第48話 その2「目覚めなければそれが夢だったと気づけない」
「俺とゲームをしよう」――健司義兄さんの言葉は突然で、私には意味が分からなかった。
私たちふたりだけが居る世界は、水平線を境に空と水に分かれていてそれ以外には何もない。
そんな透明な世界で発せられた健司義兄さんの声はあっという間に消えてしまって、少し斜に構えて私を見る彼の姿だけが残った。
動けないでいる私を見て、健司義兄さんは口元に笑い
だって、ゲーム? ここで急になんで? でしょ?
「それは
健司義兄さんが応える。
けれどもやっぱり分からない。私が現実世界に戻ること――
口を開こうとした私を、健司義兄さんは首を振って制止した。
「もう理解していると思うが、玲奈は
そのような治療の方法があることはニュースで知っていた。病人の脳に直接働きかける医療技術で、コンピュータによって作られた仮想空間の中で病人に接触して治療をする。私がこれまで体験してきたことも治療行為の一環なんだと今ならなんとなく分かる。
「原因は重度な障害によって脳内の電気信号の一部停止、または正常とは異なる信号伝達を始めてしまったこと。覚醒させるには脳内ニューロン信号の経路を変えなければならない。なので、脳神経細胞の障害部分を迂回してニューロン同士を正常値になるように結合し直せばいいということになる」
健司義兄さんは静かな声でゆっくりと説明してくれたけれど、理工学部の大学に通っている健司義兄さんと違って高校生の私には半分も意味が分からない。
で、その脳内の電気信号といきなりゲームをしようってどんな関係があるの? ――顔だけでそう言ってしまったんだと思う。健司義兄さんは私の表情を見て声に出さずに笑うと身体を私の方に向けた。
「
「え、それって――」
驚く私に、健司義兄さんは無言で
アネットの笑った顔とイムの喜んだ顔が脳裏をかすめる。
一緒に苦労したことも一緒に笑ったことも楽しかったことも悲しかったことも、全部が消えてしまうってこと? そんなのはイヤだ。
「だから、
そう言った健司義兄さんの表情はいつにもまして落ち着いて見えた。
健司義兄さんがそう言うんだからそれしか方法はないんだと思う。けれども、私の頭に負荷をかけるってどんなゲームをやらされるんだろ。命のやりとりをしていた、今までのようなデスゲームを健司義兄さんとやるなんてないよね?
私がよほど不安そうな顔をしていたのか健司義兄さんが優しく微笑んだ。
久しぶりに見たその笑顔は、本当はいつも間近で見ていた筈なのに、本当に懐かしい気がした。それは、普通に冗談を言い合えることが当たり前になってから見せてくれるようになった笑顔。
ナチュラルに上から目線でいろいろ言ってくるクセに、最後は必ずその顔で待っていてくれた。だから私は安心できたんだ。
「俺が出す問題に答えられるかどうか、たったそれだけの、ゲームというよりクイズのようなもの」
「うん……分かった」
「けれど、玲奈は正解しなければならない。この作戦のポイントは2つ。1つは到底クリアできる筈がないゲームに玲奈が勝利すること。これによって脳内ニューロンに高負荷がかかるばかりではなく、それを処理するために
「だ、だったら簡単なゲームにして! 私にも勝てそうなやつ! 『トリックスターの遊戯』のゲームだったら私も覚えてるから」
「玲奈が簡単に勝てるゲームでは
健司義兄さんはまるで駄々っ子をたしなめるように首を振る。私には勝てないゲームを出すから勝ってみせろって、そんな矛盾したこと出来るわけない。
「それでも、玲奈は勝利しなければならない。仮想空間での記憶を保持するのはそれだけ大変だってことだよ。大丈夫、死ぬわけじゃない。玲奈が勝てばここの記憶は
私が勝たないとアネットとイムの思い出が消えてしまう。ふたりはプログラムだけれども、彼女たちと経験してきたこと、感じたこと、たくさんの気持ちはなくしたくない。私はふたりの思い出を持って健司義兄さんと現実に戻りたい。
健司義兄さんがそこまで言うんだからよっぽど難しいゲームに違いない。そして、それに勝たなければならないってことは、健司義兄さんに勝てってことなんだと思う。
私はゆっくりと深呼吸をする。
見渡す限り空と水だけがどこまでも続く世界。この世界の間に、健司義兄さんだけがいて、涼しげな目で私を真っ直ぐに見つめていた。
――うん、勝ちたい。勝ってアネットとイムとの思い出を守りたい。
「分かった。やるよ、私」
私の決意は水面を
健司義兄さんは黙って頷く。少し俯いて笑ったその顔はどこか満足げだった。
「やるからにはぜったい健司義兄さんに勝つから」
「もちろん、そう簡単には勝たせやしないよ」
「私に負けて悔しがる顔が今から楽しみ」
「負けて泣く顔が目に浮かぶよ」
「健司義兄さんの?」
「玲奈のだろ?」
