直掩鬼神ヱールマン

@kyugenshukyu9

第1話

「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

                           古今和歌集 仮名序


 英雄になりたい――掻取みくりは物心ついた頃にそう思った。

 中世の少年達が騎士に、江戸時代の童達が侍に、そうなりたいと夢見ていたのと同じように掻取みくりもまた英雄に憧れていた。

 生まれつき喘息持ちで家に籠りがちだった一人っ子は、いつも頭の中で空想を膨らませ浪漫を胸に抱く夢見がちの平凡な少年だった。

 掻取みくりが心酔したのは、虚構の世界に存在する架空の英雄だった。マッハ5の超音速で飛行し、常軌を逸したスペシウムエネルギーであらゆる敵を粉砕する不死身の男。

 真実と正義と美の化身。

 巨大で、強くて、しかも寡黙。本名も素性も明かさず、人間のために身を挺し命を賭けて混沌と戦う。正義のため、秩序のため、愛のために自己犠牲も厭わずに無辜の人々を庇護し続ける。

 英雄特有の《救済器官》が活性化すれば、人助けをすれば、敵と対峙する戦場に行けば、悪鬼を打ち倒せば、憧憬の対象たる銀色の巨人のようになれるのではないか。

 皆からの羨望と憧憬を一身に集め尊敬される――そんな英雄に。

 五才の子供が胸に抱いた泡沫のような夢である。それでも、いつか実現できると思っていた未来だ。

 だが。

 2014年2月3日、その夢は獰猛な火災旋風に晒される街と共に灰燼に帰す寸前だった。


 その日は掻取にとって五度目の誕生日だった。本来なら外食する予定だったのに、自分が駄々をこねたから自宅で誕生日を祝う事になった。

 その日は節分だった。誕生日ケーキを平らげた後に、家の庭で豆まきをするつもりだった。父が鬼のお面を被り、自分が鬼役の父に向かって豆を投げる手筈だ。縁側にあるゴムのスリッパを履き庭に出て、庇の下で豆まきの準備をしている両親の方を振り返った直後、

 光った。

 そして、暗転。

 何が起こったのか、まるで分からなかった。

 意識は、まず最初に肌を焦がすような熱を感知した。それから思わず咳き込みたくなるような煙の臭いと、目に焼きつく炎の赤と、ぬるりとした血の感触。耳鳴りも酷く、燃える家の構造材が弾けるような音をけたたましく鳴らしているのを聞き取るまで随分と時間が掛かった気がする。

 気付いた時にはもう既に、掻取家は変わり果てた街並みの景色の一部へと成り果てていた。

 燃え盛る家は刻一刻と崩れ去り、幾重にも折り重なった梁の下から両親の手と足が見えた。血で濡れそぼった赤黒い手と足。父も母も訳が分からないまま梁に潰されて死んだ。

 掻取もまた出血していた。脇腹に木片が突き刺さり貫通している。神経が死んでいるのか痛みは感じず、即死しても不思議ではなかった筈なのに、それでも生きていた。

 怒りと悲しみと虚無感が胸中で濁流の如く綯い交ぜになって、頭がおかしくなりそうだった。

 這うよりも遅い速度で片足を引き摺りながら壁伝いに歩き、喘息の発作など忘れ喉を灼く程の絶叫を夜に投げ、口腔から血を溢れさせながら赤と黒の地獄を見た。

 震災を彷彿とさせる惨憺たる有様だった。

 周囲三六〇度、どこを見ても倒壊した建物ばかりだ。鮮血のように噴き出す火の粉が絶えず宙を舞い、熱風に煽られ思わずよろめく。目の前で燃え落ちる家から人が飛び出してきて、炎に包まれたまま金切り声を張り上げながら焼け死んで真っ黒な遺体となった。通りがかった公園に設置された水飲み場の前で力尽き、うわ言のように「熱い」と繰り返した、ある女子の声が耳にこびりついている。

