第50話 その4「どっちも言ってやるもんか、ばかぁっ!!」
遮るものは何もない空の上、私と健司義兄さんは当たり前のようにそこに立って向き合っていた。
「――玲奈、正解だよ」
目を細めて薄く微笑む健司義兄さんの声は今まで聞いたどれよりも優しかった。
それなのに、続いていた胸のざわつきがここに来て急に大きくなる。笑ったのに儚げな、そんな健司義兄さんの笑顔が私を不安にさせる。
刹那、下に広がっていた薄暗い【奈落】から無数の腕が伸びた。
ぬるりとした黒い腕たちは迷うことなく一直線に健司義兄さんへと向かう。
健司義兄さんも気づいているはずなのにまったく動こうとしない。それどころか、ちらりと下に目をやり【奈落】を見ると安心したように笑った。
「ああ、これは先に返しておかないと」
ポケットから手を出すと握っていた拳を広げる。手のひらの上に赤色と水色の光の球がふわふわと浮かぶ。なんの光だろうと思った瞬間、【奈落】から伸びた数本の腕が健司義兄さんの手を掴み、あらぬ方向へとねじ曲げた。
「――――!!」
私の声にならない悲鳴が耳に届く。
その声に反応したかのように更に数本の黒い腕が健司義兄さんの反対の手を掴んで無造作にひねり上げた。健司義兄さんからうめき声が漏れる。
どうして【奈落】が健司義兄さんを襲う? 私がゲームに勝ったから? 私は答えなんて分からなかったんだよ!
「このゲームはどんなに考えても船長の年齢など求めようがない。最初から情報がなかったからな。だから、
更に増えた黒い腕が健司義兄さんの足をからめ取る。ジャケットをはぎ取り腹を押さえる。次々に【奈落】から腕が伸びてくる。
「なんで【奈落】が――もう、デスゲームは終わったんじゃないの!?」
【奈落】ってなんなの? 健司義兄さんをどうする気なの!?
健司義兄さんを助けたいのに身体が動かない。たった数メートル先なのに一歩も足が踏み出せない。
そうしている間にも黒い腕たちは健司義兄さんを掴み頭を押さえ込む。健司義兄さんはそれに
「玲奈、さよならだ」
その台詞を待っていたかのように黒い腕が次々に健司義兄さんに絡み付く。腕も足も身体も頭も、黒い手々がもみくちゃにする。
【奈落】から這い出た腕たちが健司義兄さんに纏わり付いて
その時、私の目の端をふたつの光が横切った。それは赤色と水色の小さな光で、お互いを追いかけるように螺旋を描きながら飛翔し、私の目の前で止まった。
健司義兄さんが返すと言ったふたつの光。
力強く輝く赤色と、優しく
その光がスーッと私の中に入った瞬間、これまで体験したことがない程に心臓が激しく鼓動し全身に熱い血が流れるのを感じた。それと同時に足が動く。一歩、二歩、三歩、空を走りながら天地がひっくり返るのを感じる。違う、上も下もないこの空の中、踏み出すごとに私が回ってるんだ。
目の前にいた健司義兄さんが、右、上、左へと目まぐるしく移動する。
黒い腕たちが健司義兄さんを真下へと遠ざける、【奈落】が頭上から降ってくる。
私は右手で手刀を作ると【奈落】の腕たちへと向ける。そしてそのまま大きく腕を振る。
びゅん、私の右手がロープのように変形してしなり、数メートル先の腕たちを切り裂いた。
【奈落】から切り離された腕たちは黒い粒子となって流れていく。残った健司義兄さんが頭から落ちてくるのをロープの腕を伸ばして捕まえる。私の腕が健司義兄さんに絡み付く。そのまま任せに手繰り寄せて彼を抱きしめる。
「健司義兄さん!」
見れば、腕や足や胴体など、身体の至る所に黒い腕がえぐり取った穴が開いていた。仮想世界の身体でも、血は出るし、痛みも感じる。それは私も体験してきたことだ。こんなの耐えられるはずがない、酷すぎる!
「――助けたのか」
顔の半分を奪われた健司義兄さんが私の腕の中で呟く。
「なんで健司義兄さんがこんな目に」
「分かるだろ、【奈落】が誰を飲み込みたいのか」
「そんなの分かんないよ」
「分かるはずだ。ここに来るまで【奈落】は現れなかっただろ」
健司義兄さんは笑ってみせたがその顔は左半分しかない。
ちらりと、目の端に黒い線が入り込む。目で追えば真下にある【奈落】からまた黒い腕が生えてきていた。何もない空をまさぐる腕たち。
健司義兄さんに近づけちゃいけない――私が身構えて睨むと、手々たちはびくりと縮こまり私との間に距離を取った。
私が居れば健司義兄さんを襲えない? 私はこれまでのゲームのことを思い出した。
デスゲーム中、【奈落】は当然のように出現していてゲームの敗者を吸い込もうとしていた。それは裏を返せばゲームに参加した誰かを捕らえたかったということ。けれどもそれは私じゃない。そして、現れなくなったのは〝捕まえるべき相手〟がゲームに参加していなかったから?
