第49話 その3「そうだよ、答えなんて分かんなかったよ!」


「ゲームスタートってことだよ」健司義兄さんの言葉と共に足元の水面が一瞬にして消えた。


 落ちるっ! と焦ったけれど、私は元の位置に立ったまま何も変わらない。何もない空に健司義兄さんとふたりで立っている、そんな不思議な空間だった。

 私の知っている空はもっと青いはずなのに、ここは白い下地に水色の液体を薄く伸ばしたような微かな空色だった。透き通っていて澄んでいるけれど、それがかえって平面のように見えた。


 そうか、これは「トリックスターの遊戯」の最後と同じなんだ。

 あのシーンは透明なガラスの橋を渡した空の上に、あけぼのを抱いた春夏秋冬ひととせつかさと助手の少年とその彼女、そして敵組織の司の父親ボスが居た。そして、少年と父親ボスの真ん中に立った司は過去の清算か未来の希望を迫られ、悩んだ彼女は少年に別れを告げて父親ボスと共に転落する道を選ぶ――そんな悲しい場所だった。


 それを思い出した瞬間、今まで感じ取れなかった空気の冷たさに気づいた。ゴーという音と共に打ち付ける風に当てられ、私は地上からはるか高い場所に立たされているのだと知った。


「玲奈、これからゲームする。いいな?」


 反対側に立っていた健司義兄さんの落ち着いた声がはっきりと聞こえる。グレーのジャケットの裾が風にはためく。

 最後のゲーム、それは健司義兄さんが出す問題に正解できるかどうか。けれども、その問題は私には絶対に解けないものって言ってた。正直こわい、どうしてなのか分からないけど胸がざわつく。逃げたい? ううん、そうじゃない。


 こちらを静かに見つめる健司義兄さんに、私は大きく頷いて合図を送る。

 私たちの間にひとしきり激しい風が通り過ぎた後、健司義兄さんはゆっくりと口を開いた。


「『ある船に羊26頭と山羊10頭が乗せられている。この船の船長の年齢は?』」


 それだけ言うと健司義兄さんは口をつぐんだ。風が流れる音だけが聞こえる。


「……それだけ?」


 恐る恐る聞いてみると、健司義兄さんは「そうだ」と言って首を縦に動かす。


「何かヒントとか、問題に説明が抜けてるとかじゃないの?」

「これが問題の全てだ、ヒントもない」


 そう言って口をつぐんだ健司義兄さんの目はどこか冷たい。感情が消えた顔、ちょっとこちらを見下しているような顔をする時は、本当に真剣なんだと思い出した。


 ならば、与えられた情報のみで考えるしかない。

 羊26頭と山羊10頭、足せば36だから船長は36歳? いやいや、どうして山羊と羊の数が年齢になるんだ? 何頭いるかと船長の年齢って全然関係ない。

 年齢ということに焦点を当てるなら、羊や山羊の年齢を足せば船長の年齢になるってこと? って、あの問題だけじゃ羊や山羊の年齢なんて分かんないよ。もしかして出荷に適した年齢とかあるのかな? でも単に船で移動してるだけかもしれない。


 考えていると頭に血が上って熱くなってくる。その熱を強く吹く風がさらっていく。

 健司義兄さんに目を向けると、グレーのジャケットの裾が強風に煽られても微動だにしてない。ただ私だけをじっと見つめている。


 これくらいで健司兄さんに頼っちゃダメだっ。

 パシンッ、自分の頬を両手で思い切り叩くと大きく息を吐く。

 よし、大丈夫だ。もう一度はじめから考えよう。


 この問題は船長の年齢、つまり、数字を当てることが勝利条件。なので、数字に関連することや結びつくことがヒントになるはず。与えられた情報からそれらしいことを抜き出してみよう。


 船長はひとり、船も一隻――私は親指と人差し指を折る。

 他に船員がいるかどうかは分からない、乗っているのは羊と山羊で2種類、いやいや、船長が人だとすれば3種類――中指、薬指、小指と折っていく。

 船の建造年数……は分からない、そういえば、この船は川を渡ってるのか海を進んでいるのかも分からない。船の重さ、も分からない。羊や山羊の体重だって分からない――反対の手の指を4本折る。

 やっぱり羊の26と山羊の10がヒントなのだろうか? けれども、大人と子ども、オスとメスの数も分からないのに、これ以上なにを考えればいいんだろ――私は立ったままの小指を見て途方に暮れる。


 結局、何も分からないことだけが分かった。

 見つめる小指を通して向こうにいる健司義兄さんを見る。10メートルも離れていないのに、見た目以上に距離を感じる。

「お願いだからヒントが欲しい」と口を開きかけたけれど、私は首を振ると口を固く結び直した。

 絶対にヒントなんてくれるわけがない、それどころか〝あけぼの〟のように上から目線で「こんなこともひとりで考えられないのか?」と嫌味が返ってきそうだ。本当に生意気だったよ、あの小猫は。


 〝あけぼの〟? こんな時にどうしてそんなこと思ったんだろ?

