第47話 その1「目覚めるためのゲームをしよう」
私は今、全てを理解してこの世界に立ってる。
どうしてもっと早く気づかなかったんだろ。
アネットとのゲームでバルコニーから飛び降りた時の浮遊感、『陣取りゲーム』でマスを飛び退く瞬発力、『正義の天秤ゲーム』で渡り廊下から天秤皿に飛び乗った跳躍力、そして怪我したはずの腕がすぐに直ってしまった回復力、思えば普通の人間の能力なんかじゃない。私の頭がイメージした、私の思いどおりになる世界。
ここは治療用のコンピュータが作り出した
そして今、私の前には
「
「そうだよ、玲奈」
「健司義兄さん。全部思い出したよ。なんで忘れてたんだろ」
「嫌なことは隠しておく、ここはそれで保たれてたんだ」
「イヤなことを思い出させるのが治療、ってこと?」
「今を生きるには、正しい過去が必要なんだよ」
「過去に、正しいとか間違いとかあるの?」
「ああ、必要か必要じゃないか、だね」
「必要ない過去ってどうなるの?」
「認識されなくなるだろうね」
「消えちゃうってこと?」
「最初から無いのさ」
お互いの言葉が波紋になって幾重にも交差する。水面には私たちの言葉が溢れ、重なりあうたびに波打ち、相手の前でなだらかになる。澄んだ空間の中で、水上の波紋だけが静かに行き交う。
それは主人公の司と、敵組織のボス――実は司の父親なのだけれど――との最後の会話。
父親と過ごした思い出を美化しすぎている司に、
「その過去はお前を踏みにじっていた。それを認めたくがないため、お前はその男との思い出の記憶を書き換えて後生大事に抱え込んでいるという訳だ。それは、今を生きて、未来を目指す人間の生き方ではない。これからを生きる人間には正しい過去だけが必要だ」
そこで〝あけぼの〟を救い出した彼女は、
どれだけ実際の過去が記憶と違っていたとしても、彼女にとって抱いていた過去は本物で、手放すことなんてできなかったんだと小説を読み終わってそう思ったし、アニメを観て確信した。それは今の私もおんなじだ。事実がどうかじゃない、私が得た実体がどうかだ。
「これまでどんなことがあったのか思い出したよ。だから分かる。いろんな思い出が戻ってきて、忘れたままじゃなくてよかったって思えるよ」
私の声は水面に大きな波紋を作って広がった。
その波が
「玲奈はそう言うが、忘れたい、捨てたい過去もあるんじゃないかい?」
カール王太子が抱いていた人形と同じ、琥珀色の髪、翡翠色の丸い瞳を持つ
私を引き分けにしてデスゲームから助けたのは、本当は現実では目覚めていない私を
私はゆっくりと息を吸い込み、大きく息を吐く。
うん、大丈夫、私は落ち着いてる。
見れば、水面は静寂を保っていて、空は抜けたように透明だ。私と
「お母さんやお義父さんは、
それは小さな声。けれども、私の足元から現れた波紋は確実に孤を描き
私の波紋が到着しても
無風、無音、沈黙だけが流れる。
微動だにしない世界。刻すら止まってしまったのかもしれない。
どれぐらいの時間が流れただろう。
空と水だけの絵画のような空間の中心に居た
左目がブルー、右目がジェードグリーンの生意気な顔をした小猫。
そうだよ、私は彼に会うためにここまで来たんだ。
「――今は俺と玲奈だけだ」
ようやく会うことができた彼から放たれたひと言、それだけで私は全てを悟った。感情を感じさせない、静かで抑揚のない声。それが思い出した記憶の結末だと理解した。つまりお母さんは――。
お母さんの最後が分かったというのに私の心は動揺しなかった。
もしかすると覚悟していたから? 違う、辛いものは辛い、胸が張り裂けそう、叫びだしたい、泣きわめきたい。そう思うのに心が乱れないのは、私はこの作られた世界に来て、アネットやイムに出会って、その気持ちの扱い方を知ったからだと思う。
「そう、なんだ」
「俺を責めないのか」
「なぜ健司義兄さんを?」
「俺が車を運転したせいだと」
「ここに来る前だったらそうかも」
「嫌な記憶は閉じ込めておきたいだろ」
「私はあの日の記憶を思い出せて嬉しいよ」
「嬉しい? どうして? 悲しくないのかい?」
「悲しいのは記憶から消えて思い出せないことだよ」
私の言葉を聞いて
その彼がさらわれて――ううん、違う。さらわれたフリをした彼を助けるため、私はアネットとイムの力を借りてここまで辿り着いた。彼の演技、それはきっと、私が無意識のうちに閉じ込めていた記憶を思い出させるためだったんだと思う。
お母さんのこと、お義父さんのこと、そして健司義兄さんのこと、全てを思い出した私はこれからどうしたいんだろ。
「玲奈、お前はこれからどうしたい?」
私の心を読んでいたかのように
そして私は、ようやく
『レナはレナの道で物語を紡いで欲しい』と、アネットは言った。
『もらったその気持ちをずっと持っててほしいの、デス』と、イムは言った。
だから私は、私が本当に居るべき場所に帰らなくちゃいけない。そこにはもうお母さんはいないけれど、まだ会いたい人がいるのを今はっきりと思い出したから。
「帰りたい。だって、ずっと待ってくれてたんでしょ?」
私の言葉に灰色の小猫はうっすらと笑う。
「強くなったな、玲奈」
「それはきっと、アネットとイムのお陰だと思う」
本当にそう思う。アネットとイムに出会って、死ぬような思いをしながら3人でゲームを切り抜けて、そして私がここに来るのを後押ししてくれた。ふたりは
「2人との記憶は大事かい?」
空と水だけの美しい世界、
私はその波のゆらめきを見ながら小さく頷いた。
「だったら――どうにかしないといけないな」
正方形の中はまるで解像度が落ちていく画像のようにモザイク状になり、灰色一色に染まると多数の正方形に分割されていく。そして、それぞれの四角形が飛び散ったかと思うとまた寄り集まり、細かく細分化されていってひとりの人物の形を作りあげた。
長身で、すらりと伸びた手足。黒い髪は短く、一房一房が整えられている。すっきりとした鼻筋に、涼しげな目元と薄い唇。どこか憂いを帯びた表情は常に何かを考えているようで知的な印象を与える。グレーのジャケットを身にまとい、少し斜に構える彼は、空と水面だけのこの世界を体現しているかのようだった。
この世界に来た時には忘れてて、それでも探し求めてて、さっきようやく思い出して、今こうやって辿り着いた。
――そう、健司義兄さんだ!
足が勝手に動く。何か叫びたかったけれど声にならない。
けれども、近づこうとする私を健司義兄さんは横目で見やると手を振って静止した。
そして、表情を変えないまま薄い唇を開くとこう言った。
「玲奈、目覚めるためのゲームをしよう」
その言葉は私の予想に反して突然だった。
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