な視線を浴びせる筈の瞳から涙が溢れた。

 ――この鬼には、敵わないわ。

 得意げに微笑む彼の向日葵みたいな表情を、柊は焦がれるように見つめる。さっきまでは鬱陶しく早鐘を打っていたのに、今や不愉快ではない穏やかな胸の高鳴りだけが柊の気持ちを雄弁に語っている。

「……良いわよ。貴方がそこまで言うなら、付き合ってあげる。寛大な私に感謝しなさい」

 頬を伝う一雫の涙を拭いもせずに、彼と同じような自信たっぷりの微笑を返してやった。


                  ⑨


 二週間後、小野府ヤナギ市ナギ町にある第九鬼災孤児院の庭で桜が満開となった。

 が、それは一時の間だけだった。突如として降り注いだ篠突く雨で花弁は散り落ち、驟雨に打たれる約束の桜を二人は室内から眺めていた。

 予報外れの雨に打たれて泣き出しそうな柊の震える手を、彼が握ろうとした――その時。

「よう。久しぶりだな、餓鬼」

 大雨で烟る庭の只中で、三面六臂の異形を晒す鬼が嗤う。

 その日、柊みぞれは鬼の手によって殺された。


 そして、十年後。

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