【奈落】が出てこなくなったのは『正義の天秤ゲーム』から。その時からゲームに参加していなかったのは――健司義兄さんと話していた時から感じていた不安が一気に線となって結びついた。
――健司義兄さんがいなくなってから【奈落】は現れなくなった。そして今、健司義兄さんに向かって【奈落】が現れた。
「
まるでひとり言のように健司義兄さんが呟いた。
「どうやら間に合った」
「間に合うって? 私が健司義兄さんのこと、思い出したことが?」
「玲奈の覚醒を
私を見ることなく健司義兄さんは淡々と話す。
右半分の顔があった場所から
もう一度、健司義兄さんに視線を戻す。
きっと、私が考えているとおりなんだと思う。けれども、もしかすると私の勘違いかもしれない。だから、やっぱり、はっきりと本人の口から聞かせて欲しい。
「……そうか」
健司義兄さんは半分の顔で苦笑すると、手を振って自分を立たせるように指示した。そして、空の一部に足をかけると、心配して支えようとする私を追い払い、穴だらけの足でヨロヨロと立ち上がった。
私と向かい合った彼の身体には黒い手々にえぐり取られて落ちくぼんだ穴が至る所にあって、そこから溢れる血が風に流れて消えていく。
そのような状態なのに彼がひとりで立とうとしたのは、私に心配をかけたくなかったんだと思う。
彼の左目が私を捕らえる。私は黙って頷いた。
「――玲奈を覚醒させるために俺は消える。きちんと目覚めろよ」
彼は穏やかに言った。その声は小さかったけれど、私の耳にはっきりと聞こえた。
私の勘違いだって言って欲しかったけれど、やっぱりそうではなかった。
過去の私は心のどこかで母さんがなくなったことを彼のせいにしてしまったんだと思う。だからもう、会いたくなくて、忘れたくて、私の心は暗い闇へと沈んでいった。
何もかも消してしまいたい、闇の中でそう願って生まれたのが【奈落】。
きっと本当は私の中の全てを食い尽くすはずだったんだと思う。それが
けれどもそれは
「母さんがもういないのは分かってる。でも大丈夫だよ。だってちゃんと母さんとの思い出があるから」
胸が苦しい。それは思い出が消えていた恐怖を知ってるから。
母さんのことを思い出せて本当によかった。あんなに大切だった母さんの事をどうして忘れたいと思ってしまったんだろう。
自分の記憶は絶対に手放しちゃいけない。そうはっきりということができる強さを私はアネットとイムからもらった。母さんの思い出も、アネットやイムの思い出も、そして健司義兄さんの思い出も大事。
もう過去の私みたいに消してしまえばいいなんて思わない。むしろ逆、これから生きるのに忘れちゃいけない、大事に持ってなきゃいけないんだ。
そうだよ、母さんはもういないけれど、彼はまだ居るんだ。
彼は現実世界で私が目覚めるのをずっと待っていてくれて、ここまで起こしに来てくれたんだ。
会いたい、猫なんかより、司なんかより、本当の彼に会いたい。会って言葉を交わしたい。
「健司義兄さんのせいじゃないからっ――だから、私から健司義兄さんとの記憶を奪わないで!」
考えるより先に私は叫んでた。
そんな私を、彼は目を細めて笑った――半分だけの顔で。
「嬉しいときは、ありがとう、だな。玲奈」
彼が口にした言葉、それは彼の口癖。突然、初めてその言葉を聞いた時の記憶が蘇る。
『嬉しいときは、ごめんなさいじゃなくてありがとう、だろ』
家族のように話せるようになってからの頃。
冷たい態度を取ってしまったことを謝ったとき、彼は私の頭を撫でながら言った。それで私の心は不思議と軽くなった。
それからだ、私が謝ろうとするたびに彼がこの言葉を口にするようになったのは。
――私はね、その言葉に救われて、いつの間にかその言葉をアネットやイムに言ってたよ。
今の彼の笑顔にあの時の顔が重なる。
それは顔の半分しかないけれど、今の私には充分だった。
つっと、私の頬に何かが伝う。止めようと意識するとそれはますます止まらなくなった。
私はそれが何かを知ってる。けれども、認めたくなくない私は流れるままに任せた。
「私は、私は――」
口を何度も動かしたけれど、ここから先の言葉が続かない。本当はもっと何か言いたいのに、心の中がいろんな言葉で溢れてるのに、喉が詰まって何も声に出来ない。
そんな私を見て、彼の半分だけの口が開いた。そして、ゆっくりと動いた。
上に、横に、更に横に、また上に、そしてすぼめた。
とても離れているのに、その5つの言葉がなんなのか私にははっきりと見えた。
なに言ってんの、そんなの当たり前じゃない!
私の声にならない声を聞いて彼は左目だけで笑った。
それが最後だった。
私の見ている前で健司義兄さんの身体から力が抜けた。
健司義兄さんが空から落ちる。その先には切り裂いた空間から顔を覗かせる薄暗く蠢く【奈落】。淵から這い出た黒い腕たちがこちらの様子を
一瞬見えた遠ざかる彼の顔――目を閉じ、ただひとり笑みを浮かべていて。
【奈落】の闇の表面が波立つように蠢く。そこに彼が沈む。同時に無数の腕がその後を追った。
私は音も立てずに
みるみるうちに【奈落】が小さくなっていく。それは、私から遠ざかっているからなのか、切り裂かれた間が修復されていくからなのか、それとも別の何かのせいなのか私には分からない。
今の私が分かることは、私がこの世界から弾き飛ばされようとしていること。そして、彼にここまでさせてしまったという事実。
彼の気持ちに私はなんて応えればいい? ごめんなさい? ありがとう? そんな単純にどちらかに決められる程度なの? どちらの感情もある。ううん、そうじゃない、もっといっぱいの感情が心の中に渦巻いてる!
「嬉しいときは、ごめんなさい、じゃなくて、ありがとう?」
透明な空だけの世界が急激に遠ざかっていく。私の意識がこの世界からはぎ取られようとしている。
「どっちも言ってやるもんか、ばかぁっ!!」
私は無色に還元されていく世界に向かって叫んだ。
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