 どの道をどう歩いたのかも、どれほどの時間そうしていたのかも曖昧のまま歩いた。

 なぜ歩みを止めないのか、それはこの地獄を作り出した存在に心当たりがあるから。

 焼けてぼろぼろになったパジャマを着込んだまま、血眼でそれを探していた。

 それ、即ち敵である。

 なぜ街が地獄のように燃えているのか。

 なぜ両親や彼らは死ななければならなかったのか。

 この惨状を作り出した者が誰なのか、朦朧とした意識を辛うじて繋ぎ止めている掻取にとってそれは自明の理だった。

 この世界――ダイダロスには虚構だけではなく現実にも巨人が存在する。厳密に言えば、元々は人間だった者が紆余曲折を経て鬼へと変貌を遂げる。

 鬼とは、一般的に人間と同じ姿形をしているが頭部に生えた角と赤い虹彩、人間を遥かに上回る怪力と俊足を誇り、人間の血肉を主食として自らの血液を投与する事で人間を同族へと変える――異常な自己再生能力を持つ化物。

 人間の、敵。

 それがダイダロスの摂理。

 そして数多の鬼の中から極稀に巨大化能力を持つ鬼が出てくる。

《鬼神》と呼ばれる巨人である。

 鬼神は骨と肉と血液と内臓と鎧で出来ている。体高およそ40メートルから120メートル。皮膚を持たず筋肉剥き出しの真っ赤な肉体に幾重もの純粋鎧骨格を鎧い、その巨体からは想像できない程の途轍もない速度で地を駆けて莫大な質量を持った衝角兵器と化す。全ての武装は全射程(オールレンジ)を喰らい尽くす必殺のそれ。破格の装甲と途方もない機動力と恐るべき破壊力をその身に宿し、半径数キロに存在するもの全てを焼き尽くす爆発的暴力を惜しげもなく解放できる人智を超えた完全生物。

 掻取のような五才児でも鬼神の特徴はよく知っていた。常識である。

 だからこそ赤色航空障害灯が瞬き、炎に呑まれる超高層ビルの狭間にそれを認めた時に確信した。

 あいつが、敵だ。

 耳を劈く緊急避難警報を意にも介さず、焼き尽くした街を睥睨する鬼神がそこにいる。

 炎よりも赤い真紅のラインで禍々しく縁取られた巨躯、水銀よりも光沢のある白銀を纏う事で本来は露出している筈の筋肉を包み隠し、身の丈一二〇メートル程の威容を晒し屹立している。

 阿修羅、最強の鬼神だ。

 この世で最も恐ろしく、この星で最も進化した魂魄生物。

 原初の鬼神にあたる阿修羅は、他の鬼神の追随すら許さない程に長生きで死を知らない。何種類もいる通常の鬼が何十万体いようが全く歯牙にも掛けない他の鬼神であってさえ、阿修羅との差は絶望的なもの。尋常ならざる膂力を持つ鬼達ですら容易く一蹴するのが鬼神である。そんな一騎当千の鬼神達が九体ほど束になっても絶対に勝てない無敵の鬼神――それが阿修羅だ。

 そもそも鬼神は鬼一万体につき一体という極めて低い確率で誕生する突然変異個体だ。生まれる間隔も四半世紀に一度の場合もあれば、数百年に一度の場合とランダムにばらつく。そして有史以来じわじわと個体数を増加させていった鬼達は今年ついに十万の大台に乗ったばかり。

