15 終活
こんにちは。
先日、終活をしている女性と話をした。
最近、プロのカメラマンに写真を撮ってもらったから、それをフォトブックにして娘に残したいのだけれど、迷惑にならないかどうかを悩んでいた。
とはいうものの、フォトブックはもう作っているのだけれど。そのフォトブックを見てもまだ迷いがあるようで。しかしその反面、別の感情が働いて、フォトブックを見ると泣きそうになるのだとか。
その「泣きたくなる気持ち」は私もよくわかった。
きっと、自分が亡くなった後に、それを見ている娘さんがいる未来に気持ちが飛んで行っているのだ。きっと実際に、その瞬間、魂は未来を経験しているのだと思う。未来を懐かしく思う、あべこべな現象。
私だってそういう瞬間はある。
母親と一緒に餃子を包んでいるとき、未来の私が私の中に入って来て、その時間を覗き見ていたりする。
そういう時は、とても懐かしくなって胸が苦しくなるのだ。こういう時があったなぁ、幸せだったなぁ、欠けているものが一つも無かった時代だなぁって。
今なのに、遠い未来の私が今を懐かしんでいるのだ。
私はフォトブックを残すかどうか悩んでいる彼女に「私だったら、絶対に嬉しいですよ」と伝えた。
「私は、今でも時々亡くなった家族の写真を見ますから。それに残す方も、自分が気に入った写真を見てもらった方がいいですもんね。きっと喜ばれると思いますよ」と。
こういう時「まだまだ元気なのだから、居なくなる日の事なんて考えるより、健康で一日も長生きする事を考えましょう!」なんて言う優しさもあるんだろう。
それはそれで正解なのだけれど、人は必ずいつかは死ぬのだ。その「いつか」のでリミットが自分よりも近い人に対して、その言葉だけで乗り切るのは不誠実だと思うのです。
だって、残される者が辛いのは当たり前ですが、大切な者を残していく方も辛いのです。そこに寄り添ってあげないといけない。
私は彼女の娘さんでは無いので、自分の尺度ではかるしかない。
口には出さないけれど「あなたはかなりのお年だから、近い将来亡くなるでしょう」という事を前提で話す事の精神のアンバランス感。現在元気な人を相手に。
失礼かもしれない。でも、その失礼を乗り越えないと会話にならない。あの不思議な感覚は例えようがない。
逆に病気の人には出来ないだろうな……。彼女が元気な高齢者だったから、出来たんだと思う。
がん闘病していた、ひぃちゃん相手には、そんな話はきっと真正面からは出来なかった。
「あなたの病気はこのまま進行して、命を奪うでしょう。病気は治らないです」と言っているのと同義だから。
それでも、向き合ってそれからの事を一緒に考えてあげるべきなんだろうな……。私はまだまだ、その強さまでは到達できていないな。
結局相談をしてくれた方は、娘さん二人に渡すと決めて、晴れ晴れしい顔になって帰って行った。
そう決めてからは、新しい趣味を作る話をされていたから、まだまだお元気でいてくださるだろう。終活をする事がフラグにはならないはずだ。
ずっと元気でいて欲しいなぁ。
みんな幸せが良いのです。大切な人と一緒に過ごす時間が何よりも尊い。
娘さんは、喜んでくれただろうか。その報告をしに来てくれたらいいな。
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