そして同時に顔を
今の私の気持ちを表すかのように、ふたりの間には幾つもの波紋が行き交い重なりあっていた。私たちの声に紛れて水面を走る波の音もしているような気がした。
不意にふたりで「トリックスターの遊戯」を観ていたあの頃を思い出す。楽しかった思い出。
「そういえばどうしてなんだろ、って思ったんだけど」
ひとしきり笑い合った後、私は尋ねた。
「健司義兄さんは私を起こすためにここに来たんだよね? そういうのってお医者さんとか病院の関係者がやるんじゃないんだ」
「俺が無理に頼んだ。実際には
「それって誰でもなれるもんなの?」
「誰でもって訳じゃない。簡単にいえば患者と最も波長が合う人間が選ばれる。そして、
「ふたりに共通することがこの世界になるんだ」
なるほど、私と健司義兄さんに共通する記憶、それが「トリックスターの遊戯」のデスゲームだったんだ。
共通する世界を体験させることで現実世界の記憶を呼び起こし目覚めのきっかけにする。それを補助するのがアウェイクナーって役目の人で、健司義兄さんは〝あけぼの〟になってそれになった。だったらもっと素直にその役をやってくれればよかったのに。
そう思った私はあることに気がついた。この世界を創った記憶は「トリックスターの遊戯」だけじゃない、もうひとつ、この世界には物語があったこと。
刹那、健司義兄さんが微かに身構えた。あ、今の私、すごく悪い顔をしてるに違いない。
「今の話って、この世界が私と健司義兄さんの共通する記憶で出来てるってことだよね?」
「待て。いま何を言おうとしてるか予想できたが、それは玲奈の勘違いだと先に言っておく」
「そんなこと言ったって実際にそうなんだから言い逃れはできないと思うけど?」
彼は顔をそらして動揺を隠そうとする。やっぱりそうだ、知らないなんて嘘。私はここぞとばかりにふんぞり返ると、
「本当は知ってたんでしょ、フォーチュネ?」
「そのゲームは知らないです、本当にごめんなさい」
間髪入れずに健司義兄さんが頭を下げる。彼のその返事は、話をするきっかけが欲しくてあたふたしていた私が勢いで聞いたあの時と同じ。けれども、あの時と違うのは私がこの世界でフォーチュネの世界を体験したという事実。
「――と言っても、玲奈は信じないよな?」ゆっくりと頭を上げた健司義兄さんに私は鼻を鳴らして応える。
「とーぜん。健司義兄さんも知っていたから、ここにフォーチュネが交ざって私が
健司義兄さんが〝あけぼの〟になったのは私が「トリックスターの遊戯」を読んでその小猫を知ってたから。だったら逆もまたおんなじ。私が〝レナ〟になったのも健司義兄さんが「フォーチュネイト・エターナルストーリー~君が巡る永遠~」を知っていたから。
「どうして知らないなんてウソ言ったの?」
「それはだな……」
健司義兄さんにしては珍しく言いよどむと、横を向いて鼻の頭を指で掻く。そして、
「男で乙女ゲーやってるなんて言うの、恥ずかしいだろ?」
ポツリと呟くと俯いてしまった。
なにそれ! 私もオタクだよ、だからなんにも恥ずかしがることないのに! 真夜中にあれだけ熱く「トリックスターの遊戯」のこと語れたのにフォーチュネは恥ずかしいの!? だったらどっちも恥ずかしいよ。
思わず吹き出しそうになって慌てて口を押さえたけれど、零れた笑みが水面に落ちて小さな波紋を作った。その波は健司義兄さんに届くような大きさではなかったけれど、健司義兄さんは耳まで真っ赤にするとプイッとそっぽを向いてしまった。
いつも落ち着いていて、どちらかというと私を子ども扱いしていた健司義兄さんがこんな態度を見せるなんて以外だったけれど、それはきっと、この世界で〝レナ〟と〝あけぼの〟として過ごしたことも影響してるんだと思った。あの関係があったから、私は今、健司義兄さんを「物知りな年上の家族」からもっと身近な存在に感じられてる。だから、取り繕うことなく
「――どうやら時間を使いすぎたようだ」
私の笑みを遮るように健司義兄さんが唐突に口を開いた。その顔にさっきまでの羞恥心はない。
突然、気配が変わった。いつの間にか水面は波紋を消し、張り詰めた静寂を映し出していた。
見える空と水面は変わらないのにその場を凍らせる緊張に私の身体は固まった。
「玲奈、どうやら時間が来たみたいだ」
健司義兄さんの両目に鋭い光が宿る。その色は〝あけぼの〟の左目と同じ青色。
それを見た瞬間、私の胸がざわめいた。理由は分からないのに何かに追い立てられるような不安に駆られる。
「な。急にどうしたの?」
「どんな夢でも、目覚めなければそれが夢だったと気づけないってことだよ」
健司兄さんのその言葉と共に水面が一瞬にして消えた。
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