 本当の〝あけぼの〟は「トリックスターの遊戯」に出てくるロシアンブルーの小猫で、春夏秋冬ひととせつかさが唯一心を許せる存在で、当然だけれど喋らない。目の色は確か金色だったし、司にだけは愛想がよくてすごく懐いてた。


 対して仮想空間この世界の〝あけぼの〟は、健司義兄さんが勝手にイメージした〝あけぼの〟で、人の言葉は話すし、目の色は違うし、生意気で上から目線だった。本当の〝あけぼの〟がどんな口調で話すかなんて健司義兄さんだって分からないはずだ。


 ちらりと健司義兄さんに目をやると、相変わらず無表情な顔でこちらを見つめている。〝あけぼの〟のことを考えていたせいで、健司義兄さんとあの小猫の顔が重なる。


 あの〝あけぼの〟は自分だと気づかれないように健司義兄さんなりの〝あけぼの〟を演じてたのかもしれない。それとも、気づいてもらいたくて素のままだったのか。

 健司義兄さんがそのどちらを選んだのか、私には分からない。もしかすると健司義兄さんも決めかねて、演じつつも素も出してしまっていたのか――ダメだダメだ、余計なこと考えてちゃ。ゲームに集中しなくちゃ。


 何も分からないことに現実逃避してしまった自分を反省しながら、私は健司義兄さんに向き直った。距離は5、6メートル。健司義兄さんは表情も変えずに無言のまま私が何か言うのを待っていた。


「あのね、私、真剣に考えたけんだけど、なんにも――」


 そう言いかけた瞬間、私たちの間を突風が吹いた。

 思わず身構えた私の目の前の空間に亀裂が走る。その裂け目は左上から右下へと伸びていく。

 空を裂いた線からじわじわと黒い染みがにじみ出す。それは空だった空間を侵食し、この世界に侵入しようとしていた。


 ずるり、と這い出る薄暗い闇。音も光も空間も何もかも飲み込む、黒くうごめく塊。

 それを見て、背筋が凍り身体が固まる。目を背けたいのに目を離すことが出来ない。


 私はこれを何度も見てきた。全てを飲み込んできた黒い闇――そう、【奈落】だ。

 

 動けないでいる私を気にすることなく【奈落】は自分の周りの空間を飲み込み私たちの下に広がる。その淵はまるで繊毛のように波打ち、確実に空間を捕食していく。


「どうやらここまでだ」


 足元で渦巻く【奈落】を一瞥した健司義兄さんが呟く。


「玲奈、答えは分かったか?」

「こ、答えって、なに言ってんの!?」

 

 【奈落】が出てきたのにゲームなんてしてる場合じゃないでしょ? このままじゃ私たち飲み込まれちゃうんじゃないの!?

 見れば【奈落】は確実に空間をむしばみ、私たちが落ちてくるのを待ち構えていた。

 焦る私に、ポケットに手を入れたままの健司義兄さんはもう一度質問を繰り返す。


「どうした? 答えることができないのか?」

「そんなこと言ってる場合なの? 逃げようよ! どうやったら動けるの!?」


 さっきから足を動かそうとしているのにまったく言うことを聞いてくれない。いつの間にか身体ごと空中に固定されてしまったかのうようだ。

 これは何もかも吸い込もうとする【奈落】の力なのだろうか。


「答えられない、つまり、玲奈の負けってことでいいんだな?」

「勝ちとか負けとかそんなこと言ってる場合なの!?」

「答えられるかどうかを聞いてる」


 【奈落】が徐々に迫ってるのに健司義兄さんは眉ひとつ動かさずに冷静なままだ。ポケットに手を入れたまま、ただじっと、まっすぐに私だけを見てる。

 なんでこんなにゲームにこだわってるのか、私には訳が分かんない。


「あーもー! 私には分かんなかった。これでいいでしょ!」

「それが玲奈の答えでいいんだな?」

「そうだよ、答えなんて分かんなかったよ!」


 怒鳴ってしまった後に言い過ぎたと後悔して健司義兄さんの顔色を見たけれど、健司義兄さんは気にする様子もなかった。

 それどころか、ゆっくりとこちらに身体を向けた健司義兄さんはうっすらと微笑んでみせた。


「『答えは分からない』――玲奈、正解だよ」


 瞬間、黒く蠢く【奈落】から無数の黒い腕が伸びた。


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