 つまり現代に至るまでの数千年間で生まれてきた鬼神達は、阿修羅も含めて僅か十体のみ。

 故に今この瞬間、眼前に広がる地獄を終息させられる程の鬼神化能力を持つ鬼は一体もいない。

 人間だろうが鬼だろうが有象無象の区別なく殺戮する阿修羅を斃せる者など、そう都合良く存在しない。

 そもそも阿修羅など最初から殺害できる存在ではないのだ、絶対に。

 ここで限界が来た。

 がくん、と崩折れて地面に転がる。出血と火傷が酷すぎる。

 どん、と地鳴りのような足音を響かせながら阿修羅が豪炎の大海原を闊歩していく。火災旋風の只中にいても恨めしい程に無傷のままだ。

 待て、行くな、俺はまだ死んでないぞ、俺が殺してやる、かかってこい。

 声にならない激情が喉元で蟠っている。悔しかった。敵を捉えたのに戦えず、誰も護れず、誰の仇も討てず、地面に伏して動けぬまま死ぬのか。

「くそ、くそ……くそ……っ!」

 力を振り絞り顎を持ち上げてみれば、深い藍色に沈む夜空は地上の惨状など関係なく星屑を散りばめ光が瞬く。その藍が滲んだ。

 罅割れた路面を一心に掻き毟る手が震え、絞り出す声が嗄れる。体から徐々に体温が血と共に失せていく。視界が霞む。意識の糸が解れ、千切れる――

 その時だった。

 声。

『戦いたいか』

 深淵から届くような反響を伴うダミ声が、脳内に直接響いた。

 以下、思念による会話が展開される。

『おい誰なんだ、お前は。一体何者だ?』

『高天原の神だ』

『高天原の神?』

『戦いたいか。無力な自分が許せないか。阿修羅が憎いか。その意思を果たせぬまま死ぬのが悔しいか』

 神はただ、それだけを問うた。

 ここに至り躊躇しなかった。敵愾心を燻らせたまま死ぬのは御免だ。相手が神だろうが鬼だろうが正体はどうでも良い、今はただ敵を撃滅したいだけだ。

『俺に、力をくれ』

『その意義や良し。だが、その代わりに俺様の命を手前にやる』

『お前の命を? お前はどうなる?』

『手前と一心同体になる。俺様だけじゃ下界で活動できない。そして共に阿修羅を斃す。号令を教える、合言葉が戦闘開始の合図だ』

『それを言うと、どうなる?』

『ヘァッヘッハ……心配するこたァねェ』

 そして幻術を体験した。海中に没する自分にかかる水圧の感触、水に呑まれ音がくぐもる鼓膜、暗い海底で煌々としたマグマを垂れ流す火山、噴火の逆光を従え仁王立ちする巨人の姿、目だけが怪しく光っている。

『姉御、適性のある奴を見つけた。やはりあんたの先見は凄まじい。これが最後の希望だ。こいつならば偽りの神すら喰い尽くせるだろう』

 瞬間、掻取みくりの茫漠とした意識が霧散した。

 

 そして、閃光と響音。

 次の瞬間にはもう阿修羅の背後に、新たな鬼神が出現していた。

 阿修羅が悠然と踵を返す。その鬼神は大火災の逆光を背負い、巨影の塊のような様相を呈していた。

 最強の鬼神と、不敵の鬼神が火焔に囲まれながら対峙している。

『くたばれ、害虫』

 鬼神は嘲笑う。炎上する街のどこかで鉄橋が限界を迎え、崩落する音が轟く。

『ほざくな、化物』

 阿修羅は侮蔑する。炎が路地でとぐろを巻き、配管から漏洩した都市ガスに引火してビルの二階に入っていた飲食店で爆発が起きた。

 恫喝という名の対等な交渉は決裂した。もはや言葉は不要だ。

 火の海を背景とし、二体の鬼神が巨大な影を罅割れた路面に刻みつける。

 ビル風による火災旋風の輻射熱によって空間そのものが熱を帯びているようだった。

 そして、化物の全身に力が漲る。

『よかろう。荒震神の闘争を見せてくれる』

 頬まで裂けた口が動き、最後通牒を突きつける。まるで地獄の釜の蓋が閉じるようだった。

 下界における術式の限定解除――緊急措置として管理者による承認を事後に回す。

 同化制御術式第零号、解号。

『滾れ、』

 阿修羅を駆逐するのは不可能だ。だが拮抗状態を作る事はできる。

 阿修羅に匹敵する程の鬼力と鬼圧を持った新種の鬼、その名は――


『《鬼界鍋》(きかいか)』

 餓鬼。


 夜が、沈む。

 それは、空間それ自体を海底に引き摺り込むような御業だった。

 鬼帝術鬼界鍋、起動。

 空間を形成するコードを任意の情報へ書き換える。世の理を無視する。荒震神は理に縛られない。質量保存の法則やエネルギー保存の法則という名の軛を呆気なく振り切る。

 地上に顕現した『海中』で、害虫と化物の死闘が始まる。

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