アノマライズドミステリー

うつみ乱世

一章 物質置換のリペアラーと絶対順守のコーデックス

第1話 管理人と助手AIの初日

 「世」—— この文字は、時間的な意味合いを持ち、「世代」や「時代」を指す。

 「界」—— この文字は「境界」や「範囲」を意味し、ある領域や分野の限界を示す。


 従って、「世界」とは文字通り「時代のスペクトル」や「人間活動の領域」を指す。

 しかし、一般的には「地球上の全域」や「宇宙全体」を意味することが多い。





 消毒剤の匂いがする部屋に二人の男性が並び立っていた。抗菌性のリノリウムも磨かれて、清潔な雰囲気が保たれている。

 スーツに杖の男が口を開く。


「私の視界に映るこの光景は一般的と言えるのだろうか?」

「世間一般で見かけるかといえば、そうではないでしょうね」


 白衣の職員が男の対応に当たっていた。


 二人は隣の大部屋をマジックミラー越しに眺めていた。硬さと冷たさを感じさせる無機的な空間。

 部屋には子供が四人いる。数学の問題に集中する者、時計の秒針を追いかける者、黙々と絵筆を動かしている者、ジャングルジムにぶら下がる者。


「ならば彼らの世界は普通のものではないのだろう」

「そりゃそうですよ。だってこの子たちの世界はこの施設の中にしかないんですから」


 子供たちは、まるでここが彼らの全世界であるかのように、その空間に溶け込んでいた。


「つまり彼らは自分の目に見えている世界しか知らない、ゆえに、一般的な『世界』観を持たないということか?」

「それに何か問題が?」

「では君は世界の何を知っているのか?」

「管理人すらも彼らと同じだというのですか?」

「誰一人として例外はいない。『世界』という言葉は全ての人類に分不相応なものだ」


「得てして、非実在を想定することで理論は発展するのではないですか? 哲学に限らず数学や物理だって。それこそが知性的な振る舞い、我々を万物の霊長足らしめている所以でしょう。まあ、それが週末のパズルを解くときにどう役立つかは別問題ですが」


 目の前に見えている以上の「世界」を想像できるものが人間だというならば。


「では君が我々と違うと主張する目の前の彼らは人間ではないというのか?」


 白衣の職員は嫌味に笑った。


「これにて中央セクターの紹介を終わります。一時間後にオペレーショナルルームへお越しください、とのことです」

「一時間……なぜだ? 私はすぐにでも働くつもりだったが」

「さあ。助手さんが考えていることの全てを推し量るのは、我々には難しいことですから」





 最先端の機器が立ち並ぶ統括オペレーショナルルーム。静かな駆動音が空間を満たす空間へと、男は杖を突きながらゆっくり立ち入った。

 彼の黒いスーツを近くで見れば、織り込まれた微細なシルバーストライプが光の加減でさりげなく輝く。裏地は深いエメラルドグリーンのシルク。胸ポケットに銀の名刺入れがピタリと収まることなどからも、こだわりの詰められた逸品であることが垣間見える。

 中央のコンソールに近づくと、壁一面の大きなディスプレイが静かに点灯し、彼を出迎えた。施設全体の状況が一望できるようにデザインされたこのディスプレイは、彼がこれから取り仕切る業務の中枢である。


 コンソールの横にあるホログラフィックプロジェクターが活動を始め、男の前に女性のビジョンが現れた。


《お疲れ様です、新たな管理人》


 月光を思わせる銀色の髪が流れるように彼女の周りを舞う。テクノな空間に幻想的な気配。

 ビジョンは細部まで精巧に作られており、彼女の顔には表情が見て取れた。その表情は柔和でありながらも、ある種の非現実的な完璧さを備えている。

 衣装は光の反射によって変わる色彩。浮かぶ流線形の輝きは、データが転送されるイメージのようである。


《初めまして。私は施設運営を円滑に行うことを目的とするAIです。ぜひ気軽に『助手』とお呼びください》


 人間の声帯から出るものとは微妙に異なる電子的な響きがあった。


《どうぞこちらに》


 男は勧められるがままに中央の椅子に座った。

 彼の前のコンソールには、一杯の酒が置かれている。丸く削られたばかりの氷が陽炎のように溶け出していた。


「悪いが職務中に酒は飲めない」

《それは遺憾です。前の管理人が酒浸りだったので、つい》


 男は不審そうな目で助手を見つめ、疑い深く尋ねた。


「酒浸り? この施設の運営はきちんと行われていたはずだろう」

《彼には彼の方法があったわけですが、私たちは異なるアプローチを取ります。例えば私はアルコールを消費することはありませんが、データ処理速度を上げるために追加のRAMを求めることが——》

「お前が全て代わりにやっていたということだな」


 助手は柔らかく笑った。


《施設の効率と安全は最優先事項です。適切な管理が行われない場合、厳しい措置が取られることがあります。私たちはここで最高の成果を求められています。ですから新たな管理人、あなたにはきちんと職務を果たしていただくことを期待しています》


 男はグラスに手をかけた。助手がモニターに手をかざすと、ボトルが表示される。


《このウイスキーは長い熟成期間を経て、その複雑なフレーバープロファイルを構築しています。組織社会の成熟過程と似るところがあるでしょう》


 男はここにきて初めて、手元にある酒の意味を真に理解した。ただの試験かと思っていたが、しかし歓迎の意味でもあったのだ、と。

 試験である以上、飛びついてはいけない代物であって、しかし歓迎でもあるならば、全く手を付けないのは礼を失している。

 男は今、この仮想の人工知能に、目には光の集合に見える存在に試されていたのだ。


「前の管理人はマニュアルに則ったプロセスで粛々と処理されたのだろうな」

《直接お伝えするのは憚られます》


 一口だけ口を着けて切り上げる。


「では私はこれから何をすればいい」

《西セクターを占拠している敵性武装集団を一掃するところから始めるのをお勧めします》

「なんだって?」


 男は唖然として聞き返した。


「なんでそんな火急の要件があって一時間も待たせたんだ?」


 その表情は助手にとって期待通りの反応だった。助手は口角を上げて返す。


《こんなことは日常茶飯事だからです。ちなみに一時間以内に中央セクターも攻撃を受けて、この施設は完全に陥落することになるでしょう》

「悪い、よく聞こえなかった」


 ここにきて助手のビジョンはノイズを伴って大きく動き、お腹を抱えて笑い始めた。右手にpdfのアイコンを浮かべながら。


《責任問題に関する人員処理のマニュアルはこちらです》


 その声は先の静かで知性的なそれとは打って変わって、無邪気で生意気な子供のようだった。


《ああ、ようこそ新たな管理人。酒でも飲まなきゃやってられない職場へようこそ》

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